< !-- Google Tag Manager (noscript) --> ロシアの韓国中立化政策 -ウィッテの対満州政策との関連で-

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はじめに

本稿では、ロシアが満州を占領した1900年以後日本との開戦に至るまでのロシアによる韓国中立化政策をとりあげる。ロシアの韓国中立化政策は日本の対韓侵略を牽制する目的に起因するものであったが、その背景にあるより本質的な狙いは、満州におけるロシアの勢力を保全することであった。ロシアは「列強の共同保障による韓国中立化」をかかげる一方で、韓半島の勢力圏分割、条件付き満韓交換、「露・日・米三国保障による韓国中立化」、韓半島の一部中立地帯化等を模索した。これらロシアの動きは満州におけるロシアの占領と撤兵の状況に規定されていた。ところが、ロシアは韓国中立化を、上述の意味で「満韓問題」として認識していたにもかかわらず、実際の対日交渉においては、満州と韓国を分離し別個の問題として解決しようとした。それゆえ、満韓不可分の立場をとる日本とこの問題で対立するのは明らかであった。

19世紀末以来、韓半島を対象とした中立化の試みは、周辺諸国の勢カバランスが変化するたびに提起されてきた。韓国が列強の植民地競争から領土と主権を保全するための自救策として提起したものから、周囲の列強が自国の利害のために提起したものに至るまでの様々な中立化案に関する個別研究(2)がこの事実を裏づけている。その中でロシアの韓国中立化政策及びその挫折は、日露戦争の諸原因のうちロシア側に起因するものを考察する上で重要なテーマだと思われる。なぜなら日露両国の公式交渉が結局韓国中立化問題をめぐって決裂したからである。

ロシアの韓国中立化政策についての先行研究は、ロシア政府やウィッテ(С.Ю.Витте)蔵相、現地のロシア公使たちの試みを、相互に関運しない一時的なものとして理解しており、ロシアの中立化政策の根本的な意味について見過している(3)。本稿では、ロシア側が中立化を提起した経緯とその意味を、先行研究の問題点を意識しつつ再検討したい。先行研究の問題点とは、第一に、ロシアの韓国中立化案は韓国の外交チャンネルを通して日本に提起されたというロマノフ(Б.А.Романов)ら(4)の主張と、中立化が韓国の主導下で提起されたというガリペリン(А.Галъперин)ら(5)の断片的な説明をもって、ロシアによる韓国中立化政策の全体を代弁させる傾向をもっていたということである。もちろん、両説は、ロシアが満州占領(1900.7)後、満韓についての利害を日本と秘密に調整する傍ら、韓国側をして中立を表明するように外交圧力を加えた1900年8月から1901年1月までの時期についてのみは的を射ている。ロシアの韓半島中立化案が満州の状況に応じて様々な形で提起されたことは事実であり、それが結果的に日露公式交渉の決裂さえも辞さぬ程の絶対的戦略利益を意味していたという点において、それはロシア政府の対韓政策の根幹にあったものとして理解する必要がある。韓国とロシアが連繋しているという従来の研究は、ロシアの中立化政策の根本的な意図を看過する恐れがある。

従来の研究史の第二の問題点は、中立化が現地公使の一時的な試みとして理解されている傾向(6)があることである。韓国中立化がウィッテの満州政策と共に「一つの」政策として展開されたこと、またニコライ二世の勅命により対日交渉を委ねられたイズヴォリスキ(А.П.Извольский)駐日ロシア公使によって遂行されたロシア政府の対韓政策と一体のものであったことを先行研究は見過ごしてきたのである。韓国中立化政策は、ラムズドルフ(В.Н.Ламздорф)が臨時外相から正式の外相となった後も、ロシア財務省の独自の情報網を通じて対清秘密交渉を主導していたウィッテが、外交に介入し続けた結果であった。外務省と特別閣僚会議が諮間機関にとどまるのみで決定機構ではなかったツァーリ専制政治の特性(7)と、最高決定者であるツァーリの長期療養という事情(8)とが、満州の経営に一貫した方針を持っていたウィッテをして外交を左右せしめることを可能にした。満州占領と撤収の過程にあたってのウィッテの政策履行が、クロパトキン(А.Н.Куропаткин)陸軍相及びベゾブラゾフ(А.М.Безобразов)一派との激しい対立により萎縮したにもかかわらず、本稿が開戦以前の満韓政策の基調をウィッテの政策から考察するのは、以上の理由からなのである。

第三の問題点は、満州占領によりロシアが勢力均衡上の優位を占めていたので無理に韓国中立化を提起する必要がなかったとするマロゼモフらの見解(9)である。この見解は、ロシアの満韓政策を確めようとした日本側の提案をロシアが断り続けたことを理由に、ロシアの中立化イニシアチブとその必要性を否定するのである。この見解については、ロシアの提案に対して、日本が、満州問題か韓国問題かという各々の政策としてよりは、「満韓不可分一体」を含む大陸政策の一環として対応した事実をもって反証できる。ロシアにとって韓国中立化政策は滴州の自国利益の確保を図るためのものであった。他方、日本にとって、韓国は自国の死活に関わるテリトリーであった。満州がロシアの勢力圏内に入ることは、その韓国を脅かすことになりかねないと、日本は捉えていた。それゆえ、日本が韓国中立化を考慮する可能性は、初めからなかったのである。

本稿の目的は、ロシアの韓国中立化政策は、実は満州における自国利益擁護のための戦略であったということを明かにすることにある。満州占領と撤収の状況によって変化した1900-1903年までの対日秘密韓国中立化案の実際の内容の変化を検討し、さらに、1903年8月から始まった公式対日交渉が決裂した経緯についても述べてみたい。その際、ロシア政府が韓国問題を当事国ではない日本と直接交渉しようとしたことに憲目し、先行研究では引用されたことのないイズヴォリスキ駐日公使とラムズドルフ外相間の機密電文(10)を中心として、ロシア政府の韓国中立化政策の展開過程を究明する。さらにその上でロシアの中立化提議に対する日本側の立場の変化(11)と、その変化を招いた欧米列強の態度についてもその輸郭を提示してみたい。

