< !-- Google Tag Manager (noscript) --> ソ連言語政策史再考

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はじめに

資本主義vs社会主義という体制間対抗に代わって現代世界の最大の焦点として浮かび上がっている問題として、民族・エスニシティーの問題がある。そして、一方では「国民国家の限界」がいわれながら、他方では、旧ソ連・旧ユーゴスラヴィアなどのように、今日まさしく「国民国家」の形成が熱心に進められようとしている地域もあるという錯綜した状況がある。言語は民族を規定する最重要の指標の一つであり、しばしば民族アイデンティティーの根幹ともみなされており、民族・エスニシティーについて考える上で一つの重要な環をなしている。史上最大規模の多民族国家だったソ連についても、このことはひときわ当てはまる。その言語政策について他の諸国の状況と比較しつつ検討することの重要性は、こうした事情から明白である(1)

ある国家において特定の言語の習得が公的政策によって奨励されるという傾向はそれほど古くまでさかのぼるものではない。「国民国家」観念発生以前の「帝国」においては、多民族・多言語・多宗教の包摂が常態であり、特定言語・文化による「国民」統一が図られるということは基本的になかった。もちろん帝国エリートになるためには、支配者の言語の習得および支配的宗教への帰依が要件とされたが、それは非エリート層にまで及ぶものではなかった。

しかし、近代化の進展は、「国民国家」の統一性創出のための「国家語」創出-国家の組織する公教育の普及、「方言」の撲滅と「標準語」の創出など-を促した。フランスなり日本なりの例が容易に想起される。もっとも、あらゆる「近代国家」が一言語による統一政策を採ったわけではない。ベルギー、スイス、カナダなどは敢えて一言語に統一せず、むしろ多言語主義をとった例である。独立後のインドのような場合、連邦としてはヒンディー語プラス英語、州レヴェルでは州ごとの「公用語」制定という複合的な形になっている(2)。それ以外の国でも、最近では、いわゆる「多文化主義」の主張が強まりつつある。このような種々の例を念頭においたとき、ソ連はどのように位置づけられるだろうか。

本論に先立って、ソ連の民族政策-その一環としての言語政策-への視点について簡単に述べておきたい。ソ連が「帝国」の一種だという指摘は、かつては政権によって強く否定され、ごく少数の人によって提起される異論という性格を帯びていたが、ペレストロイカおよびソ連解体以降、急速に広まり、むしろ通説と化した。そのこと自体は異とするに及ばないが、今度は、どのような帝国だったのかという独自性の解明が怠られ、「帝国」一般への還元と糾弾でもって分析に代えられる傾向がある。「帝国」としてのソ連の特異性の解明は、民族・言語の問題を広く考える上で小さくない意義をもっているが、その点が十分意識されないままに、帝国一般に還元されて、その解体も、全世界的な帝国崩壊の時代に遅ればせにつらなったという程度の皮相な受けとめ方にとどまっていることが少なくない。

ソヴェト政権は諸民族の平等や民族自決の原理を掲げ、特定民族の優越性ではなく全人類的普遍性に基礎をおく理念によって自己を正統化した政権だった。もちろん、現実の力関係としてはロシア人が圧倒的優位に立っていたが、建前の世界では、他の諸民族とロシア人とは平等とされ、いくつかの民族には名目にもせよ「主権国家」が与えられた。象徴的なこととして、ソ連の正式名称「ソヴェト社会主義共和国連邦」には「ロシア」を示唆するような地名・民族名が含まれず、理論的には地上のどこにでも当てはまるような呼称となっていた。そしてまた、ソヴェト政権は、少なくとも公的な建前としては、ロシア以外の民族文化・言語の振興政策や、かつて「後進的」とされていた諸民族に対するアファーマティヴ・アクション(積極的格差是正措置)的な政策をとっていた。そうした理念と現実とが著しく乖離していたことは、今日、誰もが認めるところだが、そこから、単純にその建前は空疎な虚言だったと片づけるのでは、その特異性が明らかにならない。事態を単純な「裏切り」「堕落」「民族問題の軽視」「差別の放置・拡大」といったことに還元するなら、問題を深くとらえることはできない。むしろ、建前としての平等化やアファーマティヴ・アクション的な政 策がいやおうなしに抱え込まざるを得ない困難性を尖鋭に示しているという点にこそ、ソ連について検討することの独自な意味があるのではないかというのが本稿の背後にある問題意識である(3)

1. ソ連言語政策史概観

ソ連の民族政策史およびその一環としての言語政策史についてはかなりの研究蓄積があり、共通見解もある程度まで形成されている(4)。そうした共通見解について屋上屋を架すように再確認することは無用であり、またその紙幅もない。とはいえ、いくつかの点については議論が分かれており、筆者なりの一応の見通しをつける作業はやはり必要である。特に、ソ連解体後の一般的風潮として、解体という既成事実から遡及して、すべてを解体につながらざるをえないものとして説明しようとする傾向も一部にみられるが、これは安易である。ここでは、研究史における共通見解についてはごく簡単に確認するにとどめ、やや論争的ないくつかの点に重点をおきながら、流れを追ってみたい。

(1) 帝政末期

帝政ロシア政権は、19世紀半ば頃までは、先に触れた前近代帝国の一般的傾向として、それほど強力な同化政策を進めることはなく、民族的多元性を前提していたが、ヨーロッパからの「国民国家」観念流入の中で、特に19世紀末以降、「ロシア化」政策を強力に推進するようになった。公用語・教育用語はロシア語に限られ、1863年のヴァルーエフ内務大臣の秘密指令および1876年のエムス法は、ウクライナ語による印刷出版、舞台上演、音楽演奏、公開講演、学校教育などをいっさい禁止した(5)。また沿バルト地域では、それまで優勢だったドイツ語に対抗するロシア語化政策が19世紀末以降とられた(6)

このような19世紀末以降のロシア化政策に注目して、ロシア帝国を「民族の牢獄」と特徴づけるのは古くから行なわれてきた一般的見解であるが、それがやや単純化に流れる傾向への批判も近年では増大しつつある(7)。前近代帝国が同化をそれほど強力に推し進めなかったことは既に指摘したが、19世紀後半‐20世紀初頭のロシアは、そうした前近代帝国から近代帝国への転化を、曲折を含みながらたどりつつあった。ロシア化政策がとられ始めてからもジグザグが続いたし、またその領土の広大さ、包括する民族の多様性の大きさから、全土にわたって均質的な政策を貫徹することは極度に困難だった。従って、いくつかの代表的な政策だけをみて実態を推し量ることはできない。帝政期は本稿の主要検討対象よりも前の時期であり、私自身が立ち入って研究していない時期なので、ごく大まかな問題提起にとどまるが、いくつかの注目すべき点に簡単に触れておきたい。

広大なロシア帝国において地域的偏差は不可避であり、全土にわたってロシア語を共通語(交流語)にすることはそもそも不可能だった。ヴォルガ流域ではタタール語、中央アジアの一部ではウズベク語(典拠とした文献にこうあるので、そのまま紹介したが、当時の表現に即していうなら「チャガタイ語」というべきなのかもしれない)、カフカースでは地域によってアゼルバイジャン語(これも当時の呼び方では「タタール語」)、グルジア語、アルメニア語、アヴァール語がそれぞれ「リンガ・フランカ(共通語)」の役割を果たしていたといわれる(8)

