3.全国共同利用施設へ

  このような研究活動の傍ら、組織の一層の充実に向けての努力も続けられました。70年代までの目標が、スラブ地域研究を学問として定着させること、そ してその基盤となるべきスラブ研究施設の足場を堅めることに置かれていたとするなら、80年代の目標はわが国の諸分野のスラブ研究の連携を計り、国際的な レベルに高めるために、全国的な規模の共同研究・共同利用の中心組織を作るという、遠大なものとなっていました。

  すでに82年に伊東孝之センター長のもとで、「ソ連・東欧研究所」設立構想(9)が発表されていますが、これは単にわが国だけで はなく、東アジア・環太平洋諸国のスラブ地域研究をリードするような全国共同利用施設を北大に設立しようというものでした。伊東さんはこの研究所の活動と して、従来からセンターの活動に含まれていた共同研究プロジェクト、研究集会、共同研究員制度、資料収集と共同利用などを充実させることの他に、定期的な 海外学術調査、若手研究者の現地研修、国内の若手研究者を対象とした夏季セミナー、大学院生や研究生の教育など、国際交流や後継者教育にも踏み込んだ提言 をしています。想定された研究所は、文化部門・政治部門・経済部門からなる研究部を主体として、共同利用部、情報資料部、事務部を配し、管理運営組織とし て教授会の他運営委員会、専門委員会を持つ、総勢42名の大組織でした。そこには研究体制自体への反省もさることながら、研究補助や共同利用のための人的 基盤の圧倒的不足に対する強い危機意識が反映しています。

  このようなアイデアを現実のものとするために、以下のような方向での努力がなされました。

  1)日本のスラブ研究の実態調査:
  国内の研究環境を把握するため、上記の書誌・図書館情報や年次別の研究文献目録の仕事に加え、研究の現状調査が行われました。わが国の専門家に関する アンケート調査はすでに1971年、75〜76年の二度にわたって行われ、それぞれ研究者名簿の形で発表されていましたが、86年度にはさらに大規模なア ンケート調査(北海道大学教育研究学内特別経費「日本におけるソ連・東欧研究の歴史、現状、改善への提言の基本語査」)が行われ、1202名の研究者の研 究主題、業績、所属学会情報などを盛り込んだ名簿が作成されました(10)。またこれに先立って外川継男、伊東孝之、 長谷川毅各教授らが、それぞれ日本のスラブ研究の歴史と現状、問題点を論じた文章を発表しています(11)

  2)外国の研究状況調査:
  センターの研究員は自己の留学経験や外国人研究員との交流を通じて、それぞれ外国でのスラブ研究事情を知る努力をしていましたが、87年度には木村汎 さんを代表者として組織的な海外調査(文部省科学研究費国際学術研究「ゴルバチョフ改革のインパクト」及び「西欧におけるソ連、東欧研究の今後」)が行わ れました。木村さんらはフランス、イスラエル、ベルギー、イギリス、西ドイツ、アメリカの総計32の研究・教育機関を2回に分けて訪問し、それぞれの特徴 と将来の可能性を調査しました(12)。 またこれ以前に秋月孝子さんが、欧米のスラブ関係図書館の調査を行っています(13)

  3)検討会:
  上記のような調査と並行して、全国の諸分野の専門家を交えたスラブ研究発展のための検討会が継続的に行われました。84年7月と85年2月のセンター 研究報告会においては、「わが国におけるソ連・東欧研究のあり方」と題する談話会が、それぞれセンターの長谷川毅教授、木村汎教授を話題提供者として行わ れ、欧米の研究・教育事情との比較におけるわが国の問題点が議論されました(14)。また87年7月、1O月、88年1月の3 回にわたって、科学研究費プロジェクト「スラブ研究の推進の方法に関する検討」に沿った検討会が札幌と東京で行われました。

  84年7月の談話会において長谷川さんは、各種学会を包括する組織の設立、国際交流の進展、後継者の計画的養成、図書購入の組織化など1O項目にわた る提言をしていますが、これは後にいわゆる「長谷川ぺ一パー」(15)と してまとめられ、87年度の一連の検討会の土台となりました。

  87年10月神田学士会館において行われた検討会は、スラブ研究の現状に関する諸分野の代表者の問題意識が表明されたという点で、特筆すべきものでし た。すなわち「学会組織」に関して気賀健三(ソ 連東欧学会)佐藤経明(社会主義経済学会)山口巌(JSSEES) 越村勲(東 欧史研究 会)和田春樹(ロシア史研究 会)佐藤純一(日本ロシア文 学会)塩 川伸明(ソビエ ト史研究会)、「図書館情報体制」に関して、加藤一夫(国立国会図書館)秋月孝子(センター)松田潤(同)、「教育問題」に関して、藤本和貴夫(大阪大 学)下斗米伸夫(成蹊大学) 和田春樹(東京大学)、「国際交流」について、川端香男里(東京大学)竹浪祥一郎(桃山学院大学)の各氏が、それぞれの立場からの提言を行い、他の諸方面 の参加者を交えて充実した討論が展開されたのでした。この検討会の後、参加者一同の連名で「スラブ地域雑誌センター設立に関する要望書」、「日ソ文化交流 協定に基づく国費交換留学生制度に関する要望書」が関係当局に送付されました(16)

  一連の検討会の締めくくりとして88年1月センターにおいて行われた検討会で、伊東孝之さんは日本のスラブ地域研究の改善の方法を、1)「日本スラブ 学会連合」(仮称)の組織、2)「スラブ地域文献センター」、「スラブ地域雑誌センター」の設置、3)「日本スラブ学委員会」の任命、4)国際交流の窓 口」の開設という4点に絞るという、暫定的な総括を行いました。そしてこれらの機能のいくつかを果たすことができる有力な既存の機関のひとつとしてスラブ 研究センターの名をあげるとともに、センターがこのような全国的な研究サービスの役割を担うためには、抜本的な組織改革が必要であることを訴えたのでした(17)

  センターのこのような運動が概ね各界の支持を得ることができたことには、無論80年代中盤から始まったソ連および東欧での大変動が大きく影響していま した。社会主義圏の改革への動きは、一般社会や学生の間のスラブ地域への関心を高めると共に、情報の多元化、現地研究の可能性の拡大、国際交流の進展、学 際的なアプローチの必要性といった数々の点で、研究者と研究体制の体質改善を迫るものでした。とりわけスラブ諸国との文化・学術的な交流上の障壁が取り払 われ、情報と人間の往来が始まると、わが国の内部における研究の閉鎖性、資料収集の遅れ、研究機関や学会の間のコミュニケーションの希薄さ、教育・研究の 分野や対象地域の偏りといった問題点が明らかになりました。これはあながちわが国ばかりの問題ではありませんが、例えばスラブ圏の研究者や学生、資料など の大規模な流入に柔軟に対応した欧米の学界に比べ、わが国の研究体制の硬直性は明白でした。日本にスラブ地域に関する研究・情報収集・国際交流・専門家教 育の全国的な規模のセンターを作ろうという理念は、80年代前半と後半とではまったく異なったリアリティーと緊要性をもって感じられました。

  このような状況を背景に、80年代末にかけてセンター改組のための歳出概算要求が続けられ、そしてついに90年6月、原暉之センター長のもとで、全国 共同利用施設スラブ研究センターが誕生することになったのです。


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