1. 溝州占領と韓半島勢力圏分割案

1900年、ロシアは義和団事件の満州への拡大をきっかけとして満州に正規軍を派遣し、さらに再び韓国に対しても野心をあらわにした。ロシアは、満州占領を既成事実として認めさせるための対清秘密交渉と、「列強の共同保障による韓国中立化」のための対日秘密交渉とを並行して行った。韓国中立化は、ウィッテが述べたように「東清鉄道(シベリア鉄道満州貫通区間)を完成し中国北部での影響力が強くなれば韓国を自動的に取りもどせるので、当分の間日本の侵入から守るための臨時策」(12)であり、政策の優先課題はあくまで満州での実利であつた。

1900年7月初め、ウィッテは東清鉄道の保護と義和団鎮圧のために満州への正規軍派遣をツァーリに要請した。しかし同時にウィッテは、ロシア軍の韓国北部への進入に挑発されて日本が韓国に侵入するのを先んじて防禦しなければならなかった。有事の際の韓国に対する日露「共同保護」や政治・軍事における同等な権利などを規定した「山県-ロバノフ(А.Б.Лобанов-Ростовский)協定(1896)」秘密条款(13)を論拠として、日本が義和団事件をきっかけに韓半島に侵入する可能性があったからである。韓国北部へ義和団が進入し、かつ、ロシアの正規軍が派遣されれば、秩序回復を口実として日本軍が派遣される可能性は極めて高かったのである。それゆえ、両国は各々派兵区域を明かにしなければならなかった。

ウィッテのシピャーギン(Д.С.Сипягин)内相宛の手紙には、日本による韓国派兵の危険性に対する懸念が強くあらわれている(14)。しかも、ウィッテはこの手紙の中で初めて中立化政策を提示したのであった。 (清国の問題で…)ヨーロッパとは何の紛糾も起したくない…日本が韓国に侵入しないか心配である。その時皇帝は何の措置も講じないと言ったが、結局問題が起きるだろう。私は韓国中立化(Нейтрализация)を進言する(15)

韓半島への派兵権をめぐる対日交渉は、「義和団が韓国に拡大する事態に備えて、まず日本と友好的に議論できる条件を作ろう」というツァーリの勅命(16)によって始まった。7月15日、ラムズドルフ臨時外相はイズヴォリスキ駐日公使に「韓半島に隣接しているロシアの安全のために韓半島北部ヘロシア軍を派遣せざる得ないことを日本に知らせ…各々の区域を設定して合意に到ることが最良の方法」(17)と指示した。同日、パヴロフ(А.И.Павлов)駐韓公使にも、「万が一の事態に備え、警傭対策についての承認を高宗皇帝に要請」(18)するように訓令した。また、ツァーリの勅命であることを拳げ、「韓国領内へのロシア軍越境許可」も高宗に要請させた(7.22)(19)

7月19日、これによりパヴロフとイズヴォリスキが各自秘密に日本に提示したのは、軍隊派遣を理由とした韓半島の勢カ圏分割案であった。イズヴォリスキはすぐ伊藤博文と青木周蔵外相に、山県-ロバノフ協定を基にして韓国を二分して守備兵を派遣することを提議した(7.19)(20)。パヴロフも林権助駐韓日本公使を通じて、韓半島北部の防禦はロシアに委ねる代りに日本軍を韓国の西岸仁川に上陸させ、日露勢力圏下での秩序保全のために東京で交渉することを提案した(7.19)(21)

ロシア正規軍の満州への派兵及び義和団の韓国北部への侵入の動きと共に、勢力圏分割を前提とした新たな協定を緒ぶ必要性を日本側も考慮していた(22)。韓国の完全確保に固執することがロシアとの戦争の火種となることを恐れ、ロシアと単独に対立するには財政的、軍事的に不備であるという理由から避戦論を主張した日本の元老たちは、ロシアの提案に積極的に応じた(23)、中でも、既に1896年のロバノフ外相との会談の際、韓国を南北の勢力圏に分割することをロシアに提起していた山県有朋首相は、再び「北清事変先後策」(1900.8.20)の中で大洞江-元山を境とする日露勢力圏分割案を提示した(24)。1900年4月末から5月初めにかけて、韓国における相互統制範囲の分割を内容とする新たな協定締結の必要性を指摘していた伊藤も、このロシアの提案は日本側にも有利であるとして受入れた(25)

一方、青木と外務省は当初から韓半島勢力圏分割案に反対していた(26)。ロシアが日本に韓国分割を提起したが拒絶されたという(韓国)皇城新聞の報道があったのもその時期である(27)。公使たちもロシアの提案に対して懐疑的で、韓半島分割ではなく韓国の完全確保を前提とする満韓交換を主張した(28)。「ロシアが満州へ侵入した好機を利用、日本は韓国でロシアは満州で各々の勢力範囲を確定、互いの自由を保障しなければならない」という小村寿太郎駐露公使の報告(7.22)(29)と、「平壌、元山以北には日本軍を駐屯させないという条件が付いたとしても、韓半島を日本の勢力範囲にする」という提案をロシアに対して行うことを主張した林駐韓公使の報告(7.23)(30)がそれである。このような経過を経て、青木が小村を通してラムズドルフに提示した満韓勢力圏確定案(7.29)(31)は、ロシア側の韓国分割提案の拒絶を意味していた。

青木が満韓交換的な立場をさらに明白にしたのは、8-9月の独米との秘密交渉を通して、両国が韓国を日本の勢力圏とすることに反対せず、日露衝突時も嫁意的中立を守るとの確約(32)を得た後であった。満州でのロシアの立場が強くなるにつれ、膏木も韓国でその代償を得ようとしたのである(33)。趙秉式(Cho Byung-shik)駐日韓国公使が「列強保障下での韓国中立化」を青木に提案した(8.29)(34)の経過からも、青木の意図を理解することができる。青木は、中立化への協力要請を断り、逆に韓国が日本に依存するように趙秉式に圧力を加え、そのため趙の激しい抵抗にあったのである(35)

