アレクサンドル一世(1777-1825 在位1801-25)の治世の前半はナポレオン戦争の時期に重なる。この時期のロシアと西方との関係は、地図のうえで次のように描きうるであろう。
1812年、ロシアは42万にのぼるナポレオン軍に侵攻された。そこにはフランス以外の大陸諸国の兵士も多数含まれており、ロシアは西方諸国の大軍を一国で迎え撃ったことになる。モスクワが占領されたのち、ロシア軍は反撃に出、アレクサンドルは西ヨーロッパに転戦してパリに入城した。さらに、彼は1815年までにフィンランドとポーランド(ワルシャワ大公国)を獲得し、西方に大きく進出した。ロシアがヨーロッパでの威信をかつてなく高めたことはいうまでもない。この西方での新しい獲得地をロシアは「立憲的」に支配した。1809年、アレクサンドルはフィンランド大公国に「特許状」を与え、固有の基本法を維持することを認めた(1)。ポーランドは、1815年5月3日の国際条約によってロシア皇帝を国王とする立憲国になった(2)。
このような外交的諸事件のすえに、1815年9月、アレクサンドルは神聖同盟草案を著し、そこで彼自身の「神聖同盟」の骨子を示した。ここで「神聖同盟」とは、15年9月26日にロシア、オーストリア、プロイセンの君主が締結した条約そのものでも、ウィーン会議後の実際の国際体制でもなく、ロシア皇帝がナポレオン戦争後のヨーロッパ体制に関して抱いていた考えや計画を示す。
アレクサンドルの「神聖同盟」構想は従来、「精神的」あるいは「反動的」などと否定的評価を受けることが多かった(3)。本稿の目的はそれを再検討することにある。その一つの方法として、ここでは「総同盟」案に対するアレクサンドルの姿勢をとりあげる。この提案は、外務次官ヨアニス・カポディストリアス(1776-1831、在任1815-22)がアーヘン会議に諮るものとして1818年7月6日に皇帝に提出したもので、次官はそれを皇帝の「神聖同盟」の「発展」であるとみなしたからである(4)。
従来、ナポレオン戦争後の国際体制やアーヘン会議について多くの研究がなされてきたが、同会議における「総同盟」構想をめぐる皇帝と次官の姿勢は十分には把握されていなかったようである。
西欧とアメリカ、日本において、ロシアの外交文書を用いてアーヘン会議を詳しく検討した例を寡聞にして筆者は知らない。代表的な先行研究としては、ウェブスターとベルティエ・ド・ソヴィニを挙げうる。前者はイギリスの文書を用いてイギリス外相ロバート・カスルレーの政策を描き、後者はオーストリア外相クレメンス・メッテルニヒの対仏政策についてオーストリアの文書を中心に分析した。その際それぞれアーヘン会議をとり上げ、ロシア皇帝はある段階で次官の考えを受け入れたと考察した。両者の相違はその変化を前者は10月14日に、後者は12日に置いた点にある。いずれにせよ、双方ともにロシアが会議で実際に提案した文書に依拠して「総同盟」構想を論じ、前述した次官の元案に言及しなかった。そのため、皇帝と次官の考えの共通点や相違点に焦点は当たっていない。いま一人、グリムステッドについて述べる必要がある。その研究はロシアの文書館の調査を土台にしているが、外交文書館の文書は利用できず、アーヘン会議に関する提案や交渉内容を直接扱えなかった。「総同盟」についての論考は、次官が再度その実現を試みた1820年以降に集中している。アーヘンについては、皇帝が途中から次官の考えに接近したと述べるにとどまった(5)。
ロシアでは自国の文書が使われたが、それでも、「総同盟」に関する交渉の解明は不十分でしかなかった。ソ連時代、シロトキンは1818年7月6日の次官の提案など外交文書館の手稿を利用して、次官の構想を立憲主義部分と国家連合提案に分けて論じた。後者については対仏政策の一部として言及し、次官の皇帝に対する説得が10月12日以降功を奏したと分析したが、次官の案と皇帝の構想との関連やアーヘンでのロシアの諸提案に見られる細かい表現の変化には立ち入らなかった。立憲主義的提案に関しては、アーヘンで提示することを皇帝が許さなかったと断定した。1995年、ロシアのシャプキナはアーヘン会議全般を描いたさいに「総同盟」案をフランス問題から独立させて扱ったが、その詳細な検討は行わず、皇帝は徐々にその計画を放棄したと述べた(6)。
筆者はすでに皇帝の「神聖同盟」を解明する一環として、1815年9月の神聖同盟草案や対仏政策などを論じてきた。次官の計画に関しても考察したが、皇帝の「神聖同盟」との関連やアーヘンでの交渉については簡単に述べたにすぎない(7)。本稿では上記の研究状況を考慮し、まず、皇帝が「総同盟」計画をアーヘンで提案させるにいたった経緯と彼の「神聖同盟」との関係を描く。次に、ロシアと他の四国同盟諸国との交渉を取り上げる。最後に、その交渉をめぐる皇帝と次官のやりとりを通して皇帝の姿勢を分析し、彼の態度の原因を考察する。
この作業に際して筆者は、ロシアが保存しているアーヘン会議関連の文書を主に利用し、皇帝や次官の姿勢を時系列で整理することに努めた。それら公的史料とメモ類はロシア帝国外交文書館にまとまって手稿の形で保管されており、その一部が1976年に公刊されている(8)。
「総同盟」の名とその考えは、外務省の半官誌『公正な保守主義者』が1817年3月14日に掲載した匿名の記事において初めて現れた。この雑誌はカポディストリアスの監督下にあったものであり、少なくとも彼が載せさせたと考えてよい。以後の文書の内容との類似性から、彼自身が執筆した可能性もあるであろう。すなわち、「総同盟」は同年6月17日づけで次官が作成した「ロシアの外交関係概要」(以下、「概要」)において再び言及された。ついで次官は18年7月6日に「アーヘン会議に関する報告」(以下、「報告」)を皇帝に提出し、そこで「総同盟」構想を詳しく論じた(9)。この「報告」は、同会議で扱うべき問題について上奏するように、アレクサンドルが4月初めに次官に命じたものである(10)。
