2.学内共同教育研究施設時代(1978-90)

  新しく発足したスラブ研究センターは、従来の部門(実際には講座)形式を取り払った大講座体制となり、文化系・経済系・政治系の3つの系に教授 7、客員教授1、外国人研究員2のポストを有する組織となりました(翌79年にはさらに情報資料部が加えられました)。運営組織としては、専任教官と学内 文系諸学部の若干名によって構成される「運営委員会」が置かれ、人事、予算をはじめ組織と運営に関する事項を審議することとなりました。同時に附属施設経 費として講師等旅費、外国旅費も予算化され、いまだ十分とは言えないながら、共同研究や海外調査研究のための基盤も整備されました。また81年には法学部 研究棟の一部が増築され、3フロアー強の研究・図書・情報資料・管理・共同利用スペースが確保されました。

  この一連の改革により、センターの活動は大きく前進することになりました。従来から行われていた共同研究、研究報告会、各種研究会・談話会、他学部・ 教養部での講義、雑誌『スラヴ研究』の発行などの活動に加えて、以下のような活動がこの時期以降新たに導入され、基本的に現在まで継続されました。

  また外国人研究員が常時滞在することもあって、この時期以降の研究会は必然的に国際色を強め、とりわけ80年代後半からは、文部省科学研究費国 際学術 研究経費や部分的には在札アメリカンセンター等の援助を得て、夏期研究報告会を国際シンポジウムとすることが多くなりました。こうしたシンポジウムの成果 は、『研究報告シリーズ』に収録される以外に、単行の欧文論文集としても発行されていました。

  この時期にはまたいわゆる「昼食談話会」という形のくつろいだ雰囲気での議論の場が生まれ、さらにセンターのラウンジにソ連の衛星放送の受像機が置か れて、ソ連からのニュースを見ながら研究員と滞在中の外国人たちがペレストロイカを論じ合うといった雰囲気も生まれました。

  私事ながら86年にセンターに赴任した筆者は、それまで所属した大学文学部の雰囲気とセンターのそれとの落差に愕然としたのを覚えています。外国人研 究者や専門を異にする者たちとの接触の多さ、内外の専門家による研究会の頻繁さ、日本語や外国語で行われる研究会での、歯に衣を着せぬ相互批判などもさる ことながら、毎週月曜日の午後一杯を費やして行われる教官会議(8)が 驚きの中心でした。そこでは予算、人事など運営上の問題、組織の拡充や大学院構想など機構上の問題、研究報告会の日程や科学研究費の申請、出版物の編集な ど研究活動上の事項、各種学会情報や海外研究者の動向、外国人研究員への対応や、ひいてはレクリエーションの日程に至るまで、およそセンターに関係のある ありとあらゆる事柄が全員参加のもとで議論されていたのです。専門を異にする者たちがひとつの組織の運営を論ずる以上、専門外の事に立ち入らずという態度 ははじめから許されませんでした。したがって、例えば外国人研究員の人選に際しても、自分と専門がかけ離れたA教授とB博士のいずれが適任であるかについ て、資料を理解できる範囲で自分の意見を持つことが要求されました。理念的な対立から、午後1時半に始まった会議が7時を過ぎることも希ではありませんで した。新任の文学研究者はあたかも中小企業の経営会議に紛れ込んだ様な違和感を覚えたものでしたが、10年後の現在、大学改革の流れの中であらゆる大学教 員が多少なりと学際的な考え方や経営者的な発想を迫られている状況を前にして、この違和感自体が懐かしく思い起こされます。


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