フォークロアからソヴィエト民族文化へ
-「カザフ民族音楽」の成立(1920-1942)-
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はじめに

旧ソヴィエト連邦の文化が、ひとつのカテゴリーとしてみなされ得る特殊な現象であったことは否定しがたい事実である。ソ連中央での文化的思潮は、周縁地域において常に親範とされてきたため、ある位相においては顕著な文化的画一性が観察される。しかし、旧ソ連における諸民族の伝統文化に焦点を当てる場合、ソ連時代に起こった文化的変容を、一様にソヴィエト社会主義的、共産主義的と名付けることは留保すべきである。たとえば、長年アジア音楽の概説書として使われてきたマームの『太平洋、近東、アジアの音楽文化』は、「ソヴィエト中央アジア諸共和国の音楽」を一節として取り上げた点で画期的だが、ソヴィエト時代が中央アジアの音楽にもたらした変化──合奏、合唱形態や調律、五線譜化など── を、国家主義、集散主義、社会主義といった言葉で説明している(1) 。ソ連時代の「民俗音楽」研究における理論化の方法論も、西洋音楽理論の援用としてではなく、「マルクスーレーニン主義的」と形害される (2) 。また、現在の伝統主義的な現地研究者は、ソヴィエト時代を伝統の衰退の時代として位置づけ、改良楽器や民俗楽器合奏団の普及、音楽研究のあり方を否定する。

これらの見解は、ある意味で妥当性を持ってはいる。しかし、たとえば、ほば同時期の日本やトルコなどにおいて、伝統音楽の五線譜化や楽器の改良が行われたことを想起すれば (3) 、上記の変容が単にソヴィエト社会主義・共産主義の産物であるのみならず、近代国家における西洋音楽的原理の適用という一面を持ったことも理解されるはずである (4)

他方で、ソ連中央の規範が、周縁において適用・受容されてきた過程を具体的に扱おうとするときに間題になるのは、「プロレタリアート文化/ブルジョァ文化」という対立項というよりも、「民俗芸術/普遍芸術」、「民族文化/世界文化」という図式とその受容の過程である。特に、西欧近代的な民族や文化概念とは異なる思考様式を持っていた中央アジアでは、ソ連政権樹立後の民族形成や文化構築における葛藤が、現在もなお新たな諸間題を生み出している (5) 。そこでは、良きにつけ悪しきにつけソ連によって初めて与えられた近代国家の枠組や、新たな民族・文化概念の創造が、重要な意味を持っている。こういった現象の理解のためにも、ソヴィエト文化の普遍性という側面からは捨象されがちな、個々の「民族文化」形成のプロセスを、改めて見直す必要がある。それによって、「近代化」としてのソヴィエト時代の具体的な姿もまた、照射され得るのではないだろうか。

このような問題意識をもとに、本稿は、ロシア帝政時代以来「民俗音楽」として規定されてきた文化が、「ソヴィエト民族文化」として制度化されるようになった過程を、カザフの音楽を例にして述べる。近代国家という枠組と、そこに生じるアイデンティティおよび政治性の諸間題に注目することで、文化政策としての音楽的諸制度の考察だけでなく、さまざまな音楽を価値付けてきた音楽学の言説体系そのものを再考察することが、可能になるであろう (6)

本稿は、まずカザフ民族文化形成のモデルとしてのロシアの状況を俯瞰する。ソヴィエト政権下において、カザフの音楽文化は、社会主義理念に沿って新たに構築されることになったが、すでに述べたように、実質的には、多くの点で19世紀後半以降のロシア音楽界の状況をその規範としていた。ロシアでは、民謡の採集とその編曲、そして民俗楽器の改良とその合奏団の結成が、大ロシア民族意識の高揚を促進していたのである。さらに、ロシアによる異国趣味としての他者認識のあり方も、カザフ人の自文化への意識のあり方に重要な影響を及ぽすことになる。

次に、カザフ民俗音楽の採譜集が国家事業として成立した過程を追う。キルギズ[カザフ]自治共和国 (7) 成立直後に行われた文化的大事業 ── すなわち、ロシア・ナショナリズムの音楽に影響を受けたアマチュア作曲家ザタエーヴィチのカザフ民謡採譜活動 ── が、政府の企図といかなる点で合致し、またすれ違っていたかを観察する。この過程において、民謡採集と編曲が、当初から楽器改良とその合奏団編成の計画を目標としていたことも明らかになるであろう。

最後に、「ソヴィエト・カザフ民族文化」が本格的に建設されたと考えられる1930年代から、最初のカザフ音楽史が執筆された1942年までの諸相を観察する。「民俗音楽」は、その制度化の過程において、「プロフエッショナリズム」や「発展」といった諸要素を与えられ、社会主義の理念にふさわしい「民族音楽」として姿を変えてゆくのである。

