北大にスラブ研究のための施設が設立された1950年代は、第二次大戦前夜に日本の学術機関における制度的な足場を喪失していたスラブ研究が、再び大 学に定着しようとする時代でした。国立大学の中では北海道帝国大学が戦後最も早く、1947年に法学部にロシア語ロシア文学の講座を作っており、同年に赴 任したスラブ言語・文学研究者木村彰一さんが、スラヴ研究室およびスラブ研究施設の生みの親の一人となりました(2)。
多くの組織がそうであるように、スラブ研究施設も当初から明確なアイデンテイテイを持っていたわけではありません。外川継男さんの記述によれば、官制 化される以前のスラヴ研究室創設にかかわった少数の人々の間でも、組織の性格に関するイメージは必ずしも一致していませんでした。すなわち一方に言語・文 学・歴史など人文系のスラブ学の場を国立大学に作ってゆこうとする木村彰一文学部教授(スラヴ研究室主任・スラブ研究所初代主任)や鳥山成人文学部助教授 (同第2代主任)の意志があり、他方に北大のユニークな研究施設として・戦後のアメリカで急速に発展した人文・社会科学の諸分野を組み合わせたスラブ地域 研究の組織を作ろうとする、尾形典男法学部教授や杉野目晴貞学長のアイデアがありました。さらにこの底流には、当時の日本の国立大学で唯一ロシア文学科を 持っていた北大にソ連・東欧の研究機関を作ることを支援しようという、アメリカのロックフェラー財団の意向がありました(同財団はスラブ研究室設立に先 だって約500万円相当の図書・文献等を寄贈し、これが同室の資料の基礎になりました)(3)。
こうした様々な意図が現実の場で折り合っていった経緯については、ここに記すだけの資料がありません。ただ明白なのは、1)設立されたスラヴ研究室の 部門(専門)構成が、「文学」「歴史」「政治」「経済」「国際関係」という、人文系のスラヴ学の枠を越えた地域研究的な性格を持っており、この体制が施設 として制度化されて以降も継続されたこと、2)組織が学内だけでなく他大学の研究者をも交えて構成されていたこと(4)、および3)当時のアメリカのソ連・東欧研究に ありがちな国策学・戦略学的なニュアンスは最初から意識的に敬遠され、運営も純粋に学問的な共同研究をめざす自治的なものであったことです(5)。
53年に誕生したスラヴ研究室は、学内外の兼任研究員のみからなる組織で、予算的な裏付けもなかったため、その活動費の全額を文部省科学研究費にた よっていましたが、その事情は55年に制度化された後にも本質的には改善されませんでした。すなわちこの時定員化されたのは助教授1、助手1という半講座 であり、部門の大半は依然学内・学外の兼任研究員によって構成されていたのです。運営は主任研究員がイニシアチヴをとり、年2回開催される研究員会議の場 で施設の運営、組織、予算、人事その他の重要事項が審議されましたが、規模的に独立した研究機関としての活動が不可能であったため、当分の間法学部附属の 施設とするという措置がとられました(6)。
このようにささやかな規模の組織ではありましたが、スラブ研究施設は発足当初から政治史、思想、文化史、経済史などを基調に現状への関心をも盛り込ん だ、次のような一連の興味深い共同研究を展開しています。
- 「ロシア及びソヴェト社会における中間層の役割に関する研究(ロシア人民主義の研究)」(1953-58)
- 「ロシア革命の研究」(1957-59、68-69)
- 「ロシア社会の近代化に関する研究」(1964-65)
- 「東欧におけるフェデラリズムの研究」(1965-66)
- 「ロシア・東欧におけるナショナリズムの諸問題」(1970-73)
- 「ソ連社会の変遷と対外関係」(1973-75)(7)
これらの共同研究は、主として文部省科学研究費補助金によるもので、補助金の大半は基礎資料の整備と旅費にあてられました。 研究発表と討論の場としては、発足当時から定例化した「研究報告会」(年2回、研究員会議を兼ねて3日間にわたって行われた)、および1970年に組織さ れた「北海道スラブ研究会」(北海道地域の関連専門家の集団で、ほぼ月例の研究発表を行いました。)などが用意されました。成果は主としてスラブ研究セン ター発行の学術雑誌『スラヴ研究』に発表されました。1957年に発刊された『スラブ研究』は、文字どおり学際的な媒体であり、83年に欧文紀要の Acta slavia laponicaが発刊されるまで、諸言語の論文を混載していました。同雑誌は単にセンターの歴史を語っているだけでなく、わが国のスラブ地域研究の変遷 を概観するためにも貴重な資料となっています。
研究員の努力と周囲の協力により施設の規模も徐々に拡大されました。それは専任による講座の形をとっていない研究部門が、段階的に実体化(官制化)さ れてゆくプロセスでした。すなわち1957年には経済部門が、64年には歴史部門が、77年には政治部門がそれぞれ官制化され、最終的に専任研究員6名、 客員教授1名、研究部門も法律部門を加えて6部門(うち官制化された部門は3)となっていました。
しかし研究の守備範囲の大きさに比べた場合、組織の規模は依然小さなものであり、恒常的な共同研究や現地調査、国際交流のための経済基盤も持ちません
でした。一方この間に他の国立大学に設置された地域研究施設−アジア・アフリカ言語文化研究所」(1964年創立、東京外国語大学)、「東南アジア研究セ
ンター」(1965年創立、京都大学)−は、後発ながら研究員数においても資料の規模においてもスラブ研究施設をはるかにしのぐものとなっていきました。
スラブ研究施設の整備が相対的に遅れたことには、この地域の組織的・総合的な研究や教育の必要性に対する認識が、社会にも専門家の間にもいまだ強いも
のではなかったという事情が反映されていますが、同時に、事実上独立した組織でありながら法学部附属施設であるという位置づけの曖昧さも、施設の飛躍を妨
げている一因と考えられました。
すでに1969年、百瀬宏施設長の時代に、施設を北大の独立した部局としようとする「ソ連・東欧研究センター」設立の原案が練られていましたが、施設 が20周年を迎える70年代中盤以降、外川継男、木村汎施設長のもとで北大および文部省に対する積極的な働きかけが行われ、ついに78年春に学内共同教育 研究施設「スラブ研究センター」が設立される運びとなりました。