前述したように、カポディストリアスはこの「報告」のなかで「総同盟」について、皇帝の「神聖同盟」を「発展」させたものと述べた。アレクサンドルはすでに1815年9月に神聖同盟草案を著し、そこで自分の「神聖同盟」の骨子を描いていた。それは、国際的平和と国内秩序を最終的に維持することを目指していた。現状維持というこの目的にかかわらず、その直接の手段は国際的および国内的体制における変化をある程度必要とするものであった。具体的には、宗教的な表現の中にも、全てのキリスト教諸国の集団安全保障的な国家連合を結成し、かつ立憲君主主義を推進する志向を示したと理解できる。この方向性はメッテルニヒに拒否された。15年9月26日に締結された神聖同盟条約は、彼の修正を経て成立したものである(11)。メッテルニヒは「小国」をふくむ国家連合の形成と立憲君主主義の擁護の双方を否定し、草案に根本的な修正を施した。彼の立場は「大国」のヨーロッパ支配と立憲君主主義的改革の抑制にあったからである(12)。さらに、イギリスは修正後の神聖同盟にも参加しなかった。また、イギリス、オーストリア、プロイセンの三国は同条約の公表をよしとせず(13)、同盟を現実的に機能させるつもりはなかった。
カポディストリアスが「報告」でまとめた「総同盟」は、実際、「神聖同盟」の延長上にあったようである。「報告」から「総同盟」案の基本政策は次の二点にあると判断できる。第一に、ヨーロッパの国際政治体制として「総同盟」alliance g始屍ale を新たに結成する。その加盟国は、文脈からみて、オスマン帝国を除く全てのヨーロッパ諸国である。しかも、原則上、加盟国の主権が保障され、全加盟国が平等な地位をもつ。敗戦国フランスも例外ではない。そのような「総同盟」の目的は、1815年6月9日のウィーン最終議定書や11月20日の第二次パリ講和条約と四国同盟条約など「ウィーンとパリの諸条約」と「有効な全ての条約」によって定められた領土の保全を図り、かつ「正統主権」を保障することにある。そのため「報告」は、全ヨーロッパ諸国からなる「総同盟」に会議と仲裁、軍事的制裁による紛争の解決という機能を与えた。会議には全ての当事国が参加する。「報告」が「総同盟」を「総保障条約」ないし「相互保障」条約とも呼ぶ所以である。一種の「集団安全保障」といってよいであろう(14)。
第二に、全ヨーロッパで立憲君主主義を推進する。「報告」は、「下からの」「革命的」要求と「上からの」旧体制の復活という二つの極端な傾向がともに「正統主権」を脅かすと述べた。既存の君主権力が存続しうる唯一の手段は、漸進的な「上からの改革」によって二つの傾向の間で均衡を保つことしかない。君主による「上からの」改革の具体像に「報告」は触れなかったが、「不法な見解」や「恣意」による統治を非難した。ここに「法にもとづく支配」と、その制度化としての立憲君主主義への支持を認めうる(15)。
このように「総同盟」構想はヨーロッパ諸国全体の集団安全保障的国家連合を提案し、立憲君主主義的改革を促進した。その枠組みは、皇帝が神聖同盟草案で掲げた変化への志向とその手段をほぼ踏襲していた。
「報告」はこの「総同盟」を「四国同盟」による戦後秩序に意識的に対置した。
「四国同盟」の土台は、ロシアとイギリス、オーストリア、プロイセンがイギリス外相カスルレーの主導で1815年11月20日に結んだ四国同盟条約である。同条約は、14年3月1日のショーモン条約と15年3月25日のウィーン条約という対仏大同盟条約の「原則に、現状に最もふさわしい適用を与える」ものとして定義された(前文)。条約の土台を対仏大同盟に置いたのである。ここで重要なのは以下の条文である。第1条は、フランスの国境線や同盟軍による一時占領などを決めた15年11月20日の第二次パリ講和条約の遵守をうたった。第2条は、ナポレオンとその家族を「フランスの最高権力から永遠に排除する」ために軍事協力することと、フランスにおいて革命が生じないように四国が配慮し、革命の場合には四国とフランス王とが対策を講じることを規定した。第5条によれば、フランスにおける同盟軍の占領が終了したのちも、四国はフランスにたいする上記の防衛条項を「完全に有効のまま維持する」。第6条は「会議」を定めた。四国は君主か大臣の「会議を定期的に開催することに合意した。この会議は共通の大利益に資するものであり、諸国民の平和と繁栄、ヨーロッパの平和に最も有益とその時判断される手段を検討するためのものである」。この規定は、四国が会議でヨーロッパの国際政治を決することを許す。「四国同盟」は対仏同盟であり、同時に、「大国」が「小国」の外交と内政を支配するのを可能にする体制であった(16)。オーストリアとイギリスはそれを戦後秩序の要とみなしていた。「報告」はそれを「排他的」体制、「四大国」が「他の国家に関する事柄」に「干渉する」秩序として非難した(17)。
これに対して、「総同盟」は、敗戦国フランスや「小国」にも発言権を認め、加盟国である全ヨーロッパ諸国に原則上平等の地位を与える。それだけでなく、「報告」は集団安全保障に、「小国」の権利と領土を「大国」から保護する手段を見た。「弱小国はそれによって(強国の力から守られる)確実な保障を得るであろう」と述べたのである。もっとも、「大国」と「小国」は実際には完全に平等ではない。「大国」は「小国」に「指導と保護を与える」(18)からである。このように「総同盟」構想は「総同盟」内での「大国」の優越をある程度容認した。また、それはロシアが「小国」の指導者として影響力を拡大する体制であった。それでも「総同盟」は、イギリスとオーストリアが目指す同盟、つまり「大国」が「小国」の問題を一方的に決定しうる秩序とは一線を画していた。「総同盟」は、「小国」の権利をある程度保障するようなヨーロッパ秩序として位置づけうる。また、「総同盟」構想は立憲君主主義を支援する点でも、メッテルニヒの志向に相反していた。イギリスやオーストリアの方向性と対抗する点でも「総同盟」は「神聖同盟」を受け継いでいたといえよう。