本稿の執筆にあたっては、ロシア語、カザフ語の諸文献のほか、特にソ運時代初期の公文書を利用し、主に国家サイドによる公定音楽文化の創造という側面に焦点を当てている。当時の民衆が実際にそれをどう受容していたかについての論考は、別の機会に譲りたい。

なお、本稿における「民俗音楽/民衆音楽」という語は"narodnaia muzyka / の対応語であり、「民族(の)音楽」は に対応している (8)

1.モデルとしてのロシア

(1) ロシア音楽界

民間伝承のテーマや民謡を西洋古典音楽の素材として利用し、それによって新たな芸術性を獲得しようとする試みは、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパで広くみられたロマン主義音楽の一環として位置づけられる。作曲家たちは、「民衆の側に受け継がれていた音楽に未知の美を発見し、それを拠り所にした」 (9) 。殊にロシア、東欧、北欧、スペインなど西洋古典音楽の傍流であったヨーロヅパ周縁諸国では、この民衆的な要素が同時に民族的覚醒をも促した。西洋音楽史上、このような手法を用いた音楽様式は「ナショナリズムの音楽」とみなされており、日本語では一般に「国民楽派」、「国民主義の音楽」などと訳されている (10) 。ロシアでは、この時期に数々の優れた作曲家が輩出し、西洋音楽史におけるロシア音楽の独自性を確立するに至った。

ロシアにおけるロシア民謡の採集とその編曲は、すでに18世紀後半から行われていたが (11) 、それらの民謡は、「伝統的な農民のポリフォニーにではなく、18世紀の古典的な伝統における協和音に基づいて和声付が行われていた」 (12) 。西洋音楽の語法による民謡の単なる引用を越えて、ロシア音楽の新たな様式を完成した代表的な作曲家は、グリーンカ(1804〜1857)、ダルゴムィーシスキイ(1813〜1869)、そしてこの二人を範とした「五人組」(ポロディーン(1833〜I887)、キュイー(1835〜1918)、バラーキレフ(1836/37〜1910)、ムーソルグスキイ(1839〜1881)、リームスキイ・コールサコフ(I844〜1908))とされている。当時、作曲家による民謡集の出版は慣例化していたが、この「民謡集」とは、あくまでも「民謡編曲集」を指していた (13) 。民謡は、編曲ム作曲家の手を経て「芸術作品」として再製されることムを通してこそ価値を得るのであり、民謡そのものが芸術作品の素材以上の意味を持っていたわけではなかった。そして、いわばエスキスとしてのビアノ伴奏付き民謡編曲は、グリーンカの《カマリンスカヤ》(1848)やダルゴムィーシスキイの《ルサルカ》(1855)などのように、さらに交響曲やオペラとなることが期待されていた。

「芸術音楽」として編曲されたのは、ロシア民謡だけではなかった。ロシアの領土拡大は、特に帝国の傘下に入った諸民族への興味を促し、彼らの音楽もまた採集、編曲された。たとえば、キュイーの《コーカサスの捕虜》(初稿1858)、バラーキレフの《イスラメイ》(初稿1869)などにはコーカサスの旋律がちりばめられている。ムーソルグスキイによる《カルスの奪還》(1880)は、露土戦争におけるロシアの勝利を讃えた行進曲だが、ここにもコーカサス民謡が用いられている。ボロディーンの未完のオペラ《イーゴリ公》の主題は、遊牧の民ポロヴェツと戦うイーゴリ公の愛国物語であり、また彼の《中央アジアの草原にて》(1880)は、単調で寂蓼とした砂漠を旅するキャラバンの安全を保障するロシア軍を描いている。ちなみに、《カルスの奪還》およびく中央アジアの草原にて》は、アレクサーンドル二世の治世25周年を記念して作られた作品であり、音楽を通して帝国主義/愛国主義が賛美されたことがうかがえる。オリエンタリズムは、実際、異国趣味であるばかりでなく、ロシアの強大さの象徴でもあった。そして、異民族の音楽は、それが彼らにとって宮廷音楽であろうと宗教音楽であろうと、ロシア民謡と同様、「民俗音楽/民衆音楽」と表象された。当時、メnarodnaia muzykaモという語がいかなる内包を含んでいたかについては、さらに詳細な検証が必要である。ただ、確かなのは、その対概念である「芸術音楽/世界音楽」が、いわゆる西洋古典音楽にほかならず、前者は後者のさらなる活性化に奉仕すべき存在だとみなされていたことである。