次に、19世紀末における諸民族の言語状況をみる一つの手がかりとして、1897年センサスにおける民族ごとの識字率統計をみてみよう。なお、このセンサスでは民族は母語によって区分されているが、識字率統計に関してはいくつかの言語をひとまとめにした大きなグルーピングの形でしか示されていない。信憑性の問題を含め、限界をもった資料であり、これだけで何らかの結論を出すには留保が必要だが、これが入手しうる限りで最も包括的なデータなので、とりあえず一応の出発点として考えてみる。このセンサス・データをまとめなおしたのが表1である(9)。この表から、識字率の相対的に高い民族として、ドイツ人(表では幼児まで含めた全年齢層についての数字を示したが、同じ典拠から10歳以上の年齢層についての識字率を算出すると78.5%という高率になる)、リトワニア人・ラトヴィア人(同66.0%)、ユダヤ人(同50.2%)、ポーランド人(同41.8%)などがある。これらの民族の場合、ロシア語識字と並んで、あるいはむしろそれ以上に非ロシア語(おそらく自民族語)識字が高く、独自の文章語の大衆への普及が進みつつあったことをうかがわせる。「フィン系」の項目に含まれているエストニア人も相対的に高い部類に属する(バルト地域では19世紀末までに文章語が確立していたという(10))。これらに次いで、中位の高さを示しているのが、ロシア人(ウクライナ人、白ロシア人を含む)、グルジア人、そしてアルメニア人(「他の印欧語系諸民族」の項目に含まれている)であり、この辺までが、文章語の伝統およびそれを基礎としたその大衆的利用がある程度まで広がりつつあった民族ということになる(文章語の伝統という問題は識字率とは別個に考察すべきだが、さしあたりこれ以上の手がかりがないので、文章語の大衆への浸透を示す間接的な指標と考えておくことにする)。これに対して、モルダヴィア人(11)(ロマンス語系の項目に含まれる)、チュルク・タタール系(12)、モンゴル・ブリャート系、カフカス山地諸民族、北方諸民族は、この統計にみられる限りでいえば、はるかに識字率が低く、教育が当時はまだあまり普及していなかったことをうかがわせる。

このような状況の中で、帝政政権が脅威を感じなければならなかったのは、第一に、ドイツ語やポーランド語のように、高度の文章語の伝統をもってロシア語に対抗する可能性をもった言語であり、そして第二には、「ロシア語」の方言とみなされていたウクライナ語が自立することだった。こうして、バルト、ポーランド、ウクライナなどでは、ドイツ語・ポーランド語・ウクライナ語を抑圧してロシア語を強制する政策がとられたが、それ以外の地域での政策はやや異なった。

「後進的」とみなされた少数民族に対しては、正教をはじめとするロシア文化を伝えるた めにも、民族言語を利用するという発想が一部にみられた。カフカース、ヴォルガ流域、シベリアなどの諸民族に対しては、一部の民族学者・言語学者・教育家らが政府の部分的協力も得ながら、民族語のための文字の考案(キリル文字を利用)、文章語の創出、民族語による教育普及を試みた。中でも注目に値するのは、ヴォルガ流域を中心に民族語教育を実践し、それを正教布教の梃子にしようとしたイリミンスキーの教育方式である(その背景として、一旦正教に改宗したタタール人[「クリャシェン」という]が大量にイスラームに戻る傾向をみせており、それを食い止める必要があった)。これは、言語的「ロシア化」政策に反するものではあったが、1870年の文部省規則で一応の承認を得た。イリミンスキーの関心はヴォルガ流域からシベリア、カザフスタンへと広がり、その影響も広汎に及んだ(レーニンへの間接的影響については後述するが、日本で日本語による布教をした宣教師ニコライも、ジャディード運動[新方式学校での教育を中心とするロシア帝国内ムスリムの改革運動]の祖たるガスプリンスキー[クリミヤ・タタール]も、ともにイリミンスキーの影響を受けていたという)(13)

そうした努力を担った帝政末期の民族学者・言語学者の中には、ソヴェト政権のもとでも同様の努力を続けた人たちがおり、その意味で帝政末期から1920年代にかけてのある種の連続性をみることができる。19世紀末から20世紀初頭にかけて、言語学や民族学が興隆し、ロシア帝国内諸民族の言語や風俗習慣が詳しく研究されたことは、ソヴェト政権の民族政策にとって、一つの歴史的前提条件となった(14)。直接的連続とは別に、先に言及したイリミンスキーはレーニンの父と密接な接触をもっており、レーニン自身にも秘かな影響を及ぼしたとの説がある。それによれば、正教布教のためにも諸民族の母語による教育を推進すべきだというイリミンスキーの発想が、レーニンにあっては母語教育を通した社会主義化推進として受け継がれ、更には「内容において社会主義的、形式において民族的」という発想のもとになったという(15)

このようにみるなら、帝政末期の言語政策は「ロシア語化」だけで単色に塗りつぶされるものではなく、多面的な要素をもっており、その一部はソヴェト政権初期に引き継がれたということになる。以下、その曲折に富んだ展開をみる。

(2) ソヴェト政権初期

レーニン時代をスターリン時代と対比してバラ色に描く一時期の傾向は今では全く廃れた。民族・言語政策においても、1920年代のソ連が諸民族・言語の同権を完全に実現したとか、民族文化の全面的開花を実現したということはできない。だが、それでも帝政期の公的政策に比べれば、ソヴェト政権は少数民族への母語による教育を普及させ、それらの民族の言語の利用範囲を大幅に拡大したことは否定しがたい。

レーニンは元来、「国家語」概念を否定し、特にロシア語が「国家語」として少数民族に強制されることを強く批判していた(16)。こうした考え方をうけて、初期ソヴェト政権は各民族の言語を掘り起こし、振興をはかった。「母語による教育」はソ連における教育政策の基本に据えられ、特に1920年代のコレニザーツィヤ(現地化)政策の中で民族語振興は大きな位置を占めた。なお、ソ連全体についての「国家語」の存在は否定されたが、個々の共和国や自治共和国についてはそれぞれの憲法で基幹民族の言語が「国家語」と定められ、その振興が図られた(1930年代以降、共和国の「国家語」規定はザカフカースの3国のみに残った)(17)

「現地化」政策は、中央政治指導部にとっては、ボリシェヴィキの政治方針を諸民族に到達させるための手段的な意義を付与されていたが、各地でその政策を現実に遂行する活動家の中には、モスクワからの自立傾向も部分的にみられた。一つには、先に触れたように、帝政末期以来の連続性をもつ民族学者・言語学者や、諸民族の文化運動の推進者などがネップ期の「ブルジョア専門家」利用政策のもとで活躍していたし、もう一つには、そうした民族主義的傾向が共和国共産党の中にも秘かに浸透していた(18)。それに対するモスクワからの引き締めも当然あり、20年代後半には、次第に引き締めの要素が増大した。このことは、次の時期の転換の伏線となる。

こうした政策のもとで、ロシア語は正規に「国家語」「公用語」という法的位置づけを与えられることはなかったが、共通語となることは暗黙に当然視されていた。レーニンは、少数民族に民族自決権を与えれば彼らはそれを行使しないだろうと期待したが(19)、それと同様に、ロシア語の法的押しつけをやめれば自然にロシア語が普及し、共通語になるだろうと想定していたのである(20)

現地化政策は、基本的には諸民族ごとの自治的政治単位の創出を前提し、その範囲内で行なわれたが、当時は、これに文化的自治の要素も組み合わせられていた。ソヴェト政権が領域的自治をとったことを強調するあまり、文化的自治が全面的に否定されたかの如くに説く見解が一部にあるが、正確ではない。共和国・自治共和国・自治州などをもたないムあるいはそうした民族自治単位の外に住むム小規模な少数民族集団に関しても、民族地区・民族村ソヴェトといった小さな単位をつくって(21)、それぞれの母語での教育を推進したり、更には、ある自治地域の中でその地域の基幹民族以外の少数民族がまとまって住んでいる場合には、それらの少数民族言語による教育をも提供するというのが基本方針だった。その意味では、共和国をはじめとする領域単位での教育制度を原則としつつも、それに文化的自治の考えも加味されていたのがソヴェト政権初期(1930年代半ばまで)の政策だったといえる。しかし、各地に多様な少数民族の言語での学校をつくるという政策の実施は、人材不足や技術的・財政的困難にぶつかり、やがて転換を迫られることとなる(22)