もっともイギリスにとっては、むしろ「総同盟」こそが内政干渉の秩序であった。「報告」が擁護する権利とは「正統主権」のものに限られたからである。のちに18年10月8日の「秘密覚書」は「正統主権」について、「現行の諸条約によって認められたもの、あるいは伝統的な」ものと述べた。そのさい「正統主権」とは次の二つを意味した。第一に、君主が有する対内的主権。すなわち、国家の領域内において君主は他の権力に制約されない最高権力をもつこと。とはいえ、「総同盟」計画は立憲君主主義を擁護する以上、革命に因らないかぎり、憲法による君主権力の一定の制限はむしろ歓迎されることになる。また、既存の共和国を君主国に戻すことは目指していない。主眼は、1815年当時の君主国において君主権力が革命によって覆されるのを認めない点にある。第二に、国家の対外的主権。すなわち、国家権力は対内的ならびに対外的事項の処理において外部の権力に従属しない。「報告」は、「総同盟諸国は、どの国の正統主権であれ、その国内における行使を妨げない」と述べた(19)。この言葉は対内的主権の表現であると同時に、「総同盟」にたいする国家の主権の擁護を示したものでもある。だが、この対外的主権は、対内的主権が君主に限られることによって自ずから制約される。君主権力が打倒された場合や、それが主導しない内政的変化が生じた時、「総同盟」は干渉する正当な権利をもつ。このような対外主権の制限は、「総同盟」の「小国」にたいする姿勢を二面的なものとした。「総同盟」は「小国」の対外的主権を擁護するが、同時に、すでに「大国」の支配下にある地域の独立は許さない。このように「総同盟」は「正統主権」の維持を文書に明記することにより、自らの限界をも定める。それに対して「四国同盟」は、実質はどうであれ、条約自体においては、四国が会議を行うということと対仏同盟を維持することを定めたにすぎなかった(20)。
ここで、「総同盟」計画とカポディストリアスの立場との関係をみておく必要がある。彼はイオニア諸島のギリシア貴族の出身であった。1800年にオスマンの形式的宗主権とロシアの保護下に建国されたイオニア七島連合共和国で彼は国務大臣を務め、1803年憲法の作成にも寄与した。その後同諸島はフランスの支配を経て、15年11月5日の条約によってイギリスの保護下に入り、イオニア諸島合衆国として憲法をもつ独立国家の地位を獲得したが、イギリスがこの定めを有名無実化したため、カポディストリアスはイオニアが条約どおりに立憲国家の地位を獲得することを目指した。つまり、彼にとって「小国」の権利の保障と立憲主義的改革の保護はたしかに切実な問題であった。「総同盟」構想にはギリシアという「小国」の出身者としてのカポディストリアスの立場と彼の立憲志向が投影されているといえる(21)。その一方、「正統主権」や国境線の維持は彼の立場と必ずしも一致しない。それはイギリスのイオニア統治を正当化する。さらに、彼はオスマン支配下のギリシアが自治や独立を得られることを望んでおり、オスマンの「正統主権」を容認するわけにはいかなかった。彼は17年6月17日の「概要」で、領土保全などの原則はオスマンやペルシアなど「総同盟」の外では適用されないと述べた。「正統主権」についても同じことがいえたはずである。このように「正統主義」と領土保全という原理と彼の立場とのあいだに矛盾があることを考慮すると、その二つは彼の元々の考えではなく、アレクサンドルの要請で出てきた可能性を指摘できよう(22)。
ところで、アレクサンドルは、1815年当初から「神聖同盟」構想の現実化をめざしていた。立憲君主主義への志向は、1815年にカポディストリアスがフランスの1814年憲章体制を四国同盟条約で保障し、かつ領土縮小や軍事占領、賠償金など講和条件を緩和することで憲章体制を支援しようとしたさいに、皇帝が強力な支持を与えた点に現れている(23)。
国家連合の点でも、前述のオーストリアやイギリスの反対にもかかわらず、アレクサンドルは自分自身の考えを通そうとした。16年初めに彼は調印された神聖同盟条約文書に声明書を添えて、オーストリアやイギリスに無断で発表した。その声明書は彼の草案に近い内容をもっていた。メッテルニヒに削除された変化への方向性を復活させたのである。さらにロシアは独自に、15年11月にフランスを、16年以降他の国々を神聖同盟に誘っていった(24)。
アレクサンドルはこのように神聖同盟条約を自分の「神聖同盟」の意図で利用する一方で、自分の考えの実現のためにはそれだけでは不十分であることを認識していたようである。
彼はまず、当時交渉が本格化していた四国同盟条約に、自分の計画の一端を担わせようとした。皇帝が承認した同条約案第4条は、「領土ならびに平和と一般的平穏を維持するための相互保障の条約」を、同盟軍によるフランス占領が終了した後に締結すると述べた。15年9月26日づけのネッセルローデの回状もこの趣旨で書かれていた(25)。皇帝が領土保全を目指していたのは明白である。さらに、「一般的平穏」の維持という点に「正統主権」保持の欲求を見いだすことができる。彼は神聖同盟草案で平和と秩序という目的を掲げたが、この平和と秩序とは領土保全と「正統主権」の保護を意味することが明らかになったのである。彼はそれをここでは「四大国」に保証させようとした。いずれにせよ、四国同盟条約はアレクサンドルの意に反して、第二次パリ講和条約が定めた国境線とフランス立憲王権を保障したにとどまった。
ついで1816年4月2日づけで皇帝はカスルレーに「大同盟」の締結を打診した。「大同盟」構想は、集団安全保障的な国家連合と立憲君主制の上からの推進という手段を草案よりも明確に掲げた。皇帝は神聖同盟草案で国家連合の範囲をキリスト教諸国と考えていたが、ここでそれをヨーロッパに改めた。同時に、「新しい(国際)秩序の継続」と国内における「安定した穏やかな秩序」の維持とに資するものとして「大同盟」を描いた(26)。同提案の目標は、彼が四国同盟条約で実現を目指した国境線と「正統主権」の保持にあったといってよいであろう。したがって、「大同盟」計画は、神聖同盟草案と四国同盟条約案の延長上にあるものとして位置づけうる。これもイギリスの考慮の対象とはならなかった。