一方、民俗音楽の「復権」は、「芸術音楽への奉仕」によるだけでなく、それ自体のステージ化によっても達成された。改良、復元された民俗楽器によって合奏団が緒成され、大衆の大きな人気を獲得したのである (14) 。1880年代、音楽愛好家のアンドレーエフ(1861〜1918)は、楽器職人ナリーモフ(1857-1916)らと協力して、従来フレットのなかったバラライカ(三弦の撥弦楽器)に五つのフレットを付した。その成功をきっかけに、1886年、アンドレーエフは半音階を演奏するための十二のフレットを持つバラライカや、ソプラノ、アルトなど五種の晋域によって大きさの異なるバラライカをも考案した。翌年、八人のバラライカ奏者によるアンサンブルを組織し、やがて1896年にはドムラ(二弦の嬢弦楽器)、グースリ(ヅィター型の撥弦楽器)などの楽器も加えて、「大ロシア・オーケストラ」を結成した (15)

1908年から1917年にかけては、リュビーモフ(1882〜1934)とブーロフがドムラをさらに改良し、四弦ドムラとその四重奏団が作られた。リュビーモフはソヴィエト政権倒立以降も活躍し、国立のドムラ・オーケストラ(1919)などさまざまな民俗楽器含奏団を組織している (16) 。彼は、その後カザフ民俗楽器の改良にも関わることになる。

(2) ロシア民族学研究 (17)

音楽界と連動して民俗音楽の採集と出版に拍車をかけたのは、ロシア民族学界である。ロシアにおける民族学的調査機関には、科学アカデミー(1724年創立)、ロシア地理学協会(1845年創立)、自然科学・人類学・民族学愛好家協会(1899年創立)などがあり、帝国の領土が拡大するにつれて、各地方の調査・探検はますます盛んになっていった。「五人組」らの活躍にも影響を受けたのであろう、民族学的調査における音楽への興味は十九世紀後半以降急増し、やがてロシア地理学協会および自然科学・人類学・民族学愛好家協会(民族学局)は、それぞれの付属機関として歌謡委員会(1897)および音楽民族学委員会(1901)を設けた (18) 。委員として名を連ねていたのは、民族学者はもちろんのこと、音楽学音や音楽評論家、そして作曲家たちであり、歌謡委員会にはバラーキレフやリヤードフ (19) (1855〜1914)、音楽民族学委員会にはイッポリートフ=イヴァーノフ(1859〜1935)、タネーエフ(1856〜1915)といった、ロシア・ナショナリズムの系譜を継ぐ作曲家たちが属していた。これらの委員会は、ロシアの民俗音楽や異民族の音楽の採集と編曲、その出版活動を組織的に行ったが、その目的は啓蒙色の強いものであった。たとえば、自然科学・人類学・民族学愛好家協会付属音楽民族学委員会が掲げた課題には、「音楽生活の全領域においてフォークロアを幅広く導入しながら、民謡の収集と研究・プロパガンダ、大衆の菅楽的啓蒙、音楽教育および音楽活動の民主化を遂行すること」と記されている。具体的には、「作曲家による民謡の習得、民俗芸術の原理の生きた発現としての民謡解釈」などが目標とされ、採譜集の編曲や出版を越えて、労働者合唱サークルの結成、人民音楽院の開設(1906)、音楽雑誌の出版(『音楽と生活 Muzykai i zhiznユ』1908〜1912)、民俗音楽採集者の説明を伴う「民族学コンサート」の開催、学間的成果と平易な教材の出版など、帽広い活動が行われた (20)

(3) カザフ音楽の採譜

このような状況を背景に、カザフ音楽ももちろん採集の対象となっていた。ソヴィエト期以前のロシアの研究者によるカザフ音楽の研究史については、数々のモノグラフや概説があるので (21) 、ここでは、採譜集あるいは採譜を含む研究のうち、代表的なもののみを挙げておきたい。最も初期の採譜は、ドブロヴォーリスキイ(1780-1851)による『アジア音楽雑誌』(1816〜1818) (22) である。ドブロヴォーリスキイは、アストラハンでギムナジウムの音楽教師や含唱団の指揮者をしていたという。ボリショイ劇場のヴァイオリン奏者から合唱指揮者に転身し、1870年にタシュケントに派遣されたアイヒホルン(エイヒゴルン)(1844-?)は、カザフ、ウズベクの民謡を書き記した (23) 。同じくタシュケントでピアノ伴奏者として働いていたぺ一ニッヒ(プフェンニク)(1823-I898)も、民謡について楽譜付きの論文を書いている (24) 。他に、かつてリームスキイ=コールサコフに師事し、トノレガイ地方で土地開発に携わりながら民謡を採集したルィバコーフ(1867-1921)の研究 (25) 、同じくリームスキイ=コールサコフらに作曲を学んだ医者ギズレルの小論と採譜(1901) (26) 、1919〜1922年にアクモラに滞在したドイツ生まれのオランダ人で、赤軍志願兵でもあった経済専門家ビンボエス(1878-?)による「二十五のカザフ民謡」 (27) などがある。採譜者は、程度の差こそあれ音楽の素養を持ち、なんらかの公的な事情でカザフスタン[当時のキルギズ地方]に赴いた機会を利用して、主に音楽的な興味からカザフ民謡を採譜するというケースが多かった。