従来文章語の伝統が乏しかったり、大衆的に普及していなかった民族の場合、民族語による教育の前提として、文字改革の必要があった。文字をもたなかった民族(北方諸民族など)や、宗教関係以外の場面での文字利用がそれほど広がっていなかった民族(ムスリムの間では、民族差もあるが、概していえば文盲率が相対的に高く(23)、また伝統的なアラビア文字はチュルク系言語の表記に適していなかった)について、新しく文字が考案された。その際、1920年代に基本とされたのはラテン文字化だった。もっとも、一部のムスリム地域では、世紀初頭以来のジャディード運動の系譜を引く人たちが独自の改良アラビア文字論を唱え、その実践も始めていたので、ラテン文字か改良アラビア文字かの論争が続いたが、20年代後半にラテン文字論が優位となった(24)。キリル文字は帝政期のロシア化政策の記憶と結びついていたので、20年代にはキリル化はあまり考えられず、それどころか、一部にはロシア語をもラテン文字化しようという主張さえあった。こうして、30年代半ばまでの文字政策の基本はラテン化だった(25)。もっとも、これにはいくつかの例外があり、グルジアとアルメニアのように古くから独自の文字と文章語をもっていた民族はそれぞれの文字を維持したし、また非スラヴ系でも正教が広まりつつあった諸民族(チュヴァシ、モルドヴィン、オセチアなど)については、革命前のイリミンスキー派の努力でキリル文字が使われだしていたため、引き続きキリル文字が使われた(26)

このような政策のもとで、識字率の向上がみられた。民族別で長期に一貫した統計がないので、1926年と39年のみの民族別の統計(表2)と長期的な共和国別統計(表3)を組み合わせ、また表1ともあわせてみるしかないが、1930年代までに全体として大きな向上がみられ(27)、かつての民族間格差も次第に縮小しつつあったことは明白である。但し、この統計では、ロシア語についての識字とその他の言語についての識字とが区別されていないし、「識字」の実質についてはなお立ち入った検討の余地が残されている。そうした留保はあるが、ともかく初等教育の普及と識字率向上、そこにおける民族間格差の縮小に関する限り、ソヴェト政権がそれなりの成果をあげたことは否定しがたい。

(3) スターリン時代

スターリン時代に民族・言語政策の大きな転換があったことはよく知られている。もっとも、それを1920年代の「現地化政策」からの突然かつ明確な断絶として描くのは過度の単純化である。1930年代の転換は必ずしも意識的・体系的なものではなく、むしろいくつかの要素が逐次積み重なる形で生じた。

転換の第一の要素としてあげられるのは、1920年代末から30年代初頭にかけての「上からの革命」の中で、政治的統制と中央集権化が強められ、各地で中央の介入による現地指導部および「ブルジョア専門家」への批判・更迭が展開されたことである。これは、それまでの現地指導部および専門家・活動家たちによって担われていた「現地化」政策の部分的撤回を伴った(前述のように、「現地化」の「行き過ぎ」への批判は20年代後半からあり、その延長でもある)。

もっとも、このことの基本的な意義は全般的な政治的中央集権化の一環という点にあり、それは必ずしも「ロシア化」とイコールではなかった。もともと20年代「現地化」政策はモスクワの政策をよりよく伝達するためという手段的意義と、それを民族主義的な見地から利用しようとする傾向との二面性があったが、後者は否定されても前者は残った。1930年の第16回大会でスターリンの掲げた「内容において社会主義的、形式において民族的」(28)というスローガンは有名だが、これは1925年に使われた「内容においてプロレタリア的、形式において民族的」という定式(29)をうけるものであり、特に新しくはない。二つの定式に原理的な差異はなく、政策としては連続性がある(30)

「上からの革命」期の特徴として、ロシアの伝統文化は当時はまだ否定的にとらえられていたことも想起する必要がある。象徴的には、反宗教闘争が強められ、正教もイスラームもともに激しく弾圧された。ということは、この時期におけるイデオロギー統制の強化は「ロシア化」という性格のものではなかったということである。当時は、ロシア・ナショナリズムの高揚もまだみられなかった。この時期にはまた、他の文化領域における各種の「死滅」論(法の死滅論、学校死滅論、家族死滅論など)と呼応するように、一部の言語学者・民族学者が言語・民族の単一融合化(いわばそれらの差異の死滅)という展望を唱えた。言語=上部構造論に立脚するマールの議論もその一環をなした(31)。しかし、他の「文化革命」同様、性急な融合・死滅論は退けられ、民族も言語もすぐは消滅せずに長期にわたって持続するという考えが公式見解とされた。スターリンは第16回党大会の結語で、遠い将来の展望としては全世界の言語は一つのものに融合するだろう(但し、ロシア語になるというのではなく、何か新しい言語であるという)が、それは近い将来の展望ではないとし、ロシア語への融合論を否定した(32)

転換の第二の要素としては、1930年代半ばからの伝統再評価がある。「上からの革命」期における「文化革命」の噴出からの揺り戻しの中で、国家秩序擁護の手段としての愛国主義鼓吹と、民族的伝統の政治的利用が拡大した。かつては専ら否定的にみられていたロシアの民族的伝統・文化が再評価されるようになり、ソヴェト愛国主義鼓吹およびその中へのロシア民族主義の秘かな浸透が始まった。こうした傾向は、「大祖国戦争」を経て戦後期に頂点に達した。

とはいえ、このようなロシア的伝統の再評価は、ロシア以外のあらゆる民族の文化・伝統の否定ム露骨な「ロシア化」政策ムを直ちに意味したわけではない。ロシアに比べれば相対的に従属的な位置を与えられたとはいえ、他の民族の文化・伝統もそれぞれに国民統合に利用された。例えば、ロシア文学がプーシキンをもつようにウクライナ文学はシェフチェンコをもち、グルジア文学はルスタヴェリをもつことが強調されたり、古いペルシャの文学者フィルドゥーシー(叙事詩『シャーナーメ』の作者)がタジク文学の祖として称揚されたりした。もちろん、伝統文化の称揚は、それが権力にとって好都合なものとして利用されうる限りにおいてのことであり、その枠を逸脱する可能性をはらむムないしそのように疑われるム民族的文化人は厳しく抑圧された(33)

ここで、「ロシアvs非ロシア」という枠を離れ、非ロシア諸民族についてもう少し細かく分けて考える必要がある。あらゆるエスニック・グループについてソヴェト政権初期以来の特恵政策をとることは事実上困難であるため、民族文化の保持・発展を奨励すべき「大きな民族」と、それ以外の「小さな民族」との区分に基づく差異化政策ム前者のみへの特恵政策の供与ムが始まったからである(「大きな民族」「小さな民族」の表現は当時のものではなく、ここでの説明上の便宜のために導入した)。それと関係して、小規模なエスニック・グループは、いくつかの主要民族にまとめられるようになり、そのため、認定される「民族」数も減少した(34)。このようにして、共和国をもつ「大きな民族」(そして、それよりはやや度合が落ちるが、自治共和国をもつ民族)については、民族言語・民族文化振興政策が継続したが、他方では、いくつかの「小さな民族」が切り捨てられるようになった。1930年代末には、民族地区・民族村ソヴェトなどが廃止され、散在する少数民族のための民族語学校も大半が廃止された(35)。学校教育で利用される言語の数は長期的に減少しているが、その端緒はこの時期にある(資料的確認は後出)。「大きな民族」についての民族文化振興政策継続と「小さな民族」の切り捨ては、一見矛盾するようにみえるかもしれないが、民族地区・村ソヴェトのような小さな単位が廃止されれば、共和国という大きな単位での「民族」政策はむしろ純化されるから、両者は表裏一体として進行した。