皇帝の「大同盟」提案と同じ頃、16年3月26日づけでプロイセンのシェーラー将軍が外務顧問アンシヨンの覚書をロシア皇帝に送付した。5月4日づけの皇帝の書簡と外交文書集の注によれば、覚書の趣旨はこうである。神聖同盟条約を思想的なものから政治的な合意に転換させる必要がある。そのため、ヨーロッパの国境線と「正統主権」に関する「保障条約」を締結する。この条約はまず「五大国」によって結ばれ、次に他の国々が加盟する。加盟国は会議を開催し、係争問題を審議する。その際、「正統主権」が自国の政治体制に導入する変化に他国は干渉できない。だが、「正統主権」を脅かす状況が生じた場合には、加盟国は「社会秩序を守り維持する義務を負う」。この保障が改革を促し、同時に、革命を抑制する(27)。
16年5月4日、アレクサンドルはプロイセン宰相カール・ハルデンベルクに自筆の書簡を送った。彼はそこでアンシヨン覚書に満足の意を表し、神聖同盟条約を「ヨーロッパの政治体制に適用させる」ものと評価した。一方で皇帝はアンシヨン案の修正を求めた。「全ての国の一般的合意」によって「正統主権」と国境線に対する「より確かな保障」を得るべきであるというのである(28)。アンシヨンが「五大国」の合意を優先したのにたいし、ロシア皇帝は全ての国が最初から平等に「保障」に加わる方がよいと判断したことがわかる。
皇帝はイギリスとオーストリア、フランスにこの「保障条約」を打診するようプロイセンに要請したが、進展はなかった(29)。その後に現れたのが「総同盟」構想であった。
カポディストリアスは「報告」で、「総同盟」は元々アンシヨンによって提案されたものであると述べたが、その通りに理解することはできないであろう。少なくとも、「総同盟」の名称はカポディストリアスが与えたものであった。「総同盟」の語はアンシヨン提案や16年5月4日の皇帝の書簡にはまだ現れておらず、その表現は次官が掲載した17年3月14日の『公正な保守主義者』の記事において初めて見られるからである。また、内容についても次官がアンシヨン案を自分なりに解釈して議論を展開したと考えてよいであろう。だが、その一方で、「総同盟」構想にはアンシヨンに触発された面も相当あったようである。「総同盟」計画は、その「正統主権」維持と領土保全という目的と、ヨーロッパの国家連合と立憲君主主義という手段とにおいて前述の「大同盟」案をさらに明瞭にしたものであったと考えられるが、アンシヨンの「保障条約」案がこの明瞭化の点で貢献した可能性が高い。「総同盟」の出現そのものを同案が促したということも十分考えられる(30)。
以上のように、アレクサンドルは1815年以来「神聖同盟」の実現に固執し続けていた。「総同盟」はその努力の延長上にあるものであった。そのさい彼の考えにおいては立憲君主主義や国家連合と同時に、正統主権の保持と領土保全が重要な位置を占めていたと言ってよい。
カポディストリアスは、このような皇帝の姿勢とは微妙に異なる立場にあったようである。皇帝が四国同盟交渉で国境線と「正統主権」の保護を重視したのにたいして、次官がそのような皇帝の意向を同交渉で重視した気配はない。カポディストリアスはイギリスの同盟案に反論するさいにも、イギリス案が領土と「正統主権」を保障しなかったのにかかわらず、そこに非難の焦点を合わせなかった(31)。さらに、1817年3月14日の『公正な保守主義者』の記事では「正統主権」と領土保全のいずれの原理にも言及させず、条約の不可侵のみを掲げさせた。同年6月17日の「概要」が初めて領土保全を目標として挙げた。他方、すでに3月14日の記事は「小国」の権利の擁護を強調していた。軍事制裁を含む集団安全機能を有する国家連合の形成と「四国同盟」体制との対抗の考えもすでにこの時表明されていた。全ヨーロッパ規模で内政改革を促す必要性については、早くも16年1月26日に次官によって論じられていた。したがって、彼が最初から執着していたのは立憲君主主義と国家連合という変化につながる二つの手段と「小国」の権利の擁護、「四国同盟」への批判であり、「正統主権」の維持と領土保全は後から次官の主張に加わったもののようである(32)。1818年の「報告」においてさえ、立憲君主主義や国家連合に比べて、「正統主権」と領土保全は強調されていないようである。「報告」全体としてはあくまで、後者が提案されているのであるが、そのことを積極的に述べているのは、アンシヨン案の引用と説明のところでのみなのである。1818年7月6日の「報告」においてすでに、「総同盟」提案には皇帝の意向がある程度反映されていたといってよいであろう。
さて、1818年7月下旬、カポディストリアスは「アーヘン会議に提出すべき覚書素案」(以下「素案」)を作成した。全体的に「素案」は7月6日の「報告」を縮小したものにほぼ等しい。とはいえ、「素案」と「報告」の内容には変化もみられる。「素案」は「報告」にあった「総同盟」と「四国同盟」の対抗の構図を弱めたようにみえた。「総同盟」構想と「四国同盟をそのまま維持すること」とは本来同じことであり、両同盟を「永遠に共存させる必要がある」と述べたのである。たしかに、同時に、既存の合意の「単なる更新」ではなく、「四国同盟」に「新しい力を刻みこむ」必要があると「素案」は記した。「四国同盟」はそのまま存続せず、その第6条の「原則」、すなわち「諸国民の平穏と繁栄、ヨーロッパの平和の維持」に基づいて「総同盟」が形成されるという。この理論はその後もロシアの拠り所となるが、「素案」が「報告」と異なり、「四国同盟」を排除すべきものとして表現しなくなったことにはかわりない。「小国」の権利の擁護についても「素案」は特別に明記しなかった。
