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 木村汎さんを悼む

     あれはどこだったか。米国か欧州のどこかの都市に出張したときだった。旅装を解いて一緒に街に繰り出したが、誰も旅の疲れでクタクタだった。突然、木村さんが走り出した。なにかを拾い、前を歩いている夫婦に「落とし物ですよ」といって届けた。われわれも落とし物は目撃したような気がしたが、誰もなにをする気も起きなかった。このように木村さんはどんなに疲れているときでも困っている人を助けようとする気持ちを失わなかった。大学の同僚だけではなく、事務職員も、学生も、講演を聴いた聴衆も、はては新聞の読者さえも助けられた記憶をもっている。


     1972年、私がドイツから帰国して北大スラ研に赴任したとき、木村さんは入れ違いにモスクワ大使館に出向したので2年間顔を合わせることがなかったが、その間札幌郊外のご自宅に住まわせていただいた。たいへん助かった。世間知らずのせいで当時はどんな大きな好意に甘えることができたのか分からなかった。今さらながらお礼を申し上げる。ご一家が帰国されたのち、運良く5軒隣に空き家が見つかったので、そこに引っ越して、しばらく近所づきあいをさせていただいた。木村家の利発な娘さんと私の長女が同年で、幼稚園でも一緒だった。それこそ家族ぐるみで付き合いをさせていただいた。まもなく木村さんも私も別のところに引っ越したが、職場ではその後もずっとお世話になりっ放しであった。


     サービス精神に富んだ人だった。人を笑わせることが好きで、そのためにたえず話題を探していた。それは大きな努力の賜だった。人を傷つけないように細心の注意を払ったが、それでも気を悪くする人がいたかも知れない。しかし、大多数の人々は話題の提供者がいることに救いを感じるものである。私もその一人だった。


     偽悪家、あるいは露悪家だったということができようか。自分はこんなに悪い人間だぞ、といかにも悪ぶって見せることがあった。こういう芸当ができるのは、世間慣れした商売人、実業家、政治家などに多い。学者はそれができないだけではなく、慣れていないのでほんとうに悪い人だと思い込んでしまうことがある。私などは典型的にそのタイプで、はじめはしばしば欺された。木村さんとお付き合いさせてもらって、偽善家よりも偽悪家の方が何百倍もよいことを知った。


     いつもなにかを勉強していた。例の露悪趣味で、遊び人ふうの話し方をするけれども、実際にはほとんど遊ばず、仕事ばかりしていた。たえず原稿を抱えていた。毎年十数回世界を飛びまわってシンポジウムで報告をした。あれほど旅行をする人だからあちこち観光しているのだろうと思うと、旅先でもほとんどホテルに閉じこもって本を読んでいるか、原稿を書いているかだった。飛行機の中でも本を読めるようにと豆ランプを持ち歩いた。ニューヨークの大学に5年通ったが、まるで市内見物をすることがなかったという。仕事をしていないと気が落ち着かないたちなのだろう。根を詰めて仕事をしているうちに、体力の限界を忘れてしまいがちだった。駄洒落を飛ばしていてもいつも疲労が顔に滲み出ていた。


     自分がスラ研に来たのは研究のためであって、教育や行政ためではない、と木村さんが言い放ったのを覚えている。はじめ私はその意味がよく分からなかった。私は個人的に講義をするのが下手くそなので研究の方がよいと思っていたが、木村さんは講義や講演が得意だった。また私は個人的に人前に立ったり、外部の人と付き合うのが苦手だったので、行政には向かないと思っていたが、木村さんはまったくその逆だった。統率力があり、判断や事務処理が速く、外部との交渉が巧みだった。センター長職は順番制だったので木村さんも不承不承引き受けなければならなかったが、その時の采配ぶりはみごとだった。スラ研はそのおかげをいまでも蒙っている。とくに、研究費の調達、いわゆるファンドレイジングの方面で。ただ、ときどき会社の社長さんか役所の部長さんのような提案をして、度肝を抜かれることがあった。思うに、得手不得手の問題ではなくて、筆耕を自分の生業と心得ていたのでそれ以外のことに煩わされるのを嫌ったのだろう。職場としてスラ研の次に選んだのも国際日文研という研究機関だった。