政策転換の第三の要素として、共通語としてのロシア語の強調がある。1920年代から30年代前半にかけては、前述のように、ロシア語を特に押しつけなくても自然に広まるだろうとの楽観論が支配的だったが、その楽観論が破れたとき、法的な義務化の発想が登場した。ロシア語教育義務化に関する1938年3月13日の党中央委員会・人民委員会議共同決定がそれを代表する(36)。なお、ロシア語教育の義務化は、ほぼ同時期(3月7日)の党中央委員会・人民委員会議共同決定で軍の民族部隊が廃止された(37)こととも関係していたとみられる。もっとも、この時点では、第2言語としてのロシア語教育が必修化されるにとどまり、授業用語までロシア語に移行するということは考えられていなかった。また、民族語学校でのロシア語教育は第1学年については導入しないこととされていた(先に軍について触れたが、この点でも、独ソ戦期には民族部隊が復活した(38))。これらの点が変更され、より本格的なロシア語教育拡充が推進されるのはフルシチョフ期のことである(次項参照)。

ほぼ同時期の文字改革(キリル文字化)も、ロシア語習得を容易にするためという狙いがあったとみられる。1920年代にラテン化が進められていたチュルク系諸語、北方諸民族の言語、また沿ドネストル自治共和国のモルダヴィア[モルドヴァ]語などがあいついでキリル文字に切り替えられた(39)。但し、いくつかの例外があり、グルジアとアルメニアは相変わらず独自の文字を維持したし、少し後にソ連に編入されたバルト3国の諸民族も、かねてより独自の文章語の伝統をもっていたので、ラテン文字を維持した。特異な例はアブハジアで、ここではかつてキリル文字の実験があったにもかかわらず、この時期にはグルジア文字化政策がとられた。以後、1950年代半ばまで、アブハジアは強烈なグルジア化政策にさらされることとなる(40)

(4) ポスト・スターリン時代

他の多くの政策領域においてと同様、フルシチョフ期の民族・言語政策には微妙な両義性があった。一方では、スターリン時代の極端な抑圧は取り消された(民族政策に関わる例としては、追放された諸民族が名誉回復された)し、分権的な政策もある程度試みられた(共和国の権限拡大と国民経済会議導入)。幹部政策についても、事実上、「現地化」政策が復活した(特に、共和国をもつ「大きな民族」について)。しかし、共和国指導部が自立化の萌しをみせた場合には、厳しい引き締め政策がとられた(典型的には1959年のラトヴィア(41))。そればかりか、フルシチョフ特有の「共産主義早期建設」論と関連して、民族的差異を軽視し、むしろ諸民族の融合を促進しようとする政策もとられた。

言語との関連で重要なのは、1958-59年の教育改革である。この改革により、子供を民族語学校に通わせるかロシア語学校に通わせるかは親の選択によることとなり、その際、ロシア語学校での民族語教育、民族語学校におけるロシア語教育はともに必修でなく選択科目となった。このフルシチョフ改革は、1938年決定から更に一歩を踏み出し、「自由選択」の形式のもとで、「母語による教育」という原則を放棄し、ロシア語化推進の重要な梃子となった(42)

ここで、「自由選択」という形式がどうして「ロシア語化推進」の意味を帯びるのかについて考えておかねばならない。自由選択の背後に当局による誘導や、場合によっては強制が作用するということも当然考えられるが、問題はそれだけではない。たとえ行政的圧力がなくても、通用範囲の広いロシア語と狭い民族語のどちらで子供に教育を授けるかは自由選択だということになると、少なからぬ親がロシア語学校を選択するという点が最大の問題である。民族語学校に通う生徒があまりに少なくなれば、そうした学校は廃止され、ある地域にはロシア語学校しか残らないということも起こりうる。以上は授業用語の選択についての話だが、それと区別される「教科としての言語」についても同様のことがいえる。民族語学校におけるロシア語教育、ロシア語学校における民族語教育がどちらも必修ではなく選択制とされたことは、形式的にいえば、「どちらも選択制で同じ」ということだが、実質的には、民族語学校におけるロシア語教育は大多数が受けるのに対し、ロシア語学校では民族語教育を選択しない者が増大する。こうして、これ以後、長期にわたって、ロシア語教育が拡大され、民族語教育が縮小されるという趨勢が続いたのである(43)

ロシア語学校に通う生徒の増大を示すデータとしては、あまり網羅的なものはないが、わりと珍しい貴重なもの(時期的にはブレジネフ期)を紹介すると、普通学校(昼間部)生徒のうち、ロシア語で授業する学校に通っている者の比率は1974/75年度に64.3%で、これは70年センサスにおける全人口中のロシア人比率53.4%よりもかなり高い。この比率はロシア共和国では96%(人口中のロシア人比率は82.8%)、カザフスタンでは68%(同42.4%)、白ロシアでは51.4%(同10.4%)となっており、これらの共和国ではロシア語による授業が優勢化しつつあることがみてとれる。白ロシアの都市部ではこの比率は97.6%にまで達していた。もっとも、アルメニアのように8.4%(同2.7%)にとどまっていたところもあり、全国の状況は一様ではなかった(44)

フルシチョフ期にはまた、「民族間交流語」としてのロシア語という概念が登場し、ロシア語習得の意義が一層強調されるようになった。従来、あらゆる言語の平等という考えは、事実として守られなくとも建前として尊重されてきたが、この時期になると、いくつかの小さな言語は生命力がなく、当然に死滅しつつあると考えられるようになった。教育の分野では、共和国をもたない民族の言語による教育が縮小し始めた。ロシア共和国内で授業用語として使われる言語(ロシア語を除く)の数は、1960年代初頭の47から77年の34、82年の16へと減少した。ロシア語教育に関する全連邦会議は1965年のタシケント会議を皮切りに、以後、繰り返し開催され、非ロシア地域におけるロシア語教育の改善方策を討論した。『民族学校におけるロシア語』という雑誌も1957年に発刊された。かつては否定されていた第1学年からのロシア語教育も徐々に導入された(導入が最も遅かったのはエストニアとリトワニアで、1982年)(45)。こうして、いくつかの民族の言語は切り捨てられて、衰退に向かいだした。ただ、そうした傾向があらゆる地域で同じように進行したわけではないことにも注意しなくてはならない(詳しくは後述)。

ブレジネフ時代は、一方における制度および公的政策面での集権化の進展、他方における建前と実態の乖離の一層の進行によって特徴づけられる。制度的集権化の教育面でのあらわれとして、1966年に連邦教育省が設置され(それまで、教育省は共和国レヴェルにしかなかった)、また1973年には連邦レヴェルで教育法制を統一するための教育基本法が採択された。「諸民族の接近と融合」「ソヴェト人」といった概念は以前からもあったが、ブレジネフ期に一層強調されるようになった。もっとも、こうした言葉は単なる「お題目」にとどまる傾向が強く、現実的施策への反映は限られていた。また、幹部安定化政策に伴い、共和国エリートの「封建領主」化と秘かな体制内的民族主義の広がりがみられた。