翌月、イズヴォリスキは、趙秉式の提案について、青木(9.18)(36)、またそれに次いで加藤高明外相(12.20)(37)の反応も探った。このため日本側はロシアが背後で趙秉式を操っていると理解した。特に、イズヴォリスキが加藤に韓国中立化を示唆したことは、「列強の共同保障による中立化」が韓露による陰謀に違いないという誤解を生んだ。実際、ラムズドルフはパヴロフに、「韓国(自身)が中立を主張することが避けられない場合は、まずはロシアに通告してから他の列強と協議するように韓国政府と交渉するべき(12.1)」(38)と訓令した。これは、ロシアが韓国政府に圧力を加え、韓国の外交チャンネルを通して中立化を実現しようとしたものであり、同時にロシアの韓国における政治的優位を再確認させるものであった。

続いてロシアは、満州占領完了後、併合を既成事実化するために清国と交渉を行う傍ら、正式に韓国中立化を日本に提案した。1901年1月7日、同じ日に正式外相となったラムズドルフは、「韓国中立化について日本政府との交渉に着手することをツァーリの勅命によって委任された(1900.12.30)(39)イズヴォリスキを通して、「列強の共同保障による韓国中立化」案を日本に提案した(40)。「中立保障国が一国になろうが二国になろうが、日露から認められることだけで充分である」(41)という前提をもとに、韓半島問題について両国の意見を事餉に調整しようとしたのである。この提案の、これ以上の具体的な内容はわからないが、イズヴォリスキが正式に中立化案を伝える前に、伊藤や井上ら元老たちの意見を探った後の以下の報告から判断すると、この「列強の共同保障による韓国中立化」案は事実上日露両国による韓半島勢力圏分割案ではないかとみられる。

日本政府の韓国中立化に対する条件はよくわからないが、日本の利害は確かに商業的利害及び韓国内部の情勢と密接に関係しており…私は西-ローゼン協定の2条[軍事教官や財政顧問などの任命時には事前協議しなければならないという規定ム筆者]を変更し、韓国に対する統制分野を厳密に見分けるべきだというパヴロフの意見に全面的に同意する(42)

このように満州占領以来堅持されてきたロシアの対韓政策の基調は変化していなかった。

1901年初めの時点で、満州問題においてもロシアが譲歩する可能性がなかったことは、清国に満州の保護領化を強いた過程からもわかる。「満州に対するロシア政府の統制指針(1900.11)」により満州併合方針が再確認されるにともない、清国政府との秘密交渉に拍車をかけたウィッテは、『ロンドンタイムズ(London Times)』によって満州保護領化を目的とした「アレクセーフ(Е.И.Алексеев)-増棋協定(1900.11)」が暴露(1901.1.3)された後も、その協定をより拡大した「13カ条案」を受け入れるよう揚儒駐露清国公使に強要した。対清秘密交渉が暴かれ、ロシアにとって不利な状況にあっても、その高圧的な態度は変らなかったのである。

一方、伊藤や井上ら元老たちが、今回もイズヴォリスキの提案を日本側にも有利なものとして受入れた事実から(43)、当時の日本政界に、満韓における勢力圏分割によりロシァと妥協しようとした親露元老派と、西洋列強との同盟を通してロシアに対抗しようとした外務省小壮派との対立があったことがうかがえる(44)。しかし、満州を中立地帯にする一方で、韓国を日本の独占的勢力範囲圏にすることを駐英公使在任中から主張してきた加藤外相は、初めからロシアの中立化提案を一蹴するつもりであった(45)。加藤は、前年、イズヴォリスキが中立化について言及した時も、「もしロシア政府や貴公使の具体案があればかまわないが、そのような案もないまま意思を打診するわけにはいかない」とロシアの提案を誘導する一方、伊藤首相に中立化案を拒絶するよう諒解を求めた(12.28)(46)。そうした加藤の行動は、ロシアの満韓に対する狙いを知ろうとする彼の意図を示すのみならず、日本外交の中心が徐々に元老から外務省へ移りつつあったことを示している(47)

ロシアが韓国問題を提案する度に、それが満州との関連でなされているのではないかと適切にも疑った加藤は(48)、ロシアの提案についての英国とドイツの反麻を現地公使に照会させた。その結果、「韓国については何一つの政治的利益もない」というドイツの立場と、「韓国問題については中立的」という英国の立場を再確認した(49)。さらに、駐清国公使として(清国)慶親王を通してロシアの満州占取意図を見やぶっていた小村は、前年7月の満韓交換論よりも強硬な立場を取るようになった。具体的には、ロシアの韓国中立化提案を拒否し、満韓同時中立化あるいは満韓問題の同時解決を主張した。つまり、小村は満韓不可分論に態度を変え、ロシアが満州のために韓国を中立化しようとするのなら、日本も焦点を韓半島ではなく満州にあてつつ、韓国問題の解決を図るべきだと主張し始めたのである(1.11)(50)

結局、加藤はイズヴォリスキに、満州東三省からロシアが撤兵しない限り、韓半島における日本の商工業上の優位を認定した「西-ローゼン(Р.Р.Розен)協定(1898)」を改定する気がないことを明らかにした(1.17)。また、同日、加藤は珍田捨巳駐露灸使を通してロシア政府にも、満州の現状維持を前提とした韓国中立化案を拒否することを口頭で伝え、伊藤内閣の対露柔軟路線を完全に転換させた(51)。もはや日本政府は、清国との秘密交渉はデマと主張するようなイズヴオリスキも、ロシア政府も信頼していなかった(52)。ロシアが東清鉄道の終点であるウラジオストクと東清鉄道南満支線の終点である旅順の中間地点である馬山浦を、すでに自国の太平洋艦隊の海軍用地としたにもかかわらず(53)、満州の占領と共に、韓国中立化を提議したのは満韓両方について野心を持っていたからだと加藤は考えた。そのため、加藤は満州の現状維持に反対するという英米の立場を確認した上で、ラムズドルフに抗議書を送った。さらに彼は、内閣に提出した意見書において、満州占領に対する日本の抗議をロシアが拒否する場合、武力に依存しても対抗するべきだと主張した。

