I.A.ゴンチャローフと二人の日本人
沢 田 和 彦
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はじめに
周知のように、ゴンチャローフは日本と関わりの深いロシア作家である。彼は、1853(嘉永6)年に日本の鎖国を開放する使命を帯びたロシアの第三回遣日使節E.V.プチャーチン提督の秘書官として長崎に来航したし、また小説『断崖』は、日本近代文学の嚆矢とされる二葉亭四迷の小説『浮雲』に多大の影響を及ぼした。だがペテルブルグでの作家と日本人たちの交渉についてはあまり知られていない。本稿ではゴンチャローフと確実に交渉のあった二人の日本人を取り上げる。
1. 市川文吉のロシア行
市川文吉は1847年8月3日
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、蕃書調所
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教授職市川兼恭
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(1818-1899)の長子として江戸に生まれた。文吉は1860(万延元)年、13歳の時に蕃書調所でフランス語学習の命を受けてこれを学び始め、1864(元治元)年には開成所の教授手伝並当分助に任ぜられた。
1865(慶応元)年、幕府が本邦初のプロのロシア語通詞志賀親朋と箱館駐在の露国領事I.A.ゴシケーヴィチの勧請を容れて、初めてロシアへ留学生を派遣することになった。留学期間は5年の予定で、ゴシケーヴィチは日本政府からの借金を、留学生のロシア滞在経費と相殺しようとしたのである。市川文吉は、従来ロシアとロシア語に深い関心を持っていた父兼恭の推薦によって留学生に選ばれた。兼恭は当時開成所で次席の地位を占める教授で、幕末ドイツ学の第一人者だった。当時の開成所の学科目は次のとおりである。
和蘭学、英吉利学、仏蘭西学、独乙学、魯西亜学、天文学、地理学、窮理学[物理学−沢田]、数学、物産学、精煉学、器械学、画学、活字
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しかしながら「魯西亜学」の教員はまだいなかった。兼恭は息子をその教員にしようとしたのだろう。文吉はこの時18歳、開成所仏学稽古人世話心得の身分だった。
他に選ばれたのは幕臣の子弟で開成所の生徒4名、緒方城次郎(英学稽古人世話心得、21歳)、大築彦五郎(独乙学稽古人世話心得、15歳)、田中次郎(14歳)、小沢清次郎(蘭学稽古人世話心得、12歳)と、箱館奉行支配調役並の山内作左衛門(29歳)である。志賀の留学は出発直前に取り消しとなった
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。家格の高い市川が一行の組頭になったが、留学生取締役には年長の山内が任命された。この不自然な人事が、後にロシアでの市川と山内の対立を引き起こすこととなる。
市川の壮行会が下谷の「松本屋」で催され、そこには開成所の教授職31名が出席し、芸者100名が侍ったという。父の兼恭は開成所の同僚や部下に、息子に対する壮行文を依頼した。これが『幕末洋学者欧文集』
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である。執筆者は計35人。内訳は蘭文18人、独文5人、仏文4人、英文8人である。送別文の大半の主旨は、父祖の国日本の洪恩を忘れず、学業に精を出し、健康に留意せよ、といったものである。兼恭は「越後屋」呉服店(後の「三越」百貨店)で文吉に燕尾服風の洋服をあつらえてやり、洋学者柳河春三宅で家族全員の記念写真を撮った。
さて留学生一行は箱館に集合し、1865年9月16日(陰暦7月27日)にロシアの軍艦「ポカテール」
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号で箱館を出帆した。長崎、香港、シンガポール、バタビア(現ジャカルタ)、ケープタウン、セント・ヘレナ、イギリスのプリマス経由で、フランスのシェルブールに上陸した。この間彼らは慣れない洋食、艦の揺れと船酔い、焼け付くような暑さと寒気、便秘に苦しめられた。プリマスで初めて劇場やホテルといった西洋文明の粋にふれた。シェルブールからは汽車でパリ、ベルリンを経由し、翌1866年4月1日(陰暦慶応2年2月16日)にペテルブルグに到着した。都合214日の旅だった。
2. 遣露留学生の顛末
到着2日後に留学生たちはロシア外務省アジア局に出頭し、そこで橘耕斎という日本人に引き合わされた。周知のように、1854年にプチャーチン提督が下田に来航した時、ディアーナ号は津波で損傷を受けて沈没してしまったので、戸田村でロシア人は日本人の協力のもとにスクーナー船「戸田」号を建造して、プチャーチンはこれに乗って帰国した。この折り橘は、ゴシケーヴィチらとともにプロシアの商船グレタ号で日本を密出国した。後にゴシケーヴィチは橘の協力のもとに『和魯通言比考』(1857年)を編纂した。橘はロシア名を「ウラヂーミル・ヨーシフォヴィチ・ヤマートフ」