なお、カザフ人自身によるカザフ音楽の採譜は、1931年になるまで行われることはなかった (28) 。文字も記譜法も持たなかったカザフ人にとって、音楽を視覚的に記録すること自体が、なじみのない観念であった。もちろん、長年ロシアと隣り合ってきた彼らが、ロシアの音楽文化から隔絶されていたとは考えられず、実際、ロシアあるいはロシアを通じての西洋音楽に触れる機会も、十分に存在した。たとえば、カザフの代表的なキュイシ[カザフの器楽独奏曲キュイを即興的に演奏する音楽家]、クルマンガズ(1818〜1889)は,流刑先で耳にした行進曲の様式を用いて、《ベローフスキイ・マーチ》という曲を作った。アクン[詩人]として有名なアバイ(1845〜1904)の歌にも、ロシア民謡の影響が色濃く映っている。賞族階級(トレ)出身であるダウレトケレイ(1820〜1887)は・西洋音楽に接する機会が多く、カザフのドンプラ (二弦の細棹撥弦楽器)のほかにロシアのバラライカをよくしたという (29) 。パヴロダール州で生まれたアクン、ジャヤウ・ムサ(I835-1929)は、ドンブラだけでなく、ガルモーニ(ロシアの小型ディアトニヅク・アコーディオン)、ヴァイオリンをも操った (30)

しかしながら、この時点で、西洋古典音楽の基盤である楽譜が普及していたという事例は報告されていない。上記の例も、ロシアおよび西洋の音楽が、灌覚から受容されたという以上のことを示してはいない。19世紀末のキルギズ・ステップ[カザフスタン]では、すでに西洋音楽の受容はある程度進んでいたが (31) 、その積極的な聴衆は、むしろそこに住むロシア人だったのではないだろうか。西洋古典音楽および演劇を普及させるための自主サークルが作られた街は、ロシア人の移住が多い要塞都市ムオムスク(1871)、ヴェールヌィ(1885)、セミパラティンスク(1889)、パヴロダール(1897)ムであった (32) 。もちろん、それらの演奏を耳にし、興味を持ったカザフ人もいたであろうし、また一部の人々はある程度楽譜を読み書きできた (33) 。しかし、自民族の音楽を採譜しようとするカザフ人は現れなかったのである。もっとも、採譜による音楽の保存・記録の必要性がまったく言及されていなかったわけではない。1910年代のカザフ語のある雑誌には、カザフの音楽芸術の衰退を防ぐため、それを楽譜に記録する必要があるという意見記事が載せられている (34) 。カザフ人による採譜が行われなかった根本的な要因は、自民族の音楽への無関心ではなく、記譜法の普及率の低さという技術的な問題であったと思われる。しかし、活字使用の普及によって発展したカザフ文学や戯曲などと異なり、視覚的表象手段を欠いたカザフの音楽は、西洋音楽との様式的な折衷案を内琵的に見いだすことができずに、ソヴィエト時代を迎えることになった。

2 「晋遍芸術」へのステップ

(1) 国家事業としての民謡採譜集出版

ソヴィエト社会主義のイデアは、各民族固有の文化を統含することを目標としていた。レーニンは、民族文化に対して次のようなコメントを残している。

おのおのの民族文化のなかには、たとえ未発達のものであるとはいえ、民主主義的文化と社会主義的文化の「諸要素」がある。[中略]しかしおのおのの民族のなかには、ブルジョア文化もまたある、一しかも、たんに「諸要素」としてではなく、支配的な文化としてである(強調本文) (35)

そして、「超階級的な民族文化の信仰をひろめることをその利益全体から必要とするブルジョア」 (38) を批判している。つまり、文化はあくまでも階級的なものであり、民族的な要素はそれに従属すると考えられたのである。

しかしながら、諸民族の文化への興味は、ロシア帝国時代以来、継承あるいは強化されており、ソヴィエト時代の初期から「民俗芸術」としての民謡や口承文芸が精力的に採集された。というのも、諸民族の文化は、普遍的な文化へ到達するための過渡的な手段であるとみなされたからである。

ソ連初期の音楽教育の普及に尽力した人民委員ルナチャールスキイ(I882〜1934)は、ガルモーニについて次のように言った。  

ガルモーニを習得した者は」定の技術を持っているということであり、そのことがあるいは彼をその名人芸的演奏へと導くかもしれないし(ガルモー二の名人芸、これはもちろん、ひとつの音楽的頂点である)、あるいは別の、より複雑で高尚な器楽の領域へと導くことだろう。[……]おそらくは、交響楽団やピアノ、その他の形式の音楽が村に押し寄せる日が来るだろう。[……]しかし今、われわれの手にはとてもすばらしいシジュウカラーガルモーニがある。このシジュウカラは成長して歌う。われわれは、このシジュウカラが村の日々を彩り、しかも自分の声で……壮大な社会主義の建設を伴葵することを嬉しく思うだろう…… (37)