結局、ロシアはそうした圧力に屈伏し、既成の対清秘密協定を放棄すると宣言した(4.5)。清国との秘密交渉を以って満州を保護領にし、対日交渉を通して韓半島を中立化することで、満州の安全を図るつもりであったロシアの全ての計画は、失敗に終ってしまった。「以前の状態に均衡が回復されるまで(status quo ante)」中立化諭議は中断するという意見を珍田から聞いた後のラムズドルフの反応(1.23)からロシアの基本方針がわかる。ラムズドルフの「満州問題は基本的に露清間の問題」(54)という言明は、日本とは満州問題に対して議論せず、韓国問題のみ話し含ういうロシアの姿勢を示していた。これは日露開戦までのロシアの一貫した立場であった。

満州問題がきっかけとなった1901年の日露の一時的な衝突危機は、日露開戦時と同様、列強の反露的立場を再確認させるものになった。ロシアとの衝突時、具体的にどれくらいまで日本を支援できるかについて林董駐英公使が英国へ質問する一方、ドイヅが日英を含む三国同盟を摸索したことは、日英接近を促すきっかけとなった(55)。さらに、珍田がロクヒル(W.W. Rockhill)駐露米国公使に、満州の現状維持に反対するという日本政府の意見を極秘に伝えた(1.23)後、ヘイ(J. Hay)国務長官の強い抗議書が露清および他の列強に送られ(2.1)(56)、列強の反露姿勢は一層強くなった。清国との単独交渉に失敗したロシアの不利な立場を利用し、韓国については当面、現状維持するという強硬な立場に変った日本としては、もはや単純な満韓交換に満足するわけにはいかなかったのである。

2. 溝州撒収諭と条件付き溝韓交換案

満韓をめぐってのロシアの対清、対日秘密交渉の失敗と、そしてそれによる1901年春の衝突危機以降、ウィッテの韓国中立化政策は日本との戦争を回避するための条件付き満韓交換論に変っていった。これは満州でのロシアの立場が前に比べ一層不利になったからである。ウィッテの新たな政策は、「満韓問題の同時解決こそ日本政府の立場」(2.22)(57)と述べたイズヴォリスキの報告とも通じるもので、すでに満韓不可分的立場に旋回していた日本外交の変化を正確に感知し、それにある程度順応した結果ともいえるだろう。かつて、ウィッテがヤルタ(Ялта)に滞在中であった1900年10月初め、小村が満韓交換を中心とする新しい協定の必要性を述べたことがある。これをウィッテは、韓国の独立を害するという理由で拒否したのだが(58)、こうした前例と比べても注目に値する変化であった。

ウィッテの新しい政策の輸廓は、1901年6月頃、ラムズドルフが対日戦争の準備状況に関する意見をウィッテに求めた時の返事にあらわれている。つまり、「満州での政治的意図を放粟しても、私企業を利用して東清鉄道の利益は防禦できる。…日本が韓国併合を希望すれば国際的な次元で問題を提起するつもりであるが、たとえ日本が韓国を手に入れても対日開戦の事由とみなすべからず」(6.6/10)(59)というのがウィッテの主張であった。これは、満州でのロシアの私企業による利益保障後の撤兵、ならびに韓国中立問題の国際世論化と要約することができる。つまり、ウィッテは、日本の主張を受入れることにより戦争を避けつつも撤兵前に満州での実質的利益を認めさせること、具体的には、南満州と直隷省を起点として3段階に分けて撤兵するが、撤兵前に「万里の長城から北京に至る鉄道敷設権」と「満州不割譲」の2事項を清国に認めさせることを意図していた。これは撤兵後の列強の満州侵入を防禦し、ロシア勢力が東清鉄道完工以後、北京へ浸透しやすくするためであった(60)

このような目的で、ウィッテは7月25日、「韓国を中立地帯にし、韓国での行政・財政顧間及び最高警察権は日本が持つ代りに、満州でのロシアの優位を認めるよう」(61)珍田駐露公使に提案した。ウィッテがこの時期に、満韓交換による韓国中立化を提案したことは、日英同盟の進展を牽制するためであったといわれる。同盟国フランスに働きかけて、日本の大規模な公債をパリで発行し、日本が資金調達できるように配慮したことなどは、このような政治的意図と密接なつながりがあった(62)。しかしウィッテの新満韓政策は清国との交渉を準備する過程で打ち出されたもので、日本の変化に対応するには時を逸していた。

9月に入って韓国中立化案が日本に提案されたことは、ウィッテの情勢判断が的確でなかったことを示している。その原因は、日本の国内情勢の変化、つまり桂内閣の成立と小村の外相就任の意味を読み誤ったことにある。2回(7.30、8.7)にわたって「小村が北京から帰国すればすぐ交渉を始める」(63)と本国に報告していたイズヴォリスキは、実際、小村が外相になった(9.21)直後に再度の中立化提案を行った。それは、曾禰助蔵相が外相を兼任した約3カ月余りは、日本側に積極的な外交活動が期待できなかったからでもある。さらに、小村との会談後、イズヴォリスキは、「彼(小村)が満州に関しての露清協約(レサール(П.М.Лессар)の対清七カ条案及び李鴻章との会談の内容まで)について知っていたため…満州問題が最後まで解決されない場合は韓国についての意見を交換し始めることすら困難な状況である」(64)とラムズドルフ外相に報告していたから、小村がはっきりとした満韓不可分的立場であったことがわかる。当時、桂太郎内閣(6.2)の対露方針は確固たるものであった。即ち「韓国の完全確保」を前提として英国との同盟締結に遭進し、同盟後ロシアに圧力を加え、目的を成し遂げるというものであった。それは英国との同盟及びロシアとの秘密条約の締結を同時に行いながら、全ての目的を成し遂げるようとする強硬案であった(65)。9月以後、元老たちも桂内閣の原則に完全に合意し、「日本による韓国支配権の掌握をロシアに認定させるという条件で」(66)伊藤のロシア行きを決めた(9.11)。

さらに、韓国、米国、ロシア、清国公使を歴任した小村外相は、満韓問題の解決のために英米とは常に緊密な運帯関係を維持すべきとし、直接ロシアに対応すべきだという、確固たる外交方針を持っていた。小村は義和団事件の最終議定書(北京議定書、9.7)が結ばれた後、本国政府の許可も受けずに北京から儒国の途中に済物浦、馬山浦を視察した(67)。駐韓公使在任中、三国干渉による外交的孤立の中で日本に不利な「小村-ヴェベル(К.Вебер)協定(1895)」を締結することを余儀なくされ、対露コンプレックスを持っていた小村は、加藤より一層強硬にロシアに圧力を加えるつもりだったのである(68)