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と名乗り、ゴシケーヴィチの推挙でアジア局に九等官通訳として就職した。1870年にはペテルブルグ大学東洋語学部の初代日本語講師となった。彼は1874年に日本に戻ったが、帰国に際して在露18年間の功業に報いるためスタニスラフ三等勲章と年金1000ルーブルをロシア皇帝より下賜された。橘がゴンチャローフと知己を結んでいた可能性は高いが、それを裏づける資料は今のところ発見されていない。
さて留学生はゴシケーヴィチや橘、そしてペテルブルグ大学東洋語学部長で中国学者ワシーリエフ教授の尽力でロシア語を学んだ。彼らは露都到着4日後から借家で女中二人と下男一人を雇って共同生活を送っていた
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。山内の両親宛の手紙に、「吾等の家は川[ネヴァ川−沢田]より西にして川東に帝宮あり」
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とあるので、借家はワシーリエフスキイ島にあったのだろう。そこにゴシケーヴィチがやって来てロシア語を教えてくれた。ゴシケーヴィチは知人宛の手紙にこう書いている。
毎朝9時から12時まで(すくなくても11時30分まで)きちんと授業しています。みんな熱心に勉強しており、一人だけのぞいてみんな才能のある青年たちです。この冬までにはみんなロシア語がわかるように教えこみ、あとは新しい先生がたに引き継ぎたいと思っています
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。
だがゴシケーヴィチの来訪は非定期的で、教え方も非体系的だった。山内の手紙にこうある。
右之人[ゴシケーヴィチ−沢田]を師にいたし学ひ居候所、中々稽古にも相越不申、〈中略〉コシケウヰチもよろしく候へ共、なにこともとんちやく致さぬ人故、学問筋もよく厳重にをしへ申所には至不申候、依てこまり入申候
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。
ゴシケーヴィチの面倒見はあまりよくなかったようだ。また橘もロシア語の先生としては力不足だった。山内は橘の語学力について手紙にこう書いている。
魯学は不学のよし出来不申候、しかし十年も居り候間言葉数を多く覚え居、とうやらこうやら通弁いたし居申候よし
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露都到着1カ月後に、和服を着、腰に大小をたばねた姿で撮影した留学生たちの写真が残っている。取締り役の山内はその余白にロシア文で決意のほどを認めた。
Где недостает простых сил, там пробега-ют(sic) к искуству(sic), когда немогут(sic) осу-ществовать(sic) чего(sic) в ближайшее время, то неупускают (sic) из виду в будущей дали, вот в чем заключается превосходство запада, вот что должны страться(sic) усвоить иностранцы.
Россия и соседнее и дружественное наше(sic) государство, можно ли нечувствовать (sic) ее влияния! Но Япония, хотя с сотворения мира и прошло более десяти тесяч(sic) лет, в первый раз посылает седа(sic) своих учеников. При таких милостях, имеющих вес горы, что можем мы сделать с нашим телом легким, как лист - остается толко (sic) в стыде о своей неспособности, выразить это набумаге(sic).
1866 года, Японского Государа(sic) Кеиоо 2-й годе (sic) правления в 3-й луне в Русской столице Петербурге Японец Ямауци с почтеньем сделать(sic) эту падпись(sic).