ルナチャールスキイの思想全体をここで詳細に検討する余地はないが、少なくともこの言葉に、「民俗音楽」自体の発展可能性とともに、「芸術音楽」への移行段階として民俗音楽を発展させるという論理を観察することは、不可能ではない。

国家事業として初めてカザフの音楽が採集されることになった際にも、このような考え方が前提となっていた。しかしながら、後に見てゆくように、採譜者本人は同じ考えを抱いていたわけではなかった。ソヴィエト時代の最初のカザフ音楽採集者、アレクサーンドル・ザタエーヴィチ(1869〜1936)は、ロシアのオリョール州に生まれ、幼少の頃から音楽に親しみ、作曲家への道を志していた。しかし、音楽院への進学は叶わず、1886年以来、ポーランドの官庁で働くことになる。1904年、ワルシャワ総督府の機関誌『ワルシャワ日記Varshavskii dnevnik』の音楽評論を担当することになり、11年間に渡って、ロシア、ポヒランドおよび西洋の作曲家とその芸術に関する彪大な量の記事を残した。職業柄、ロシア音楽界の知己は多く、ラフマヒニノフ、シャリャーピン、バラヒキレフ、グラズノーフ、リームスキイ=コールサコフらとの交際があった。ザタエーヴィチは、19世紀後半のロシア・ナショナリズムの音楽を特に好んで聴いたという (38) 。また、大ロシアオーケストラを緒成したアンドレーエフとは親友であった。アサーフィエフ、フィンデイゼン、ビンポエスら音楽学、音楽民族学の有力者とも書簡を交わしたりしている。

1919年12月、キルギズ軍事革命委員部に設置された歴史−統計課は、考古学的あるいは統計学的資料のみならず、カザフ人のフォークロアに関する資料ム習慣、歌謡、伝承、叙事詩、言い伝えなどムをも収集するという課題を掲げ、それらに関する情報提供を一般市民に呼びかけた (39) 。1920年の春、オレンブルク総督府の内務人民委員部に赴任したザタエーヴィチがこの公示を目にしたかどうかは定かではないが、同年7月15日には、彼はカザフ人の教師が歌った民謡を初めて採譜する機会を得ている。この日が、彼の「天職」の始まりであった (40) 。採集に際して録音機器は用いられず、歌い手の演奏をその場で何度も繰り返し聴きながら記録するという方法が採られた。

1920年10月、第一回キルギズ自治共和国ソヴィエト結成大会において、キルギズ自治共和国が正式に承認されたとき、人民教育に関する報告書のなかで民謡の採譜と編曲の重要性が指摘された。ここで、採譜・編曲がカザフの人民教育のためのプロジェクトであったことは、帝政時代との大きな違いである。従来、ロシア人の好奇心と創造力を刺激するために行われてきた民謡採集は、いまやカザフ人自身に貢献するという目的を得た。キルギズ地方軍事革命委員部教育課が自治共和国教育人民委員部として再編されると、ザタエーヴィチは同年11月、教育人民委員部音楽課アカデミー部門の責任者に着任した (41) 。ザタエーヴィチが個人的に行っていたカザフ民謡の採譜活動は、爾釆、国家事業として行われることになったのである。

一方、軍事革命委員部歴史-統計課は、自治共和国の成立と同時に教育人民委員部付属学術委員会に発展し、そこからキルギズ地方研究会[1925年以降はカザフスタン研究会](オレンブルグ支蔀)が組織された。この研究会は、教育人民委員部において学間的な領域を扱うアカデミー・センターの付属機関となった。そして、ザタエーヴィチの採譜集も、研究会の活動の一環として出版されることになる。

ザタエーヴィチは、1920年12月30日、さっそく全州の人民教育課に告知する通達を用意した。

      キルギズ民謡の採集にあたり、教育人民委員部芸術部門音楽課は各地方の音楽部に次の情報収集を委託する。
  1. すべての優れた(a)民謡歌手(b)ドンブラや他の民俗楽器の奏者(c)プロフェッショナルの、または愛好家のなかでも優れた音楽家
  2. 現代の記譜法で民俗音楽芸術の作品を採集している者、あるいは民謡のキルギズ語テクストの蒐集者でもよい
  3. ドンブラや他の楽器を造る有名な職人 (42)