このような表現上の一定の変化にかかわらず、「総同盟」構想がオーストリアやイギリスの「四国同盟」システムと相反するものであるという点は実質的に失われなかった。「小国」が同盟に参加する以上、「総同盟」は「大国」の強権から「小国」を保護する意味を有していた。そのうえ、「総同盟」体制の基盤を強化するような前進もみられた。「総同盟」結成の方法として、「報告」は「四大国」の「宣言」に他のヨーロッパ諸国が参加する形を考えていたのに対し、「素案」は、全てのヨーロッパ諸国が「条約」を締結することを想定した。また、「素案」は、ヨーロッパに「監視軍」を一定期間置くことを主張したのである(33)。
「素案」は、皇帝が「報告」をアーヘン会議で提案するために書き直させたものであるという(34)。「四国同盟」との対抗は次官の重要な主張であったことを考慮すると、その点で「素案」に導入された修正が実質的なものではなかったとはいえ、皇帝が命じて修正させたことは明らかであろう。その一方で、「素案」が本質的に「報告」に等しいということは、アレクサンドルは「報告」に描かれた「総同盟」計画を承認したといっておいてよいであろう。彼がそれを認めたのは、ひとつには、「総同盟」を「神聖同盟」の延長上にあるものとして認識したからであると思われる。前述したように彼は自分の「神聖同盟」を実現することにこだわってきた。彼はカポディストリアスという知性と強力な味方を得て、自分の「神聖同盟」をアーヘンで再び具体化させようとしていた。
1818年9月29日から11月22日にかけて(35)アーヘンで国際会議が催された。「四大国」とフランスの代表、すなわち、イギリス外相カスルレー卿、フランス駐留同盟軍の総司令官ウェリントン公、オーストリア外相メッテルニヒ公、ロシア外務省長官ネッセルローデ伯(36)、同外務次官カポディストリアス伯、プロイセン宰相ハルデンベルク公、同外相ベルンシュトルフ男爵、フランス首相アルマン・リシュリュー公が参加した。ロシア皇帝アレクサンドル一世、オーストリア皇帝フランツ一世、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム三世もアーヘンに集まった。同盟軍のフランスからの撤退などを話し合うためである。その点ではすでに大筋で合意ができており、アーヘン会議の中心的争点は、撤兵後のフランスの国際的地位の問題にあった(37)。「総同盟」による新しい国際秩序もそれに関わる。
「報告」において「総同盟」は、フランス一国に対する特別な警戒手段をとらず、フランスをヨーロッパ全体の国家連合に包み込むことで、「小国」に転落したその国際的地位を回復し、かつフランスだけでなくヨーロッパ全体における革命や領土侵犯を封じることを目指した。「素案」においてもその観点は引き継がれていた。ヨーロッパの「監視軍」は「特定の国に対する敵対的性格をもはや持たない」と規定したのである(38)。リシュリューも、フランスの国際的地位の回復をもたらすものとして「総同盟」構想を評価していた(39)。
18年11月15日、アーヘンでイギリスとロシア、オーストリア、プロイセン、フランスの五カ国が「議定書」と「全欧州諸国に伝達すべき宣言」に調印し、フランスを除く四カ国が「秘密議定書」を結んだ。「総同盟」は締結されず、その代わり、フランスを加えた五国の「連合 union」が形成された。この五国連合は五カ国の完全に平等な結びつきではなかった。秘密議定書は対仏同盟である「四国同盟」の保持を確認した。「四国同盟」は「フランスとの戦争の場合」に防衛同盟としての役割を引き続き果たす。同時に、ヨーロッパの平和のための四国の会議を定めた四国同盟条約第6条が、平和時における四国とフランスとの関係の土台になる。つまり、「四大国」は対仏同盟である「四国同盟」を維持しながら、フランスを「連合」に迎えたことになる。しかも、宣言書は「その連合は如何なる新しい政治的結合も…志向しない」とうたった(40)。ロシアが目指した新しい国際関係樹立の試みはここで完全に否定された。
「総同盟」が結成されなかった原因の一つはイギリスとオーストリアの立場にあったようである。
イギリスとオーストリアが「総同盟」に否定的であることは、カポディストリアスには初めから明らかであったはずである。すでに述べたように、彼は「総同盟」構想を「四国同盟」体制に対抗するものと見なしていた。メッテルニヒとカポディストリアスのそれぞれの報告によれば、オーストリア側が執拗に追及したのにかかわらず、次官は「総同盟」構想の内容を漏らさなかった。ウェブスターは、彼が計画の挫折を防ぐためにとった措置とみなしたが、おそらくそうであろう(41)。カポディストリアスのこのような配慮にかかわらず、イギリスとオーストリアは、彼がアーヘンで新体制を構築しようとしている点を察知していた。
カスルレーが自ら作成したといわれ、9月末に他の四国同盟諸国に提示されたイギリス政府の指令書は次のように述べた。「重要なことは、[四国同盟]条約を、それが1816年5月に両院の承認を得たときと同じ状態で維持することである」。イギリスは「四国同盟」に固執していた。ただし、イギリスの最大限の妥協線として、「既存の同盟(四国同盟)とフランス王を和解させるような何らかの修正」を導入する考えを提示した。カスルレーの論理はこうである。対仏同盟である「四国同盟」にフランスの国家が参加することは許されない。だが、第6条が定めた平和のための会議にフランス国王を招くのならば可能である。その際その五カ国以外の君主がその会議に参加することはできない。カスルレーはこのような修正ならば「四国同盟」の本質に変化をもたらさないと見なした(42)。つまり、彼は「四国同盟」を維持しながら、「四国同盟」とフランスとの関係を改善しようとしたのである。