ウィッテの提案が時期的に不適当であったことのもう一つの理由として、義和団事件の最終議定書の締結以前には、満韓問題をめぐるロシアの対日交渉の成功は望めなかったことが拳げられる。なぜなら、満州問題を露清間の問題に限定するつもりであったウィッテと、日・英・米の支持をもってロシアの要求をおさえようと意図していた清国との間には、問題の捉え方において著しい差があったからである。なおかつ、事前の秘密協議を通して実利を得るため、ウィッテはそれが「撤兵問題とはかかわりがない」と明言しながら、対清修正案(9.4、10.7)と共に「露清銀行協定」の締結を強要した(69)。「適切な代償がある時だけ」満州から引上げ、代りに露清銀行を通して満州・モンゴルの広範な鉱山開発権及び鉄道敷設権を独占するつもりだったのである。しかしウィッテの政策は、満州での商業上の機会均等を主張して露清銀行の独占に反対する米・英と、これらの国から支援を確信していた日・清の反対にぶつかってしまった。ウィッテが満州撤兵の期限を3年から18ヵ月以内に縮めて提議したにもかかわらず(12.2)、日英側と米国の双方からその類の条約に調印しないように警告されていた(70)慶親王が、銀行協定を断り12ヵ月以内の露軍撤収に固執したことによって、露・清間の満州撤兵交渉は難航した。

一方、清国との満州撤兵に関する交渉が未だ妥結しない時期、ウィッテは、伊藤とのサンクトペテルブルク会談で、より具体的な韓国中立化の条件を提示した。両国の交渉は、伊藤がロシアに到着する前に、フランスのデルカッセ(T. Delcasse)外相を通して相互の意思が打診された。この交渉はツァーリの承認の下で行なわれた(71)

日露両国が韓国に対して圧力を加えると、韓国政府はその忠告を聞かざるをえないということを前提に交渉が開始された。特に、伊藤はウィッテに、韓国における日本の商工業上及び「政治的」権限を認めることと韓国問題を日本の自由行動(Free hand)に任せることを再び要求した。その一方で、伊藤は満州におけるロシアの利益を認める意志があることを示した(12.3)(72)。これは、伊藤が以前のような「韓国分割による対露柔軟政策」の立場ではなかったことを意味している。

しかし、ウィッテとラムズドルフは基本的に韓国問題に限定した交渉を希望した。韓国の独立保障、韓国領土の相互軍略的不使用、大韓(対馬)海峡の自由航行等の条件下では韓国を日本に任せることはできても、日本の韓国での軍事的行動は絶対容認できなかったのである(73)。特に、ウィッテは、満州での「自由行動」の代償として韓国での日本の権利を認めることはできないという強硬な態度で一貫していた(74)。ラムズドルフも韓国でのロシアの利益は絶対にあきらめないという立場であった(75)。すでに西-ローゼン協定で「韓国での商工業における日本の優位を認め」たことの代償として、満州でのロシアのフリーハンドについて日本の承認を受ける理由はないと表明していたロシアとしては(76)、露清間の問題である満州問題を韓国問題と結び付けたくなかったのである。

だが、ウィッテとラムズドルフとの交渉をもとにした伊藤案は、クロパトキンとツァーリによって反対され、ウィヅテの韓国中立化政策は国内的にも難航していた(77)。クロパトキンの修正案はさらに強硬になって、日本の韓半島の軍事戦略的使用に反対、ウラジオストクと旅順の間の航行を妨げるおそれのある、韓国南部海岸における日本の要塞建設も許さないとするものであったばかりか(ロシアの満州での自由行動権の承認を日本に要求していた(78)。さらに、韓国をあきらめられないばかりか韓国北部を中立地帯化するというクロパトキンの主張は、ベゾブラゾフの韓国への積極的進出路線とも一致したものであった(79)

結局、ウィッテが新たに作りあげたロシアの修正案(12.17)は、日本による韓半島の軍事戦略的不使用、大韓海峡でのロシアの自由航行保障、日本の韓国での政治的権限耕除、満韓国境中立地帯化などを認め、クロパトキンの案を受入れたものだった(80)。しかし、伊藤は最終的にこの修正案を断った。日英同盟の締結を目前にし、自信を深めていた日本政府の強硬意見が反映されたためであった。桂と小村の意見は、ロシァの軍事行動を鉄道保護に限定し、満州の一部を戦略的に使うことを禁止するというものであった(81)。なぜなら、ロシアによる満州の吸収こそ韓国支配への手順であって、韓国でのロシアの特権を「韓国の独立」に背くこととして促えたからであった(82)。結局、伊藤が、1)日本が韓国に派兵する際、及び日本が韓国政府に助言する際、ロシアとの事前協議を条件とすることに反対、2)露清国境に接している不毛地の中立地帯化に反対、3)韓国に対する日本の自由行動権の制限に反対、4)満州におけるロシアの自由行動などに反対、といった日本政府見解を表明したため、両国の穏健派の接近により成功しそうであった韓国中立化の交渉は再び決裂してしまった。

3. 一次満州撤兵と「露・日・米三国保障による韓国中立化」

ウィッテはロシアの満州での実利について何一つ保障を受け入れられないまま、1902年4月、満州撤兵協定に同意した。これは日英同盟(1.30)が締結され、露清銀行による満州の独占計画が失敗した後であった。予定されていたロシアの一次撤兵(10.8)は、正規軍の白い肩章と襟を財務省傘下の鉄道守備隊の緑色に変え、兵力を市から鉄道区域に移動させたものにすぎなかった。つまり正規軍と鉄道守備隊の区別がないロシア軍の二重性を利用した「撤兵」であった。ロシアにとってより深刻な問題は、撤兵と共に満州の門戸開放が加速化することであった。カシニ(А.П.Кассини)駐米ロシア公使は本国に、「米国の商業利益が保障されれば、満州におけるロシアの行動を妨げない」というヘイの言及を数次にわたり報告した(83)。しかし、ウィッテは、米国が日英同盟陣営に加わらないようにするのがまず先決課題だと考えたのである。それは、米国がロシアの満州撤兵こそ門戸開放(Open Door)に直結するとして強硬な反露戦線を構築していたため(84)、米国の反擾をおさえる必要があったからである。