1970年代半ば以降、ロシア語教育拡充政策が更に強められた(但し、77年憲法45条でも「母語による教育を受ける権利」は明記されている)。例えば、学位論文の言語について、1975年12月29日閣僚会議承認の学位規則の第83項は次のように定めた。最終試験(защита)は、関係者の合意がある場合に限り、提出者の母語で行なうことができる。論文本体・要約・会議記録などの文書はすべてロシア語でソ連学位委員会に提出される。論文の主要部分が他の言語で発表されている場合には、そのロシア語訳を学位論文付録として添付する(46)。これによって、事実上、修士・博士論文はすべてロシア語で提出(他の言語で書いた後の翻訳にもせよ)せねばならなくなった。もっとも、この決定は後に取り消されたともいわれる(47)。規則自体も、先に紹介したように、運用の幅があった(論文本体を先ず民族語で書いて、そのロシア語訳を添えるという形をとることもできるし、最終試験は条件付きにもせよ、民族語で行なわれうる)から、その運用がときとところによって変わったということはありうる。

1978年10月13日には、非ロシア語学校におけるロシア語教育の水準向上のための措置を規定した閣僚会議決定が採択された(48)。同年12月6日の高等教育・中等専門教育省命令は、大学・中等専門教育におけるロシア語使用の拡大を促した(49)。これに続いて、1979年5月に、ロシア語教育に関するタシケント会議で、民族共和国におけるロシア語教育の意義が強調された。この種の会議は以前からも行なわれてきたが、今回のは特に大がかりで、当局の取り組みの積極化を象徴した。課外活動におけるロシア語教育、就学前教育施設でのロシア語教育普及、就学前教育施設でロシア語を教えられる機会のなかった児童のため、小学校にロシア語補習クラスの設置、ロシア語教育法の改善などが指示された(50)。この会議の後、ロシア語教育強化の政策が続いたが、実際の履行は地域格差が大きかった。農村部では就学前教育施設があまり設置されていなかったが、これは中央アジアで特に深刻だった。他方、ラトヴィアやエストニアではロシア語教育拡充政策への民族的抵抗がみられた(51)

このようにみてくると、少なくとも公的政策の方向性に関する限りは、ロシア語教育拡充志向が明らかであるが、ソ連の研究者(ペレストロイカ以前の)はこれについて次のような説明を行なっていた。1950年代半ばまでは授業用語として民族語を使う傾向が続いていたが、その時期に、授業用語の数は頭打ちになり、減少に向かった。というのも、自治共和国・自治州などの小さな民族は、中等教育を全面的に民族語化することに消極的だったからだ、というのである(52)。また、タタール自治共和国の例に即した研究(1973年刊)は、村のタタール語学校をロシア語学校に転換してほしいという教育省あての投書が増大していること、親は子供をロシア語学校に送りたいと希望するものが多いが、その希望に比べてロシア語学校が少ないため、希望が満たされない状況があることなどを指摘し、ロシア語教育の増大は住民の自発的希望に応じたものだと主張している(53)

これらはソ連時代にモスクワの研究者によってなされた研究であり、当時の公的政策の擁護論的色彩を帯びていることは明白である。しかし、現にロシア語の通用範囲が広く、その習得が社会的に有利という状況がある以上、親が自分の子をロシア語学校に送りたいという希望をもつのは自然だということも否定できない。上に紹介した実態調査のデータ自体を疑うべき理由もない(これらの研究は、旧ソ連の社会学・民族学研究の中では相対的に上質のものとして、評価の高いものである)。ロシア語普及政策はそうした住民の希望を満たすためという形をとって進められたという面もあったということを否定するわけにはいかない。

2. ソヴェト体制末期における言語状況

(1) 問題の所在

以上にみた政策史の流れから、ロシア語教育拡充が1938年決定、58-59年教育改革、70年代後半以降の政策というおよそ3段階のステップを踏んで図られてきたことは明白である。だが、そうした政策の流れと現実の言語状況との関わりは別個の考察を要する。政策面におけるロシア語教育重視という流れから、諸民族のロシア(語)化の進展を一義的に結論するのは性急に過ぎる。

先ず、公的な政策についても、必ずしも一方的・全面的なロシア(語)化を志向するというのではなく、民族語とロシア語のバイリンガル化が大きな基本原則だった(但し、バイリンガリズムが要請されたのは非ロシア民族についてであって、ロシア人は、たとえ非ロシア地域に住んでいても、現地民族言語の習得をとりたてて要請されないという片面的バイリンガリズムである)ことを確認しておかねばならない。特に、共和国をもつ民族ムおよび、それよりはやや劣るがタタール、バシキールのように大きめの自治共和国をもつ民族ムについては、母語による教育の原則が維持されていた(但し、ロシア語による教育への移行を排除してはいなかったから、いくつかの地域では移行が進んだ)。他方、それよりは「ランクの低い」民族の場合、低学年では授業用語に民族語を使い、学年があがるにつれてロシア語での授業に切り替えていくム但し、上級生にも「個別教科としての語学」としての民族語教育は一応維持するムという混合的な方針がとられた(これもあらゆる民族に徹底したわけでなく、規模の小さな民族や、自己の民族的領域外に住んでいる人については母語教育が切り捨てられた)。

概括的にいえば、階層的な言語政策であり、ロシア人についてはモノリンガル(もし彼らがロシア語以外の言語を習得するとすれば、それはソ連の諸民族言語よりも英語・ドイツ語などの外国語となる)、非ロシアの大民族については母語教育とロシア語のバイリンガル化、そしてより小さな民族については徐々に母語教育も減退し本格的なロシア語化、という風にまとめることができる。

問題は、こうした政策が現実にどのように反映していたのかという点にある。一方では、「ロシア語と並んで民族語も維持」という建前にもかかわらずロシア語への一方的移行が進行したのではないかという疑惑があり、他方では、ロシア語普及キャンペーンが空回りし、政策当局が志向したほどにはロシア語は普及しなかったのではないかという疑問を出すこともできる。特にブレジネフ期には政策と実態の乖離が大きく、それを見定めることはしばしば困難である。

1978年グルジア共和国憲法制定に際して、当初「国家語=グルジア語」規定が削除されようとし、大衆的抗議デモにあって復活したという経緯は有名だが(54)、この事件なども、当初案に着目してロシア語化推進への当局の強い意志を示したものと解釈すべきか、それともむしろ腰砕けになったという結果を重視して、そうした政策はそれほど強烈にとられなかった例だと解釈すべきか(なお、前述のように、このときに学位論文のロシア語化決定も取り消されたとの説もある)、微妙である。

中央アジアでは、現地語での出版物が1960-70年代に増大した。また、かつて多かったロシア語からの借用語(その中には、スターリン時代に、現地語表現がありながらロシア式表現に置き換えられていたものが含まれる)が減少して、現地風の言い回しに代えられる傾向がみられた(55)。モルダヴィアでも、語彙の中でロシア語からの借用語が減少し、むしろルーマニア語的な造語が使われるようになった(56)。民族言語の語彙における「脱ロシア語化現象」はバルト諸国についても指摘されている(57)。これらの事実は、少なくとも現地民族言語の衰退が一方的に進行したわけではないことを物語っている。

ここで必要なのは、現実の言語状況のデータによる実証的な検討である。ロシア語教育拡充政策が唱えられたからといって、それが直ちに「ロシア(語)化」につながったとはいえない。少なからぬ研究者がデータの丹念な検討抜きに安易に政策と現実を直結しているのを批判したアメリカの研究者ブライアン・シルヴァーは、大民族(但し、ウクライナと白ロシアを除く)については、母語による教育が維持されていること、より規模の小さな民族の場合も、授業用語はロシア語に移行しても教科としての民族語が教え続けられていることなどを強調し、ロシア語習得者の増大は民族語喪失の増大を直ちに意味するものではなく、民族語とロシア語のバイリンガル化を意味すると主張した(58)