     木村さんにとって研究者であるということは、単に本を読んであれこれ考えて、ときどき誰も読みそうにない文章を書くということではなく、何よりも文章を書くこと、それも人に読まれそうな文章を書くことだった。そのためにはもちろん研究の必要があり、膨大な量の資料を読み漁らなければならなかった。しかし、努力の大部と時間は筆耕の仕事にとられる。木村さんは書くのが好きだった。大部の学術書から地方紙のコラムに至るまで、ありとあらゆる形式、内容の文章を書きまくった。どれも専門でない人にもすぐ読めるような、分かりやすい言葉で書かれていた。あまりにいわゆる「雑文」を書きすぎるので、むしろジャーナリズムだと非難する声もあったが、ジャーナリストであのような内容の文章を書ける人は少ないだろう。どんな短い文章にもふだんからの大きな研究の蓄積が滲み出ていた。


     ものを書くのは好きだったが、学会に出るのは嫌いだった。おそらくそれは時間の無駄だと考えたためだろう。しかし、日本のロシア東欧研究を代表して国際組織に加わり、毎年のように世界のどこかで開かれる代表者会議に出席した。木村さんほど内外のロシア東欧研究を結びつけるのに大きな功績を挙げた人は少ない。そのため海外では日本の当該分野の研究の代表者として知られていたが、国内の研究者から選ばれたわけではなかった。国内の学会では木村さんを知らないという人も少なくなかった。木村さんは学会の公式活動ではなくて、自分が関心を寄せる特定のテーマに焦点を合わせた研究会やシンポジウムに好んで出席した。


     日本のロシア研究者にはロシア研究そのものから入る人と、第三国経由で入る人とがいる。前者はロシア語資料を処理するのは得意だが、英語での発表が苦手で国内に留まりがちである。これに対して後者はロシア語資料の処理には後れをとりがちだが、英語での発表が得意で国際派となる。木村さんは言うまでもなく後者だった。もちろん自分のテーマに関しては十分にロシア語資料を処理することができた。しかし、ロシアには留学経験がなかったので、本人も認めるようにロシア語で話すのは苦手だった。その代わり、訛りはあったが立派な英語で話し、国際シンポジウムで大活躍した。英語話者の相手もみごとに論破する場面を幾度となく目撃した。英語での論文、著書も多い。


     自分は専門的にはすぐ近くにいながらテーマ的にほとんど重なることがなかったので、木村さんの業績を実はよく知らないし、評価できる立場にもない。はじめのころはロシア人の国民性論などもあったが、この40年ぐらいはもっぱら指導者論(ブレジネフ、エリツィン、プーチン論)と日露関係論(北方領土論)が中心であったように思う。今さらながら木村さんは根っからのロシア好き、ロシア人好きだったんだなという思いを禁じ得ない。しかし、日本のロシア通にありがちな対象への思い入れからではなく、一定の分析枠組、しばしばアメリカ仕込みだが、多くは自分で苦心して作り上げた分析枠組を通して見ようとした。だから突き放した見方をした。記憶に残っている言葉がある。自分は北方領土返還論者だといわれているが、論理の世界で遊んでいるつもりで、なんらかの政治的立場にコミットしている気はまったくないんだ、と。あれも一流の偽悪主義だったのか。


     公私ともに親身にお世話いただき、ご指導いただいた。心から感謝し、ご冥福を祈りたい。

    (伊東孝之)

     

     

    スラ研時代はカメラがデジタル化されていなかったので、すぐ紹介できる写真がほとんどない。
    これは2003年9月2日に札幌で木村さんが報告したシンポジウムのあとの懇親会。林忠行センター長に労われている。


    同じくそのシンポジウムでの報告のあと、討論者からのコメントを聞く。


    2017年2月17日、産経新聞正論大賞授賞式で壇上に上った木村汎・典子夫妻。

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