一次撤兵の直前に提案された、「日・露・米三国保障による韓国中立化」(パヴロフ、イズヴォリスキ、カシニの計画として知られている)(85)は、まさにそのような状況の下で生まれたものである。この中立化案に、米国が保障国として提示されたが、その意図は先行研究においては十分に説明されていなかった(86)。3人の現地公使たちによるこの案は、すぐ米国の強い反対を受けて挫折し、一つのハプニングとして終ってしまった。この案を、当時の日本外務省は6カ月間あまりも鋭意注視した。先行研究は露米接近を防ぐための日本の執拗な努力やこれについての外務省の多くの記録に過剰な関心を注いだために、ロシアの中立化計画を分析する上でこの「三国保障による韓国中立化」案の比重を過大評価したきらいがある。また、この案を重視しすぎた事は、3人の現地公使たちが即興的に韓国中立化を試みたとする説を堅めてしまったと思われる。

「三国保障による韓国中立化」案の挫折過程を要約すると以下のようになろう。この案は、パヴロフが7月31日にイズヴォリスキと会い、さらに9月初めにパリでカシニと議論した後、東京でイズヴォリスキと再度議論しできあがったものだった。この中立化案を本国政府に提出した後、米国政府にも提案するつもりであった(87)。3人のロシア外交官による韓国中立化案についての情報を手に入れた小村は、高平小五郎駐米公使と栗野慎一郎駐露日本公使に、この事態を注視することを命じた。一方、露米接近を防ぐという日本の意図を意識していた米国政府は、ロシアからの具体的な提案は受けていないと日本に最後まで表明していた(88)。結局、日本は、韓国中立化案は米国側に提案されなかったと結論づけた(89)。バック(A.E. Buck)駐日米国公使は初めて栗野にこの事実を伝えたが、韓国中立化案とともに、それに対する小村の反対意見も本国政府に報告した(90)。林駐韓公使がアレン(H.N. Allen)駐韓米国公使から、韓国を中立化することは望ましくないとの言質を得たのもこの時である(91)。ロシアの提案を受入れる意志が全くなかった米国と日本により、「三国保障による韓国中立化」案は初期段階で消えてしまった。

この案は通常言われているような、ロシア現地公使たち独自の策とは言えない。米国の日英同盟加入を防ぎたい一心で満州と韓国での日本の権利を認めた、ウィヅテの政策の延長として理解すべきではないだろうか。ウィッテが撤兵協定に同意せざるを得なかった主な理由も、門戸開放をスローガンとした米国の強い抗議(2.3)が日英同盟に次いで日・英・米同盟につながる危険性を孕んでいたからである(92)。このほか、ウィッテが、満州問題によって悪化した米国との関係を改善するために、米露通商条約の改定交渉をワシントン(Washington)で行うことを提案したこと(93)は、米国の利益を認め、米国の反発をおさえるためのロシアの働きかけの一例であった。ロシアの半官営通信「ノーヴォエ・ヴレーミヤ(Новое Время)」は、すでに1900年9月末に、米国との同盟で英日の連合を牽制すべきだという主張(94)を掲載したことがある。これは、以前に趙秉式公使が青木外相に次いでバック駐日米国公使にも中立化への協力を要請したことと通じるものである。この構想は、結局、バック公使が「駐米韓国公使を通して本国に伝達すべき事案」としてかわしたため挫折したが(95)、こうした試みに、米国を中立保障国にしようとする韓・露の意図があらわれている。また、ウィッテの満州視察結果報告(1902.11)には、彼の韓国中立化政策が含まれていた。ロシアの内部で彼以外これを支持する者がいなかったことからも、この三国保障案がウィッテの政策の延長線上にあったことがわかる。

つまり、ウィッテの報告の趣旨は「適当な代償があれば、当分の間、韓国を日本の統制下に置くことにより戦争を避けるべきだ」(96)ということであった。ウィッテは1903年2月7日の第3次東アジア特別閣僚会議(97)でも再度韓国中立化を提示した。先に述べたように、ウィッテの韓国中立化の内容は、韓国の独立保障・韓国領土の相互軍事戦略的不使用・大韓(対馬)海峡の自由航行という三つの条件であった。クロパトキンは、韓国領土の軍事戦略的不使用という条件を日本が認めれば大韓海峡の自由航行はすでに保障されたのと同じであると述べ、ウィッテの韓国中立化条件全体を批判した。まティルトフ(П.П.Тыртов)海軍省局長も、ロシアの韓国南部馬山浦使用を不可能にする恐れがあるウィッテの中立化条件に反対した。従って、一次満州撤兵前後ロシアの対韓政策の基調は、戦争を回避するためにはしばらくの間韓国を「あきらめる」可能性もあることを示したウィッテの構想から、韓国を絶対にあきらめないというクロパトキン等の政策及び鴨緑江流域への積極進出論を主張したベゾブラゾフの政策へ変っていったのである。結局、一次撤兵前後、ロシア政府内部には、ウィッテを除けば、韓国中立化案に賛成する閣僚はいなかったのである。

一次満州撤兵前からロシア政府内に不安と危機意識があったことは、8月前後の『ノーヴォエーヴレーミャ』の論調が度々変化したことからもわかる。対韓積極進出論(98)、韓国の政治・軍事・外交に対する日・英・米三国の影響力増大への激しい批判(99)、日本との戦争を避けるための日露親善及び協商論(100)等が、この時期『ノーヴォエ・ヴレーミャ』に一挙に掲載されたが、それはロシア内部で政策混乱があったことを示していた。このような東アジア政策の混乱の状況の中でも、ウィッテの韓国中立化政策は一貫して試みられ、三国保障案もこの一部であったのである。結局、三国保障による韓国中立化案は、米国の名を具体的に拳げたことを除けば、1901年1月の「列強の共同保障による中立化」案と大差がなく、今までのウィッテの中立化政策の延長線上にあるものだった。さらに、これまでの中立化の試みの全てがツァーリの勅命によって展開されたことを考慮すれば、この三国保障案もロシア政府の一貫した政策によるものだったとみられる。