カスルレーは、イギリスの伝統的な内政不干渉原則にしたがい、ヨーロッパ全体にわたる正統主権の維持や立憲君主主義の支援などを直接規定する条約に加入するつもりはなかった。だが、彼は「四国同盟」のいわば生みの親であり、「四国同盟」に基づいて「大国」が主導するヨーロッパ秩序を確立することを従来から望んでいた。この点で彼の政策は、大陸の問題にイギリス外交を関与させることを意味した。このような姿勢は、イギリス政府が内政不干渉と孤立主義という原則により忠実であったために、政府との間に意見の相違を生じさせた。政府は会議を定期的に開催して「会議体制」を確立すること自体は容認したものの、それを文書で規定するという外相の立場には反対した。フランスの現秩序の維持を保障するような言質を与えることにも難色を示した。なかでも、16年に入閣したカニング(インド監督局総裁)は、「会議体制」そのものを非難した。政府内でのカスルレーへの反発は確実に強まっていたのである。なお、彼の「四国同盟」政策は元来、その枠組みの中でロシアの自由を縛る意味も有していた。彼はロシアとフランスが過度に接近することも阻止しようとした(43)。フランス王を「四国同盟」との連合に受け入れることを認めたのはそのためでもあろう。
一方、メッテルニヒは、ロシアの記録によれば、9月30日の第1回非公式会議でこう述べた。アーヘンでの課題は「すでに行ったことを保持することにあり」、それに「新たに」何かを「加える」ことではない。このようにオーストリアは新体制の形成に反対していた。同時にフランスとの関係の変化をも目指していた(44)。全体的にオーストリアはイギリスの立場を支持していたといえる。
ただし、メッテルニヒが「総同盟」に反対した理由そのものはイギリスとは異なる点もあった。彼は国境線を保障することは容認しえたようである。彼はのちに11月に、保障の対象を「ヨーロッパにおける領土」に限定しないのならば、むしろ望ましいという見解を示した(45)。明らかにメッテルニヒは、領土保全の原則をオスマン帝国やペルシアにも適用するのならば、ロシアの領土拡大を阻む根拠を得ることができると考えたのである。また、現状維持の立場から「正統主権」保持に反対であったとは思われない。それでも彼はあくまで「四国同盟」に固執した。「総同盟」は、「四大国」によるヨーロッパ支配と立憲君主主義の抑圧という自分の立場に反するからであった。また、10月23日にリシュリューはルイ18世に、オーストリア外相の関心はロシアを抑えることにあると述べた。特に16年以降、ドイツなどにおけるロシア外交の活発な活動がオーストリアを苛立たせていた。フランスとの関係改善を必要と考えたのも、カスルレー同様、ロシアとフランスの同盟の締結を警戒したからであった(46)。メッテルニヒが「四国同盟」を支持したいま一つの理由は、彼が11月に書いたように、イギリスが新体制の構築に反対していたことにあった(47)。イギリスはロシアの影響力拡大を抑制するうえで重要な協力者であった。ただ、メッテルニヒは10月中旬ごろまで覚書(48)を提出せず、表向きの交渉をイギリスに任せていたことを考慮すると、ロシア皇帝と全面的に対立するのを避ける意図があったとも判断しうる。
10月8日、ロシアは、イギリス、オーストリア、プロイセンに「秘密覚書」を提出した。それは前日に皇帝が裁可したものである。ここで、「総同盟」の形式は、「素案」でとられた「条約」としての成立から、「ウィーン会議とパリの諸条約に調印した全ての国が宣言に参加する」という「報告」と同じ形に戻った。
このようにロシアの立場は後退したが、「総同盟」は「四国同盟」とは根本的に異なる体制であり続けた。第一に、「秘密覚書」は以前どおり「総同盟」の目的を領土保全と「正統主権」に置いた。第二に、「素案」同様、「四国同盟」は完全には存続しない。たしかに、「秘密覚書」は「四国同盟」の対仏防衛的側面が残ることを明示するにいたった。だが、平時の国際体制については、四国同盟条約は第6条においてその「原則」を定めたにすぎないと見なされる。同盟には「小国」も実際参加する。また、宣言は「四国同盟」について明記せず、「四国同盟」が限定つきでも存続することは公にされない。第三に、「恒久的な軍事組織」を設立する。ヨーロッパに恒久的な監視軍を創設することによって、集団安全保障的手段はむしろ強化された。第四に、全ヨーロッパでの立憲君主主義の推進。シロトキンは、ロシアはその点での提案をアーヘンで見送ったと述べたが、正確ではない。「秘密覚書」はこう記した。「総同盟」が確立されれば、「社会的諸制度の進歩的改善が促される。なぜなら、諸政府は…自発的な約束にしたがって、恐れることなく、[国際秩序と]類似した制度を臣民に享受させうるであろうから」。ここで「自発的な約束」とは君主が与える憲法を意味するであろう。「(国際秩序と)類似した制度」とは、「個人と物の不可侵性を保障する」体制と同義であった。「総同盟」の結成は、君主が人身の自由と私有財産の不可侵性を憲法によって保障することを促すというのである(49)。「秘密覚書」は、充分、「総同盟」形成の土台となる文書であったといえる。リシュリューはカポディストリアスから情報を得たのであろうが、10月8日、「総同盟」結成についての楽観的見通しをルイ18世に報告した(50)。
10月12日、イギリスは宣言案を作成した。それによれば、四君主が以下のことを宣言する。第一に、四国同盟条約は「現在完全に有効である」。第二に、四君主は、「自分たちとともにこの尊い協調に参加するようフランス王に求めることを合意した。諸君主の条約(四国同盟条約)第6条が、この協調の土台となった」。四君主以外の国はこの宣言書に参加しない。宣言書は「四大国」以外の国に正式に伝達もされない。フランス王には別途、四国の大臣の覚書を送付する。フランス王を加えた五君主は定期的会議を開催する。このようにイギリスはあくまで「四国同盟」を平時および戦時の体制として完全に維持し、それを公にしながら、「四大国」とフランス王との「協調」を築こうとしていた。もっとも、イギリスは、「国際法の厳格な原則によって四君主に資格がある問題以外においてまでも、他の独立国家の内政に干渉することを[四君主が]目指しているという解釈に抗議する」という一文を挿入した。ロシアの批判に応えたものであろう。第三に、フランス王の「協調」への参加は、フランスの「穏健かつ立憲的な体制」の保持に四国が期待するからである(51)。フランスの立憲君主制を支持するこのような言質はイギリスにとって本来望ましくないことであったが、すでに1815年の四国同盟条約交渉でこの点で譲歩しており(52)、カスルレーはそれほど問題ではないと判断した可能性もある(53)。