上述のように、教育人民委員部内で学間的な分野を担当していたのはアカデミー・センターであり、1921年10月には、同センターの付属機関として国立芸術評議会が組織された (43) 。この評議会は、キルギズ自治共和国の芸術活動に関する最高機関として規定され、ザタエーヴィチは、評議会の民族学課課長となる (44) 。評議会の課題は、「キルギズ民衆芸術の諸作品の蒐集、採集された資料の編曲、そして、より価値ある労作の出版」であった (45)

教育人身委員部での民謡採集事業は、このように組織を幾度か再編しながら、基本的にはザタエーヴィチを中心として行われていた。しかしながら、教育人民委員部のスタッフであったカザフ人によるインフォーマントとしての貢献も、過小評価されるべきではないだろう (46)

1922年10月、キルギズ地方研究会は、ザタエーヴィチにキルギズ自治共和国人民芸術家の称号授与を決議した。この案は、1923年8月のキルギズ中央執行委員会会議によって正式に決議された。ザタエーヴィチは、カザフ共和国最初の人民芸術家の称号を受けるという名誉にあずかったのである。

この晴れがましい話の背後では、しかし教育人民委員部の財源の慢性的な不足が続いていた。同年8月9日の中央執行委員会閣僚会議においては、ザタエーヴィチヘの報酬財源の欠如が話し合われている。その後も、給与支払いの遅延はたびたび起こった。また、印刷を講け負ったモスクワの国立出版所も経漬的手段を欠いており、採譜集の出版は次第に遅れていった (47) 。彼が採譜を始めた1920年から採譜集が出版されるI925年にかけて、教育人民委員部とザタエーヴィチとの間にたびたび軋灘が生じていたことが、多くの資料から散見される。給与支払いの遅延は日常茶飯事であり、ザタエーヴィチは多くの抗議文を書いたが、教育人民委員部はすべて契約通りに行われていることを主張した (48) 。また、採譜集出版直後の再契約に際して、教育人民委員部は次のようなコメントを残している。  

ザタエーヴィチの[再契約後の]仕事は、その本質からいって、なにか新しいものとなる保障はない。民謡採集の単なる量的増大が、すでに出版された『千のキルギズ民謡』へのいかなる付加的な価値を持ち得ようか (49)

特に、再契約にあたってはモスクワに居住地を定める、というザタエーヴィチの提案に対しては、  

そのような条件下での民謡採集の仕事が成功を収めるのかどうか、疑わざるを得ないだろう。というのも、誰にも明らかなことだが、カザク[カザフ]地方の歌の孫集が可能なのは、この民族のなかで生活してこそであり、ロシアの首都で住むことによってではないからだ (50)

と反論している。

再契約の際にザタエーヴィチが要求した報酬は、「首都[モスクワ]の大学教授ですら一人として受け取っていない」ほど、教育人民委員部には高額に感じられた。そのため、教育人民委員部付属アカデミー・センターはこの仕事を別の人物へ委託することさえ提案している。それを勧めたのは、採譜集出版に協力したアリハン・ボケイハノフ(I866〜1937)とアフメト・バイトゥルスノフ(1873〜1934)であり (51) 、彼らの意見によると、「モスクワのプローホロフ教授なら」「ザタエーヴィチ氏よりも本質的で深い仕事を期待すること」 (52) ができたのであった。実際、この採譜集は、出版経費が嵩んだ割に採算が取れなかった。採譜集出版後の3ヶ月間に売れた部数は、モスクワで9冊、カザフ共和国では24冊にすぎず、残りはすべて自主サークルなどに無料で配布された (53)

このような間題にもかかわらず、1925年4月、『キルギズ[カザフ]人の千の歌』 (54) と題された採譜集はようやく世に出ることとなった。発行者は教育人民委員部付属アカデミー・センターおよびモスクワの考古学研究所オレンブルク支部となり、キルギズ地方[カザフスタン]研究会の労作の一環という体裁をとった。

(2)民謡採集と偏曲の目的

上述のように、カザフ共和国の国家事業として遂行された民謡採集は、その「文化的な形」への編曲を通して、カザフ人民の音楽教育に適用することが大前提であった。とはいえ、ザタエーヴィチ自身の意図と国家の目標にはずれがあった。

ザタエーヴィチは、採譜開始以前から、仕事の合間を縫ってピアノ曲を作曲することを手すさびにしており (55) 、1920年の夏にカザフ民謡を始めて採譜したその日から、採集曲の編曲を行っている (56) 。つまり、彼の民謡採集は自らの作曲活動の一環として着手されたのであり (57) 、もともと民族学的興味や教育目的によるものではなかった。 たとえば、1923年の新聞において、ザタエーヴィチはカザフ音楽を紹介する・記事を書いているが、彼はそこでカザフ人の音楽的才能を高く評価しながら、  