間接的ではあるが、日英同盟の後、引続き行われてきた日本の積極的な対露交渉も、ロシアの中立化提案を導いた背景として作用していることにも注目したい。すでに日英同盟を通して、「清国では英国と等しい地位を、韓国ではもっと優勢な利益」(101)を認められた日本は、ロシアとの交渉でも一層優位な立場を占めることができた。小村は、日英同盟の直後、栗野を通じて、西-ローゼン協定をなくして、伊藤・ウィッテ・ラムズドルフの議論をもとにする新たな協定について検討することを、数回にわたってラムズドルフに提議した(2.24、5月、7.23、8.4、9.14)(102)。特に、8月4日の栗野の提議には、満州でのロシアの鉄道権益と韓国での日本の自由行動権の相互認定(103)とが含まれているが、これは同盟締結時に英国から最後まで認められなかった韓国での自由行動権を確保するためであった。これは、「満州でのロシアの権益を鉄道に限定し、韓国を日本の勢力圏にする代りに、一部の鉄道権益をロシアに与える」(104)ことを基本とする桂内閣の対露協商原則と一致するものであった。この案が一年後の日本の対露交渉公式案と大差ないということから、日本の立場が一貫していたことが理解できる。

相次ぐ日本の提案に対し、ラムズドルフは、韓国での日本のフリーハンドという代償をもって、満州でのロシアの全ての利益が承認されるわけではないので、より多くの利益を確保するためには日本が新たな提案をするまで待たなければならないと主張した。その主張は、栗野の提案が公式に議論された第三次東アジア特別閣僚会議でも繰り返された。しかし、ロシアの満韓政策はすでに強硬なものとなっていた。「満州での権益保障と鉄道安全についての確かな保障」がなければ更なる撤兵は繰り下げるしかなく、韓国を日本に与えることを代償としながら対日和解を摸索するのは犠牲が大きいというクロパトキンの主張が優勢になっていたのである(105)

こうした政府内の雰囲気と皇帝の個人的代弁者を自認するベゾブラゾフにより、結局、満韓政策の混乱が招かれたのである。アレクセーエフ(Е.И.Алексеев)関東州総督はベゾブラゾフの煽動で、撤兵完了にもかかわらず牧丹と牛荘を再占領しかつ、シベリアの予備連隊出身の森林護衛兵三百人と清国人服装を着用した六百人を鴨緑江流域に投入した(106)。もともと「鴨緑江利権問題」は、韓国への膨脹計画をあきらめたヴリネル(Ю.И.Вринер)の鴨緑江森林採伐権(1898)に由来するものである。それは、鴨緑江流域の満韓国境こそ満州国境と旅順港との鉄道連結の盾として、満州防衛の際、絶対的に必要な地域というベゾブラゾフの対韓進出計画に起因するものであった。1903年4月の第四次東アジア特別閣僚会議は、満州不割譲(1条)とロシアが満州で獲得した全ての権利の保障(7条)を含んだ対清七カ条案をもって、満州の門戸閉鎖と既存の対清協議を白紙にもどすことを確認した。この後、ベゾブラゾフの対韓進出計画もツァーリから認められた(4.18)(107)。七カ条要求案に対する慶親王のはっきりとした反対(4.22)と、日・英・米の激しい抗議(108)にもかかわらず、満州における利益の保障なしには北満州から撤収できないということが、4月26日の閣僚会議でも再確認され、ウィッテもこれに同意した。

対韓進出強行派に同意する傍ら、「鴨緑江利権問題で日本と戦争は望まず、必要であれば日本の韓国占領を認める覚悟である」と述べたヅァーリの覚書は、ウィッテの意見を最終的に受け入れたものであった(109)。だが、これはツァーリの優柔不断な性格と閣僚達の勢力均衡の上に君臨しようとした彼の意志をあらわしたのみで、日露交渉には何も役に立たなかった。7月の旅順会議(第五次東アジア特別閣僚会議)は、ロシアが満州合併をあきらめることを決定した。しかし、東清鉄道南満支線(哈爾賓-旅順)が完成された7月以後、ロシア政府内では撤収反対の意見が強くなった。その直後のウィッテ辞任(8.15)は、ベゾブラゾフ派としてウィッテと対立関係にあったプレヴェ(В.К.Плеве)内相がツァーリに影響力を行使した結果でもあった。

「対日交渉を含め、東アジア問題と関連した軍事、外交等全ての業務を東アジア総督府がつかさどる」という勅令が宣布されたのと同日、日本から最初の公式対露交渉案が提示された(8.12)。清国と韓国の領土保全、韓国での日本の優位、満州での商工業の機会均等、鉄道権益に限る満州でのロシアの権益など(110)がその内容で、1年前の栗野の提案と大差がなかった。日本の対露交渉の目標は、韓国では日本の絶対的優位確保、満州ではロシアの部分的優位のみを認定する非常に強硬なものであった。この路線はすでに4月21日、ロシアの二次撤兵不履行に対処するため日本の主要閣僚たちが無隣庵(山県の京都の別荘)に集まった緊急対策会議において固められていた。この会議では、「絶対に韓国は譲れない」という前提のもと、「開戦も辞さず」として、ロシアと談判を開始することが合意された。陸軍参謀本部の対露開戦方針確定(6.17)に次ぐ御前会議も、日本が韓国を完全掌握し且つロシァの満州掌握を防ぐという、小村の強硬な対露交渉原則を承認した(6.23)(111)

ロシアが以前の姿勢を変えて、満韓問題を日本と直接交渉し始めたのは、「1年以内の撤兵」を骨子としたロシアの最終的な対清「五カ要求案(9.6)」を、日本の圧力を受けた清国政府が断った後であった。こうしてロシアが韓国問題で日本との交渉の土俵に引きずり出された後、日露交渉の最大争点として残ったのは、韓国での中立地帯設定問題であった。ロシアにとって韓国北部の中立地帯化は、日本との京義鉄道(京城-義州)敷設権獲得競争に終止符を打ち、かつ、日本の満州進出を防ぐための絶対的な要求であった。それゆえ、ロシア側は、満州を自分の勢力圏にし、韓国を日本の勢力圏にすることを認めた、つまり満韓交換的な対日交渉案においてさえ、その第6条には、北緯39度線以北の韓国領土を中立地帯化することを要求した(10.3)(112)。これに対し日本は、鴨緑江西岸の両側50kmのみを中立地帯化することを主張した(10.30)(113)。12月11日、最終的に日本に通達されたロシア側協定草案の内容は、「北緯39度以北地域の中立地帯化と、軍事目的を除く韓国での日本の自由裁量権は認めるが、満州問題においての日本の干渉は認めず」(114)というものであった。これは1年前の栗野の提案と何ら大差ないものであった。日本の最終交渉案(12.21)に対し、1904年1月、ロシアは韓国については自国側の原案を変える気はないと応答した(115)。