10月14日、イギリス案を受けてロシアは、「ショーモン条約と四国同盟条約の分析」についての覚書と議定書案(54)を提出した。それによれば、第一に、ロシアは「総同盟」の確立を延期した。「秘密覚書」は四国の宣言に他のヨーロッパ諸国が「参加」することによって国家連合を形成しようとしていたが、いまやそれを断念し、フランスや他のヨーロッパ諸国に四国の宣言を「伝達」するという形を採用した。フランスを含む五カ国のみが「一般的平和の進展」に資する「会議」に出席する。他の国に関しては当事国だけが正式に招かれる。この変化は、「大国」から「小国」を擁護するという点で後退したことを意味する。当事国を「会議」に招くことで、「大国」が当事国を無視して全てを決めることは防ぎうるが、当事国の招聘の決定権はあくまで「大国」にあると思われるからである。さらに、ロシアはヨーロッパ軍を結成する主張をも引っ込めた。だが同時に、「フランスは…この会議に参加する最初の国である」と述べた。将来、当事国以外のヨーロッパ諸国も「会議」に出席するようになることを示唆したのである。フランスを加えた五国の連合を第一歩にして体制が拡大し、いずれ「総同盟」が完成することを保証したといってよい。第二に、四国同盟条約第6条が定めた会議が上記の「会議」の土台であることを認めた。ただし、「フランスおよび他の国家に伝達する宣言が、平和の進展のための会議を定める」と述べた。第6条の他に新たに宣言書を必要と見なしたことで、第6条は会議の「目的」を規定したにすぎないと主張したのである。「四国同盟」は平時に完全な効力を持たないという姿勢をロシアは崩さなかったといえよう。第三に、宣言書が保障する対象が「全政府の権利と領土」になり、「正統主権」は明示されなかった。第四に、全ヨーロッパで立憲君主主義を推進するという内容の記述がなくなり、フランスの「正統立憲王権」の保障にとどまった。第五に、宣言書は「四国同盟」に言及せず、対仏戦争の場合の防衛規定も秘密議定書で定められる(55)。総じてロシアは譲歩をせざるをえなかったが、何としても将来「総同盟」を形成しうる道を残そうとしたと解釈できる。
10月15日に非公式会議が開かれた。カポディストリアスの記録によれば、「メッテルニヒ公が最初に発言したが、ロシアが議定書案で述べたどの問題にも直接言及しなかった」。「カスルレーはロシアの議定書案に関して議論することを丁重に拒否した」。メッテルニヒとカスルレーのかたくなな態度がわかる。実際には、五国連合の性質という名目で国際秩序をめぐる長い議論が交わされた。そこでカスルレーは「五国の連合を最終的結合」とみなし、「将来それに他の国を招く」ことに反対した。また、両者は「第6条はこれ以上望むべくもないものであると主張し」、四国同盟条約を「五国連合」の十分な土台とみなした(56)。彼らとカポディストリアスとの議論は平行線をたどった。
その後、四国は10月19日に基本合意を結び、以下のことを決定した。
第一に、五国の連合を結成する。「総同盟」の語はない。将来におけるその成立を保証する表現もない。もっとも、「総連合」という言葉はある。それは、カポディストリアスにあっては「総同盟」と同義であった。また、フランスの国王ではなく国家が「連合」に招かれた点で、イギリスが譲歩したことがわかる。
第二に、宣言を他の国々に「伝達」し、当事国を会議に正式に招く。「他国の利益に関するいかなることも、当事国を公式に参加することなしに決定しない」。イギリスは12日に内政不干渉を宣言することを提案したが、ロシアはそれを一歩進めさせた。宣言を全ヨーロッパ諸国に伝達し、かつ当事国を会議に参加させるという二点で、14日のロシア提案を受け入れさせたのである。
第三に、四国同盟条約第6条の平時における効力を一定の制限のもとに認める。「…第6条が定めた四カ国間の連合の道徳的原則を完全に純粋な形で維持する」。この「道徳的原則」という言葉は、ロシアにとって、第6条が述べた会議の「目的」を意味した。つまり、会議の開催には第6条だけでは足りず「宣言」が必要であるという実質的な形からロシアは後退し、「道徳的原則」という抽象的な言葉に頼らざるをえなくなった。とはいえ、「四国同盟」は平時において完全に有効ではなく、第6条は会議の「目的」を定めたにすぎないという立場を貫こうとしたのである。また、こうもいう。「フランスを四国に連合させ、それによって、四国の政治の特徴である連合とキリスト教的兄弟的合意の二つが、…諸条約の不可侵性を維持する最も確実な手段であるとヨーロッパに示す」。「キリスト教兄弟的合意」とは、15年9月26日の「キリスト教兄弟同盟条約」、通称、神聖同盟条約を示す。それは「総同盟」を暗示していた。「総同盟」の土台は「神聖同盟」にあるからである。これはロシアにとっては、「四国同盟」だけでは国際体制の基盤とはならず、「総同盟」が必要であるという従来の主張を合意に組み込んだに等しい。
第四に、全ての条約と「そこから生じる権利」の不可侵性を保障する。国境線は保障の対象として明示されなかった。ロシアは「正統主権」と領土の保障という元来の立場から譲歩したのである。とはいえ、イギリスは12日の宣言案で全ての条約の保障は予定していなかった点を考慮すれば(57)、イギリスの妥協も引き出したといえる。
第五に、「四国同盟」の維持は秘密議定書で規定される(58)。この点ではロシアの要求が通ったわけである。