ウラヂヴォストークの極東大学日本語科教授スパルヴィンによる和訳を次に示す。
普通の力にて足らざる場合には技術を以てす。今実行為し難き事は遠い将来にまで注意を中止せず。之が西洋の卓越せる点なり。異国人は之を学ぶべく努力せざるべからず。
ロシアは我々の隣国にして、また親善国なり。その影響を受けざるべけんや。
然るに日本は世界の開闢以来既に一万有余年を経たるにも拘わらず、その生徒を此処に派遣せるは今始めてなり。
泰山の如き恩恵に対し木葉の如き軽き身を以て何を為しえんや。只己が無能を恥ぢて之を紙面に記すのみ。
一千八百六十六年、日本の慶応帝の治世二年三月、ロシアの都ペテルブルクに於て日本人山内この書を謹みて認む
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。
スパルヴィンによると、このロシア文は16箇所の文法的誤りが認められるものの、当時の諸事情を勘案すればよく書けているという。山内は日本出発前に箱館でロシア語を少し学んでいたし、ロシアで一番よく勉強したのも彼だった。従ってこの文章は、この時点での留学生たちのロシア語力を推し量るひとつの目処となる。他の5人は恐らくこれ以上の力は身に付けておらず、ロシア文法の難解さに辟易していたものと思われる。山内は両親宛の手紙にこう書いている。
ことに魯はからんまちかと申もの、外国よりはよほとむつかしく候<中略>当地に相越既に一年に候へ共、中々十分に口も通し不申、学問進み方至て遅く…
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薩摩藩士で後に明治政府の初代文部大臣になる森有礼が当時英国留学中だったが、彼は同じ薩摩藩士の松村淳蔵とともに1866年夏に11日間ペテルブルグを訪問し、幕府の留学生たちとも親しく交わった。森もその日記『航魯紀行』にこう記している。
魯国之国語ハ欧羅巴ニおひて学ふニ最も六ケ敷と聞けり、尤文典の動詞の変化や形様詞等至而混雑と、幕生緒方(此人和蘭と英とを先達而学へり)といふ人の話也
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その後留学生は各自専修したい学科目を選定した。田中、市川は鉱山学、小沢は器械学、大築は医術、緒方は精密術を選び、山内は大学で歴史、窮理、地理、文法、法度などを学ぶことにした
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。1868年、即ち彼らがペテルブルグに来て3年目に、ロシアの雑誌『現代の記録』第3号に「ロシアの寄宿学校で学ぶ日本人たち」と題する次のような記事が掲載された。
『ロシア報知』のペテルブルグ通信員が伝えるところによれば、ペテルブルグのツェロフスキイ男子寄宿学校で5人の日本人が注目を集めている。彼らはきわめて高貴な家柄の出で、もう3年間この学校で学んでいる。彼らの最年長は22歳で、この人物は妻帯しているが、妻は日本にいる。彼らは全員賄い付きの下宿生活で、生活費と聴講料として各自1500ルーブルずつを支払っている。通信員の言葉によれば、3年間に日本人たちはめざましい進歩を遂げて、もうきわめて自由にロシア語で意思の疎通ができ、諸科学への高度の適応能力を発揮している。彼らはとりわけ博物学のすべての分野に関わる科目を好んでいる。彼らはわがロシアの専門教育施設に入学するための準備中である。彼らのうちのある者は外科医学専門学校、ある者は鉱山大学、またある者は交通路技師専門学校、というように
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。
この記事から、留学生たちが賄い付きの寄宿学校に入っていたこと、そこで各自目標をもって熱心に勉強し、ロシア語も上達していたことが分かる。人数が5人とあるのは山内がこの時点で既に帰国していたからであり、妻帯者とは緒方城次郎のことだろう。鉱山大学入学を目指していたのが市川である。
しかしながら、留学生の努力は実を結ばず、ロシアの大学、専門学校入学の夢はとどのつまり実現しなかった。その理由としては、第一に彼らの多くがロシアという国に失望したからである。山内は手紙のなかで、「都は江口三分の一たらすに可有之候、中々英仏両国之繁栄には及び不申すへて汚穢に有之候」、住民は愚鈍怠惰、「よほと外欧羅巴人に比し候へはするく実田舎ものに候」と極言し、「風雪凝凍更に春色も無之土地に遷滴いたし、一同あきれはて居申候」と書いている。また学生の風紀廃頽に関しては、「初る日頃よりみな学校之方に稽古に相越させて学校中入仕候はよろしく候へ共、学校中稽古人みなあしく候間よき事は覚え申間敷、旁々学校之師之傍に栖居候方よろしからんとの事に御座候。いまて日合も有之決意不仕候。」
(19)
と述べている。森も『航魯紀行』で、ロシアがヨーロッパの後進国であることを指摘し、ロシア語の学習が困難にもかかわらずその効用が少ないため、「幕生衆も魯渡の事を甚た悔めり」
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と書いている。山内は既に帰国前に、「帰国の上はいつれ早々英学にても相始申度」
(21)
と両親に打ち明けているほどだ。
また一行の半数は年齢が若すぎたこと、前述のような留学生同士の不和を引き起こす人選の拙さ、講義を聴いて理解するほどロシア語の力がついていなかったことも理由に挙げられよう。森の『航魯紀行』に、「市川、緒方ハ以上[御目見以上−沢田]の格とそ、山之内氏ハ以下なれとも齢も長し、学文もあつて、諸事両士より遥ニ勝さらん、餘は乳児也」
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とある。山内によれば、小沢、田中の二人は「日本国」の字も読めなかったという
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。1867年3月に山内が病気を理由に帰国し、次いで徳川幕府の倒壊とともに1868(明治元)年5月に4名が帰国した。かくしてロシアへの留学生派遣はほとんど実を結ぶことはなかった。
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