戦争勃発の危険を孕んだ情勢ではあったが、サンクトベテルブルクのロシア外務省に伝えられた日本の最終提案に対するロシア側の回答は、旅順の東アジア総督府本部との調整を経て、ツァーリの決裁を受けた後に、初めて東京のローゼン駐日公使を通してなされた。ラムズドルフが私見と断わりながら提示した対日条件には韓国の猛立や領土保全、大韓海峡航行の自由、韓国南部の海岸の非要襲化、中立地帯設定などが含まれていたが、満州については何の言及もなかった(116)。開戦直前の2月にラムズドルフが提示したこの意見は、ウィッテによる韓国中立化条件を繰り返したものにす蓼ず、日本との開戦(2.8)を避けるものにはならなかったのである。

おわりに

以上、ロシアの韓国中立化政策が展開された経緯及びその挫折の過程を、ウィッテの満州政策と関連させて述べてきた。ロシアは西-ローゼン協定と英露鉄道協定(1899)によって満韓での日英双方の利益をいったん了承したが、1900年7月の満州占領をきっかけとして再び満韓に対する野心をあらわにした。韓国中立化政策は、東清鉄道が完工されるまで満州を保全して、日本の韓国侵入を事前に防ぐためのものであった。これは韓国の中立を国際問題化させようとしたウィッテによって創案主導された。

「列強の保障による韓国中立化」のための対日秘密交渉は、満州占領を既成事実として認めさせるための対清秘密交渉と並行して行われた。ロシアの韓国中立化の試みが、韓半島勢力圏分割論から条件付き満韓交換、三国保障による中立化、中立地帯の設定などに至るまで様々な形で提起されたのは、満州占領と撤収の状況に呼応してロシアの対韓政策が変化したためであった。満州占領時には、ロシアは既存の日露協定に代えて、韓半島の勢力圏分割をはかろうとした。しかし、中立化の対日提案と清国との単独交渉が全て失敗に終った1901年春以後は、満韓交換による韓国中立化案が、条件付き満州撤兵と共に提起された。勿論これは日本との戦争を回避することを目的としていたが、あくまで韓国でのロシアの戦略的利益をあきらめるべきでないという方針によるものであった。さらに、満州撤兵協定以降には、韓国中立問題を国際問題化し且つ米国を介在させて勢力均衡を回復しようとした。しかし、この試みも失敗した。

対日交渉に反映されたウィッテの韓国中立化条件は、程度の差があったとしても、満州を守るための対日障壁の手段であった点においてクロパトキンやベゾブラゾフの主張と基本的には一致していた。韓国の独立、大韓海峡の航行自由の保障、韓国の軍略的使用の禁止、韓国北部の中立地帯化などは、日露戦争勃発前夜に至ってもあきらることができなかったロシアの対韓戦略利益であった。ロシアにとっては「韓国の独立」保障が、日本の韓国完全掌握を防ぎ、韓国を完全に放棄しないための防衛的なものであったのに対し(117)、日本にとってのそれは、ロシアの勢力を駆逐し、韓国を完全に掌握するための攻撃的なものであった。しかし、日英同盟が他の列強の韓国領土占領を許容しないと規定していたことも想起すれば、日本としては、満州撤兵が行われていない状況下で、韓国北部での中立地帯設定などのロシアの主張を受入れることはできなかったのことがわかる。

日本外務省は、ロシアの満州での優位を前提とする韓国中立化案に反対した。即ち、外務省が最初から中立化ではなく満韓交換の立場であったことは、ロシアとの開戦も辞さずとして積極的な対韓進出を摸索したいわゆる「小村路線」以前の青木-加藤の対露交渉原則においても既に明らかであった。日本の対韓政策も、1901年の春をきっかけとして、単なる満韓交換論から、満韓不可分に立脚した満韓交換及び韓国保護国化へと転換した。それは、英・独との同盟締結の可能性と、満州の門戸開放を異口同音に求める列強の反露的姿勢とに応援されながら、韓国問題に関しては日本の方が優位を占めていたからである。

従って、ロシアの韓国中立化政策の失敗は、概括すれば、ロシアが旅順・大連を租借した1898年以後、満州でのロシア牽制のために背後で日本を支援した英米の利害が一致した(118)結果であった。特に、日英同盟の背後で満州の門戸開放という利益を得ようとした米国が、「極東の安定と韓国民の安定のために、韓国に対しての日本の権利を認め」たことによって、すでに1903年の時点で東アジアの勢力均衡の行方は決められてしまったということができる(119)。ロシアが数回にわたって米国の日英同盟への加担を牽制する一方、満州での米国の商業的利益を認め、韓国中立化に引き入れようとした理由もここにある。

以上に加えて、ドイツの二重政策こそが日露間の不信を一層深刻にさせた原因であったということは、満韓をめぐっての日露両国の衝突危機から確認できる。ドイツは、韓国に対しての日本の利益の認定と対露開戦時の好意的中立を日本に約束した。他方、ロシアにも対日開戦時の支援を約束し、ツァーリの攻撃的な東アジア政策を助長したのである(120)。露仏同盟を無力化させ、ロシアをして東アジアの膨脹に専念するように助長したカイザーの政策が、ツァーリの対独依存を深化させたのはすでに知られた事実である。ツァーリの盲目的対独姿勢は、独・仏・米などの資本と外交的支援を得て、韓国を盾として満州の利益を得るつもりであったベゾブラゾフ一派の政策に直結するものであった。

(翻訳協力 金 成浩)


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