このシルヴァー説はペレストロイカ以前の資料状況の範囲内では精緻なものとしての価値をもっていたが、ペレストロイカ以後の新しい情報は、「母語維持」の度合が従来の統計では過大評価されていたことを示した。その意味では、シルヴァー説は修正を要し、むしろ彼に批判された側の見解に一定の理があったことになる。しかし、ペレストロイカ以降の状況の中では、諸民族の「ロシア(語)化」傾向が過大に強調される風潮もあり、それに対する歯止めはやはり必要である。シルヴァー説は一定の修正を施した上で、それなりになお有意味なものといえる(59)

確かに、公式統計では母語維持度が過大評価されていたが、それにしても、民族語を完全に知らなくなっていたり、それへの愛着が消滅していればそれを「母語」と答える人も少ないだろうから、その意味では公式統計における母語維持度はある程度までは現実を(誇張を含めつつ)反映していたと考えることができる。実際問題として、全面的ロシア語化(民族語の完全な放棄)よりもバイリンガル化の方がとりあえず進行しやすいから、前者よりは後者の方が多かっただろうし、後者は、ともかくも民族語が大なり小なり維持されていたことを意味する。とはいえ、少数民族言語は使用場面が限られ、公的な場面になるほどロシア語を使用する度合が高くなるという意味で、ロシア語の優位化・民族語の劣位化傾向は否みがたいだろう。つまり、完全なロシア語化でもなければ、完全な民族語保持でもなく、ロシア 語優位でのバイリンガル化が相当広汎にわたってみられたと考えられる。

いずれにせよ、言語状況は政権の政策のみによって自在に変えられるものではなく、数多くの要因の複合的作用を受ける。そして、それらの要因は民族ごと、地域ごと、社会層ごとに異なるから、ソ連全体について十把一からげに論じるのではなく、よりきめの細かい分析が必要となる。以下は、そうした分析への一つの試みである。

(2) 状況

以上の問題状況を念頭におき、若干の統計データを用いて、ペレストロイカ開始時点における言語状況の確定を試みてみよう。もっとも、言語状況はそれほど短期間に一挙に変わるものではないので、検討対象を厳密にその時点に絞ることはせず、1970-80年代というやや長めの時期をとり、その中でペレストロイカ開始時(1980年代半ば)に相対的な力点をおくことにする。

分析に入る前に、統計についての補足的な考察が必要である。「民族」にかかわる統計をみるとき、これが集団としても-何をもって「民族」とするか、どのようなカテゴリーを立てるか-、また個人としても-民族帰属確定が難しい個々人をどの「民族」に帰属させるか-議論の余地があり、公式データは決して絶対的なものではない。また、そうしたカテゴリー化や統計のとり方が時期によって揺れているため、通時的変化を追う際に必ずしも統計上の連続性が保証されないという問題もある。しかし、だからといって、統計上のカテゴリーなり具体的な数字なりに全く意味がないとして退けるのは性急である。このようにいうのは、一つには、さしあたりの手がかりとしては人口センサスを中心とする公的統計によるしかないという事情にもよるが、それだけではない。

およそあらゆるカテゴリー化というものは、どのような基準をとってどのように区分を設定するか、各個体をどのカテゴリーに帰属させるかについて解釈の余地が常にあり、絶対的・固定的なものではなく、ある意味で恣意性や政治性にとりまとわれざるを得ない。とするなら、「恣意的でない」「正しい」カテゴリーというものは本来求められないものだということになる。あるカテゴリーを「人為的」「政治の産物」といって拒否する議論は、往々にして、それとは別の「真の」「自然な」カテゴリーを暗に想定する傾向があるが、これは一つの恣意に他の恣意を対置することにしかならない。また、たとえ絶対的・固定的ではない にしても、とにかくあるカテゴリーが現に広く用いられてきたという事実は、 そのこと自体 が人々の意識に働きかける(登録に際しての自己意識再確認=固定化、またあるカテゴリーに属するが故のアファーマティヴ・アクションの恩恵あるいは逆にそれからの排除など)ことで一つの現実となる。そうしたことを念頭におくなら、ソヴェト期を通して-そして部分的変容を伴いながら今日でも-使われてきたカテゴリーというものは、それを絶対視しないという慎重な留保さえ忘れなければ、なにがしかの「現実性」を帯びたものとして、それなりに有意性をもっているということになる。

以上は一般論だが、更に、「母語」「第2言語としての習得」については特殊な配慮が必要になる。詳しくは別のところで論じたので(前注59と同じ)、ここでその結論のみ述べるなら、民族語が「母語」として維持されている度合は公式統計では過大評価されている可能性が大きく、その数字を絶対数として信頼するのは危険だが、諸民族間の相対比較に関してはそれなりに利用できると思われる。以下で諸種の数字をあげるのはそのような意味においてであり、絶対数よりもそれらの相互比較に重点があることを断わっておく。

以上のことを念頭においた上で、言語状況を示すいくつかの統計をみていくことにしよう。先ず、諸民族が自民族語を母語としている比率を示したのが表4である(原表にあるあらゆる民族を取りあげると過度に複雑になるので、とりあえず1989年に人口100万以上の22民族を抜き出した)。

民族語が母語である者の率(以下、「母語維持率」と記す)は、少なくとも表に挙げられるような規模(人口100万以上)をもつ民族について、そして公式統計にみられる限りでいえば、概して非常に高い。例外的に母語維持率の低い諸民族について、それぞれの事情を簡単に考えてみるなら、次のような特殊事情が指摘できる。ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人の急激な低下は、固有の自治地域をもたないこと(ユダヤ人自治州は実質的な民族自治地域ではない、ドイツ人自治共和国は独ソ戦開始直後に廃止された)、また特定地域にあまり集中せず、分散して住んでいる度合が高いことによる。モルドヴィン人、タタール人もディアスポラ(分散)度が高い。ウクライナ人とベラルーシ人は東スラヴ系であるためロシア化されやすい(元来、帝政期にロシア化がかなり進んでいたのがソヴェト政権初期の政策で一旦母語維持率が上昇し、その後、再び低下した(60))。バシキール人は同系統のタタール語に同化されやすい(バシキール人の通時的な母語維持率上昇は「タタール離れ」を示すと考えられる)。チュヴァシとモルドヴィンはともに正教徒が多く、ロシア化しやすい。

これら以外の諸民族は大体みな母語維持率が高いが、その中でもやや低下傾向がみられるのは、ディアスポラの多いアルメニア人、共和国内のロシア人比率が高いモルドヴァ、ラトヴィア、エストニア、カザフ人ということになる。

次に、出版での利用度についてみる。上で検討対象とした22民族からドイツ人とポーランド人を除いて1985年についてつくったのが表5である(この両民族の言語についても出版に関するデータがあるが、ソ連でドイツ語やポーランド語で出版された本は、国内のそれら民族向けというよりも輸出向けの比重が大きいのではないかと思われ、比較に適さないので除外した)。なお、原表によると、ソ連で出版活動が行なわれている言語の総数は65となっている。これは外国語を除いた数字であり、このような量的指標による限り、ソ連における出版活動はかなり言語的に多彩だったようにみえる。

人口当たりの点数でみると、バルト3民族の言語とグルジア語が最上位を占め、その次がロシア語となっている(但し、一人当たり部数でみるとロシア語がエストニア語に次いで第2位に浮上する)。それ以外の言語での出版活動ははるかに不活発だが、その中ではアルメニア語が、人口当たりの部数ではやや多めである。以上の5ないし6言語(アルメニア語はボーダーライン)が、出版の比較的盛んな言語ということになる(61)。これに対して、ウクライナ語、ベラルーシ語が最下位近くに位置することが注目される(ウクライナ語は部数でみるとやや多めだが)。これら両言語を母語とする者は、母語よりもむしろロシア語の出版物を読むことが多かったことが示唆されている。