彼らの優れた晋楽的才能の発現への大きな展望が、全人類の文化的芸術という偉大な創造と接触するそのとき、私のカザフ歌謡の採集は特に有用となるだろう。また、旋律の消滅という袋小路に入ってしまったヨーロッパの音楽にも役立つであろう (58)

と表明している。「全人類の文化的芸術」とは、文脈からして西洋古典音楽を意味している。ロシアでは、すでに1870年代に、「五人組」が事実上解散しており、19世紀末にもなると、彼らのスタイルはその斬新さを失っていた。しかしながら、ロシア民俗楽器オーケストラの人気ともあいまって、民謡や異国の旋律を用いた音楽様式は広く普及し・いまや大衆的な人気を誇るようになっていたのである。したがって、このような考え方は、ひとりザタエーヴィチが抱いていた個人的な野心ではなかった。

1922年5月のキルギズ地方研究会において、あるメンバーは、ザタエーヴィチの活動を、「従来、文化的な西側にはほとんど知られていなかった新しいモティーフによって音楽を活性化するという、偉大な功績」 (59) とみなしている。その研究会の会合について報じる新聞は、カザフの音楽を発掘することが、温故知新という意味を持つだけでなく、「疑いのない音楽的価値を有し、編曲を施されることで世界共通の音楽遺産に貢献し得る」 (60) と述べ、ザタエーヴィチの採集活動を評価した。ここでも、「世界共通の文化的な音楽」が西洋古典音楽を指していることは明白である。合唱指揮者かつ音楽教師であり、カザフスタン研究会に属していたトレチャコーフはこう述べている。

音楽における東洋の旋律とロシアの旋律との融合は習慣となっている。グリーンカ、ボロディーン、リームスキイ=コールサコフらのロシア・オペラにおける東洋の要素によってこそ、彼らの作品は特に独自で、色彩に冨んだ、最も著名なものとなっている。[……]これらの[カザフの]歌謡は、特別に採集し出版せねばならない (61)

つまり、カザフの音楽を、「世界共通の音楽」、「普遍的な音楽」としての西洋古典音楽の伝統に貢献すべき素材とみなす、ロシア帝国時代以来の思考法である。ザタエーヴィチ本人もまた、紛れもなくその考えを共有していた (62)

一方、人民啓蒙という国家理念の実現をより重視する意見もあった。後に採譜集の序文を書くことになるカスターリスキイ(I856-1926)や、上記のトレチャコーフは、人民教育のためには歌詞の記録が必要であることを示唆している。これに対してザタエーヴィチは、「[私は]キルギズ[カザフ]語を知らないし、キルギズの歌の、特定の言葉とは関わらない性質的特殊性に注目している[強調筆者]」 (63) という立場を採った。ザタエーヴィチ自身にはカザフ人民啓蒙の意志がそれほどみられないことが見受けられるが、そのこと自体は特に非難されることでも秘匿されているわけでもなかったようである。ザタエーヴィチの採譜集の序文を書くことになったカスターリスキイは、彼の草稿に目を通し、それを「きわめて力作である」と評価しながら、次のように述べている。  

なんとなれば、民謡集なるものは、作曲家の編曲の素材としてだけではなく、一般に民衆芸術の規範として存在するのですから。それは大衆の間に広めなければなりません。歌詞がなければ[大衆は]どうやって歌えましょうか?(強調筆者) (64)

「素材としての民謡」という前提は、共通の理解となっていたことが分かる。そのうえで、歌詞の必要性はたびたび強調された。トレチャコーフは、「キルギズの歌にあってはロシアの歌におけるほど歌詞が重要性を持たない」というザタエーヴィチに反論している。歌詞は同様だがまったく異なる旋律を持つ場合やその逆の例もあり、民謡における歌詞と旋律は不可分であると述べている個 (65)

教育人民委員部は、当然のことながら、民衆啓蒙のため、学校や図書館、クラブ、教育機関への採譜集の配給が不可欠であるという考えを表明した (66) 。ところで、「民衆の教育を通して、民俗芸術を普遍芸術へ昇華させる」という考え方は、音楽学校開設の主要な理由にもなった。1922年5月7日、トレチャコーフは次のように述べている。  

キルギズ地方[カザ7スタン]には音楽小学校とそのネットワークが必要だ。キルギズ[カザフ、以下同様]の子らは、そこで将来民族的な音楽芸術にもとづいた芸術的創作を成すための、ヨーロッパの音楽教育を受けることができるだろう。その時初めて、キルギズの交響曲やオペラを期待することができよう。さらには、キルギズのグリーンカが現れるかもしれない。彼はキルギズ音楽を新しい民族的方向に導き、キルギズの芸術を、民衆の才能による音楽芸術という共通の宝庫に加えるのである (67)