次に教育での利用度についてみる。数学・理科の教科書が何カ国語で作成されていたかの通時的変化を追った表(アンダソンとシルヴァーが作成)によれば、1934-40年の64言語から1941-45年には49に減り、その後しばらく横ばいだったが、1966-70年には39、1976-80年には35と減った。しかも、高学年になるほど、数学・理科を民族語で教える度合は低下する。これに対して、語学・文学の教科書に使われる言語の数は、長期的減少の趨勢はあるものの、その減少度は数学・理科ほど急激ではなく、また高学年でも維持される傾向がある(62)。これから判断するなら、授業用語の数の減少はスターリン時代後期およびブレジネフ期に特に顕著に進行したことになる。

諸言語が普通教育で授業用語として使われる場合、それは何年生までかということも考える必要がある。全国にわたるデータは見出すことができなかったが、表6は1970年代初頭のロシア共和国の状況を示している。10年生まで使われているのは、連邦共和国をもっている民族でロシア共和国内に多数住んでいる民族の言語(もっとも、ウクライナ人、白ロシア人はロシア内に多数住んでいるのに、彼らの言語が使われていないことは注目に値する)の他は、タタール語とバシキール語のみである。次いでヤクート、トゥヴァがやや「厚遇」されており、この辺までが、「小さい民族」の中で相対的に「大きめ」にランクされていることになる。それ以外の言語ははるかに軽視されており、ランクの差が一目瞭然である。なお、授業用語と区別される「教科としての言語」はもっと高学年まで教えられており、多くの民族言語が10年生まで教えられているが、それでもアルタイ語、アヴァール語、カルムィク語、ウドムルト語などは8年、ネネツ語、チュクチ語、エヴェンキ語などは3年、マンシ語、ハンティ語、エヴェン語などは1年だった(63)

教育での利用度でもう一つ問題になるのは初等・中等教育と高等教育の区別であるが、表7はこれを示している(但し、共和国をもつ民族のみについて)。この表から、大まかに3つのグループを分けて考えることができる。@一般教育・大学ともに、民族語の利用率が人口比とほぼ同じかやや高い共和国。これに該当するのはロシアの他、バルト3国、グルジアである。このほか、アルメニア、アゼルバイジャン、ウズベキスタンは、このグループとAの中間に当たる。A一般教育での利用率は人口比とほぼ等しいのに、大学での利用率は顕著に低い共和国。これは中央アジアの大部分およびモルドヴァである。なお、カザフスタンは中央アジアの中では例外的に、一般教育が民族語で行なわれる比率が人口中の基幹民族比より低いが、これは第3グループにやや近い状況ということになる。B一般教育・大学ともに(そして特に後者で)人口比より顕著に低い共和国。ウクライナとベラルーシがこれに当たる。

このような差異は、次のような要因によって条件づけられたものと考えられる。第1グループは、各民族の文章語が革命前から大衆的普及を開始しており、また民族語による学術研究が確立しているため、高等教育でも使用可能である。第2グループに含まれるのは、「後進的」とみなされている共和国基幹民族であり、《初等教育は民族語で、高等教育はロシア語で》という使い分けが特徴的である(こうした使い分けはソ連に限らず、世界中の多くの国ムその国の民族言語を使う人の人口が比較的少数で、世界的な出版市場をもちえない場合ムで一般にみられる現象であり、その多くの場合、高等教育は英語やフランス語で行なわれる)。そして第3グループは、ロシア語との近接性のために、高等教育ばかりか一般教育までもロシア語に移行する度合が高い。

統計的検討の最後に、表8は各共和国の基幹民族がロシア語を習得している度合と在住ロシア人が現地民族語を習得している度合を示したものである(64)。全体的な趨勢としては、非ロシア諸民族がロシア語を習得している度合は相対的に高く、かつ上昇しつつあるのに対し、ロシア人が現地民族語を習得している度合は相対的に低く、かつあまり上昇傾向をみせていないという大きな対比がある。そのような一般的傾向の中で、細かくみると、いくつかの特徴がある。先ず現地民族の側に即してみると、ロシア語習得度が相対的に高いのは、東スラヴ系の民族(ウクライナとベラルーシ)、および住民中のロシア人比率の高い共和国(ラトヴィア、カザフスタン、モルドヴァ)の基幹民族ということになる。他方、ロシア人の側についてみると、現地民族語習得率が相対的に高いのは東スラヴ、バルト3国、グルジア、アルメニアである。ロシア人にとって、ウクライナ語、ベラルーシ語は相対的に習得しやすいし、バルトやザカフカースには独自の文章語の伝統があるため、相対的には習得動機がある(バルト3国のうちリトワニアで最も高く、エストニアとラトヴィアで相対的に低いという差異は、共和国人口中のロシア人比率との逆の相関を示している)。これに対して、中央アジア諸語を習得するロシア人は極度に少ない。

両者を組み合わせてみるなら、特異なグループとして次の二つが目立つ。一つはウクライナとベラルーシで、これら民族の言語とロシア語は相互に近く、互いに習得しやすいので、双方とも習得度が高い(但し、「双方とも」とはいっても、現地人がロシア語を習得する度合の方が高く、その意味では格差がある)。もう一つは中央アジアで、ロシア人の現地語習得度が極端に低く、現地人のみの一方的学習となっている。これ以前に挙げたいくつかの指標では、民族語喪失傾向の強い民族としてウクライナ人、ベラルーシ人が挙げられ、民族語維持度が相対的に高い民族のうちに中央アジア諸民族(但し、都市部を除く)が含められた。しかし、それぞれの地に在住するロシア人が現地民族語にどの程度の敬意を払っているかという観点からみると、両者の関係は逆転し、ウクライナ語、ベラルーシ語はまだしもある程度まで尊重されているのに対し、中央アジア諸語は完全に無視されているということになる。

(3) 類型化の試み


この項では、前項でみたような言語状況の差異を規定する諸要因を列挙し、それらを組み合わせることで類型化を試みる(65)。なお、実際にはここで取りあげる以外の要因もあるし、それらの絡み合いも複合的なので、どの要因がどのように作用するかを一義的に確定するのは非常に困難であり、推測に訴えざるを得ない面も大きい。以下の叙述はその意味で暫定的なものだが、各種統計から大まかにこのような傾向を想定することはほぼ無理のないところと思われる(66)

第一の要因として、ソ連の連邦構造における国家的地位の違い、つまり連邦共和国・自治共和国・自治州・自治管区をそれぞれもつ民族、そうした領域単位をもたない民族、領域単位があるがその外に居住する者、といった差異が挙げられる。こうしたランクの高低が言語状況に影響するのは、教育政策がランクの上下と相関しているからである。

第二に、言語および文化の系統、特にロシアとの近接性が挙げられる。最もロシアに近いのは、いうまでもなくウクライナとベラルーシである。この両民族は、国家的地位のランクからいえば相対的に高いにもかかわらず、ロシア語との言語的近接性(相互の移住・混合結婚も多い)のために、言語的浸透に対して脆弱度が高い(67)

言語系統以外の文化伝統として宗教がある。グルジアおよびモルドヴァはロシアと同じ正教だが、これはロシアから布教されたものではなく独自の伝統をもつので、ロシアの影響を特に受けやすいわけではない。これに対し、ヴォルガ流域のいくつかの民族(チュヴァシ、ウドムルト、モルドヴィンなど)はロシアからの布教で正教が広まったため、これらの民族は相対的にロシア化しやすい。

第三に、革命前にさかのぼる文章語の大衆的普及や学術研究の伝統の有無がある。これも、「高低」を安易に決めることはできないが、とりあえず大まかにいうなら、相対的にみて最も高いのはバルト3国とグルジアであり、そのためにこれらの民族の言語は比較的保存されやすい。それ以外の諸民族では文章語や高等教育の伝統は相対的に弱く、こうした差異が教育における言語に反映する(もっとも、ウクライナは19世紀以来の文章語の伝統をもつにもかかわらず、ロシア語の圧力が強いため脆弱という特殊性をもつ)。なお、アルメニアとアゼルバイジャンは微妙であり、表7では両者の間に大差ないが、表5では一定の差があること、独自の文字をもっていたのはアルメニアだけであること、識字率向上で先行したのもアルメニアであること(表2)から、とりあえずアルメニアを「相対的に高い」グループに入れ、「相対的に低い」アゼルバイジャンと分けて考えてみることができる(この区分はあくまでも暫定的・相対的なものである)。

第四に、都市と農村の差異がある。都市の方がロシア人が多く、教育や行政でもロシア語が使われる度合が高いため、ロシア語化が進みやすい。都市化が言語状況に及ぼす影響は局面によって異なる。都市化が急速に進行中の時期には農村から都市への人口流入が大きく、ロシア語をあまりよく知らない農村出身者が都市に大量にやってくるため、都市住民の「農民化」=「民族化」を進めるが、そのような局面が過ぎた後まで含めた長期的な影響としては、都市化はロシア語の普及を強める。こうした都市と農村の差異は、同じ民族の中での言語状況の地理的差異に反映するが、それだけでなく、都市化の度合が共和国ごとに異なるので、共和国間・民族間比較とも関係する。例えば、中央アジアでは都市化度が低く、いまなお農村人口比が高いので、都市部ではロシア語化がかなり進行していても、共和国住民の平均としては民族語維持度が高くなる。

都市の中でも、特に首都部の特殊性について補足的に触れておく。各共和国の首都では、ロシア人の比率が高く、行政機関でロシア語が主に使われていたので、言語面でのロシア化が進行しやすい。といっても、現地民族がロシア語を母語とするようになるという意味でのロシア化はキエフとミンスク、やや小さな程度でキシニョフ(キシナウ)でみられるのみであり、他の共和国の首都では母語は一応維持されている(これはあくまでも、統計上の「母語」を問題にしているので、実際の使用度からいうと、民族語はもっと掘り崩されていた可能性がある)。他方、共和国首都に住むロシア人が現地民族語を習得している比率は低い。つまり、現地語は一応維持されているが、現地民族がロシア語とバイリンガル状況になっているため、ロシア人が現地民族語を習得する必要を感じないという関係である。やや細かく共和国ごとのデータ(1989年現在)をみるなら、ロシア人の現地語習得率は中央アジアで極端に低く、アルマアタ(アルマトゥ)とビシュケクでは0.6%(この2市ではロシア人の方が現地民族よりも人数が多い)、最も高いタシケントでも3.5%にとどまる。これに対して、キエフでは47.3%、エレヴァン43.3%、トビリシ34.5%、ヴィリニュス32.6%となっている。キエフで高いのはロシア語とウクライナ語の親近性のためだが、ミンスクではロシア化がもっと進んでいるため、ロシア人がベラルーシ語を習得する比率は24.8%にとどまる。エレヴァン、トビリシ、ヴィリニュスで高いのは、市の人口中の現地民族比が高いからだと想定される(68)

第五の要因として、各地域の住民中でのロシア人比率の高低が挙げられる。この比率の高いところの方がロシア語の浸透度が強いことはいうまでもない。この要因は、ロシア人比率の高い共和国(カザフスタン、キルギスタン、ラトヴィアなど)と低い共和国(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジアなど)の対比としても論じられるし、同じ共和国の中の地域差としても論じられる。また、一般に都市部の方が農村よりもロシア人比率が高いので、先に触れた都市・農村の問題とも重なる。ウクライナでは西部と東部・南部・クリミヤの対比が問題となり、カザフスタンでは北部と南部の対比のほか、都市と農村の対比が大きな位置を占めることになる。

第六に、自己の民族的=自治的領域単位(共和国・自治共和国・自治州など)の外に住んでいる離散者(ディアスポラ)は民族語を失い、ロシア語に移行する傾向がある(ディアスポラになっても自民族語を失わない唯一の例は、いうまでもなくロシア人である)。民族間比較においては、ディアスポラの度合が問題となる。最もディアスポラ度が高いのはユダヤ人で、彼らの大半は今ではイディッシュ語を使わなくなっている。ドイツ人、ポーランド人がそれに次ぐ。これらよりは拠点に集中しているが、やはり分散的で、民族語喪失度が相対的に高い民族として、タタール人、モルドヴィン人などがあげられる。共和国をもっている民族の中でディアスポラ度が最も高いのはアルメニア人であり、逆にディアスポラ度が低いため母語維持率が一貫して高い典型例はグルジア人およびバルトの3民族である(69)

以上、いくつかの要因を列挙したが、最後に、これらの諸指標を総合的に組み合わせた類型化を考えてみよう。6要因すべてを組み合わせるのは煩瑣に過ぎるし、対象となりうる民族・言語も多すぎるので、ここでは、とりあえず共和国をもつ民族のみについて、大まかな類型設定を試みる(70)。そのように限定することで、6指標のうちの第1は自動的に除かれる。都市と農村については人口中のロシア人比率に付随して考えることにして独立要因から除き、またディアスポラの問題もさしあたり捨象すると、3要因が残る。これら3要因を組み合わせてつくったのが表9である(71)。もちろん、これは概括的な傾向をできるだけ簡略に見てとるための単純な図式であるから、細かくみればこの図式からはみ出す要素も少なくないが、第1次的接近としては、それなりに有意味と思われる。この表は、ソ連の諸民族の言語がおかれた状況が一様ではなく、それぞれの独自性が種々の要因によって規定されることを概括的に示している。このような類型化を踏まえつつ、ペレストロイカ期における言語法論争のあり方を検討することが次の課題となる(別稿「言語と政治」参照)。  

結びに代えて

ソ連の民族・言語政策に関する一般的イメージとして、ロシア語による同化政策推進、非ロシア諸民族の民族性否定、また「分割統治」政策などといったものがある。こうしたイメージが全面的に間違っているというのではないが、往々にして安易な一般化に陥り、ソ連特有の事情や民族ごとの個性差が見落とされがちであることには注意が必要である。こうしたステレオタイプ的認識では、建前としての民族同権、そして非ロシア諸民族の権利尊重というスローガンが完全に空語だったわけではなく、それなりに実施されることでかえって新しい問題を生んだというソ連独自の状況が理解されないことになる。またもう一つには、しばしば政策と現実とが直結され、すべてを政権の(邪悪な)政策から説明する傾向に導きがちである。これは一種の陰謀理論であるが、このような平板な見方によってでは、ソヴェト政権消滅後に民族問題が一層複雑な形で立ち現われてきた現実を説明することはできない。

ここで必要なのは、政策と実態との複雑な交錯を民族・地域ごとの独自性を踏まえつつ解明する作業である。本稿は、そのうちのいくつかの要素を摘出したにとどまるが、ともかく、いくつかの要因の組み合わせによって、言語状況の民族的・地域的差異をある程度まで説明することができた。これはソ連の-そして、その延長にある今日のポスト・ソ連諸国の-民族・言語問題をよりきめ細かく理解する上での一つの出発点となるのではないかというのがささやかな期待である。



Summary in English