また、モスクワで1923年I0月24日に催されたカザフ民謡の夕べに関するメールコフの報告は、「オペラとコンサート音楽にとっての貴重な材料となるだけでなく、東洋音楽の音楽小学校における教育の材料ともなる」 (68) というものであった。

音楽小学校は、1919年にアクモリンスクとオレンブルク、翌年にはペトロパブロフスクに開校した (69) 。当時トゥルキスタン共和国領であったヴェールヌィ(現アルマトゥ)にも、同年に人民音楽院(音楽小学校)が開校している (70) 。ただし、上述のような理想の実現にはほど遼く、さしあたりは西洋音楽の教育機関としてしか機能していなかった。1919年、オレンブルクにはタタール東洋音楽小学校が開校していたが、人民委員部への報告書のなかでメールコフが指摘しているように、「われわれの東洋音楽学校には、まったくあるいはほとんど東洋の要素がないことは公然の事実」であった (71)

このように、民族的な「民俗芸術」を新たに構築するための民謡採譜という国家事業において、ザタエーヴィチの個人的な意図は、国家の理念とのずれをはらんでいたことが観察されるのだが、採譜集によって西洋音楽界の活性化をはかることと、カザフ人民を教育することは、一方が「外向き」で他方が「内向き」という差異はあるものの、実は「世界音楽/芸術音楽」への貢献という共通の最終目標を持っていたことが理解される。そして、ここで特に注目に値するのは、「異国(異民族)の音楽」として外部者に採集・記録された菅楽を、当の「異民族」(つまりカザフ人民)に環流することが、ソヴィエト体制下におけるカザフ人の音楽教育の起源となったことである。

(3) 楽器改良と民俗楽器含奏団設立の情想

ロシアの民俗楽器オーケストラに倣って、カザフの楽器を「改良」して合奏団を結成するという考えは、1920年にキルギズ自治共和国が成立した時点で、すでに教育人民委員部の計画に含まれていた (72) 。この案の実現には、教育人民委員部、キルギズ地方[カザフスタン]研究会、ザタエーヴィチ、そして後に労働組合が関与することになった。

ザタエーヴィチは、1923日4月1日付の新聞で、ドンブラ、コブズ (二弦の撥弦楽器)、スブズグ (無簧の縦笛)を改良して、ロシア民俗楽器オーケストラと同様の「カザフ民俗オーケストラ」を結成する構想を述べ、優れた楽器織人の必要性に言及した。そして、「独自の音質を失うことなく、逆に音響を強化し、合奏団の音域拡大のため、大きさの異なる同種の楽器を製造すること」を提案している (73)

I923年10月24日には、キルギズ地方[カザフスタン]研究会の主催により、モスクワの全連邦農業・工業博覧会においてカザフ音楽のコンサートが開催され、そこにカザフ人の歌い手、演奏家、そして先述のリュビーモフが指揮するロシア古楽器合奏団が出演した。カザフ音楽家の演奏のほか、ザタエーヴィチが採集した民謡の編曲を彼自身がピアノで演奏し、またその民俗楽器オーケストラ用の編曲を、発案の段階にあった「カザフ民俗オーケストラ」の代わりに、ロシア古楽器含奏団が試演した。

この時以来、ザタエーヴィチとリュビーモフの交流は続き、リュビーモフの率いるロシア古楽器合奏団は、ザタエーヴィチの民謡編曲をレパートリーに導入したり、またザタエーヴィチもこの合奏団のために編曲を行ったりしている (74) 。このコンサートの後、キルギズ地方研究会において、カザフの旋律にピアノの音色はあまり適さないことが指摘された (75) 。そこで、カザフの民俗楽器合奏団結成案が具体化し始めたのである。研究会会長メールコフは、1923年11月29日の定例会で、「[カザフ音楽の]演奏のための特別なオーケストラの結成というアイディア」 (76) について触れ、その後まもなく、リュビーモフにカザフのドンブラによるオーケストラの結成を打診した (77)

この構想は、しかしすぐには実現しなかった。1928年1月になって、カザク[カザフ]共和国労働組合評議会がカザフスタン研究会に協力を求め、やっと「標準型」のコブズとドンブラの製作に向けた第一歩が踏み出されることになった。この「標準型」楽器は、オーケストラの結成のためだけでなく、「音楽自主サークル」で用いたり、「販売のために大量生産」されることが望まれていた (78) 。民俗楽器オーケストラの創立も含め、楽器改良は、人民教育の一環であったことがうかがえる。改良楽器の一般的な実用化には、さらに五年の年月が必要だった(これについては次節で詳述する)。

このように、楽器改良は、採集した民謡の編曲を演奏する手段としての民族楽器含奏団を可能にするために必要とされた。カザフ共和国における楽器改良と民俗楽器オーケストラの組織は、民謡採集・編曲と密接な関連を持った計画であったということができる。


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