その後、イギリスが反撃に出た。11月1日にカポディストリアスはこう報告した。カスルレーは「全ての国に宛てるべき宣言を無効にし」、四国同盟条約の効力を平和時においても完全に認めようとしている。「したがって開きはまさに、交渉の始めからあったところに…ある」(59)。つまり、「四国同盟」の平時における有効性を「道徳的原則」に限り、かつ他のヨーロッパ諸国に宣言を正式に伝えるという二点において、イギリスは基本合意での妥協を反故にしようとしたのである。
11月15日の最終文書は、ほぼ10月19日の基本合意にそって締結されたものの、イギリスの立場により近づいた。宣言を伝達するという点でロシアは自分の立場を守ったものの、「四国同盟」の効力を「道徳原則」に限定することは断念せざるをえなかった。
ここでもロシアは決してすんなり譲歩したわけではなかった。ロシア側が「神聖同盟」に関する表現に相当固執したことを示す痕跡が、最終文書に残されている。四カ国秘密議定書には次のようにある。「四国政府間の緊密な連合は…四国同盟条約第6条によるものであり、全ての国家を今日結びつけているキリスト教的兄弟的紐帯によって強化されて、フランスとの恒久的平和関係を決する原則を提供する」。この表現は、平時の国際秩序は「四国同盟」だけではなく、「神聖同盟」を土台にするヨーロッパ全体の連合にもあることを示唆している。さらに、宣言は、「神と、統治する国民に対する義務によって、正義と和、穏健の例を出来るかぎり世界に示す使命を五カ国の君主は帯びている」(60)と述べ、「正義」、「穏健」という言葉に立憲君主主義への理解を匂わせた。「神聖同盟」を土台にするヨーロッパの連合と立憲君主主義の推進は、「総同盟」構想の二つの重要な手段である。非常に抽象的な表現であり、イギリスがロシア側の真意を認めるとは期待しえないが、それは将来「総同盟」の実現を主張する場合に根拠になるとロシアは判断していたと思われる。ロシアはそのような文言を文書に挿入することに成功したのである。
カポディストリアスは11月1日にこう述べていた。「どの政府も我々の覚書(10月8日づけ「秘密覚書」)を文書で論じなかった。どの政府も、四宮廷に全ての国を連合させるという考えに恐れおののいた。その考えがいくつもの会議の対象になった。彼らは、四国同盟が平和状況にふさわしい義務を含むという原則を我々に認めさせようとしたが、無駄であった」(61)。この言葉はその後の状況にも当てはまった。「総同盟」が一度も公式会議の主題にならなかったことは、公式の議事録(62)からも議題一覧表(63)からも明白である。ロシアが「四国同盟」の完全な存続を認めることもなかった。 11月15日の最終合意後もロシアの抵抗は続いた。11月23日にロシアが他の4国に提示した覚書はこう述べた。ヨーロッパ諸国の「権利」と「領土の不可侵性」を条約で保障しあうために神聖同盟条約の原則に「外交的形式を与える意図を同盟諸国が持つならば、ロシア皇帝にはその実現を支援する準備がある」。カポディストリアスは神聖同盟条約を持ち出して、構想を実現する道を探ったのである。アレクサンドルはこの文書を15日に裁可した(64)。それは、皇帝も「総同盟」を強力に支持している証拠のように見えた(65)。
「総同盟」が成立しなかった原因は皇帝の支持の有り方にもあったようである。
1818年7月6日の「報告」に描かれた「総同盟」構想に対するアレクサンドルの承認は、アーヘン会議が始まる前にすでに完全なものではなかったといえる。前述したように、7月下旬にカポディストリアスが皇帝の命で作成した「素案」は、6日の「報告」と異なり、「四国同盟」をもはや排除すべきものではなく、その不完全性ゆえに補強すべきものとして扱っていた。「総同盟」の原則あるいは平和のための「会議」の目的が第6条に描かれているという考えもここで現れた。
皇帝の姿勢はアーヘンで初めから動揺していた。9月末の彼自筆の覚書にはこうある。フランスを「ヨーロッパ諸国家の団体」に加入させる。そのさい、警戒手段として「諸国間の緊密な同盟」を締結し、「万が一の場合の軍事的協力」を定める。「フランスの不穏分子に対する抑止力とするため」、その合意を公表する(66)。ここで、「ヨーロッパ諸国家の団体」とは「総同盟」を念頭においたものとも読みとれるが、「総同盟」の語はない。それどころか、フランスに対する防衛同盟を公然と維持することを皇帝は認めていた。
カスルレーの報告によれば、9月29日にロシア皇帝はメッテルニヒとの非公式の会談で、当時流布していたフランスやスペインとロシアとの同盟のうわさを否定した。そのうえで彼はこう述べた。「四国同盟」を「害するきずなを確立させるような我々の行動は裏切である…」。別の日には、フランスの状況は信用できず、「四国同盟」が必要であるとカスルレーに語り、それを「五国同盟」に変える可能性を否定した(67)。ここにあるのは、フランスへの警戒心と、「四国同盟」への完全な支持である。
それをうけて、10月4日にカスルレーはこう報告した。メッテルニヒは、アレクサンドルの言葉を聞いて、ロシア皇帝の「個人的性格」だけが「唯一ロシアの脅威を取り除きうる」とさえ述べた(68)。アレクサンドルは完全に、カスルレーやメッテルニヒと意見を同じくしているように振る舞っており、彼らもそのように判断していたようである。
しかし、事態はそれほど単純ではなかった。同じころのカスルレーの報告によれば、カポディストリアスは、皇帝はまだ態度を決めていないが、その見解はイギリスと全く異なると示唆した(69)。次官はアレクサンドルを説得中であり、説得可能と判断していた。その結果、10月7日に彼は皇帝に「秘密覚書」を裁可させた。この覚書はすでに述べたように、「素案」の立場から後退していたものの、「総同盟」が提案されたことに変わりなかった。
10月12日のイギリス宣言案が新たな動揺を呼んだ。この宣言案に関してカポディストリアスが作成した文書が残っている。「イギリス政府が提案した宣言案にたいする注記」(以下、「注記」)である。彼はそこでイギリス案の表現をこまかく批判した。皇帝がイギリス案をすぐに拒否していたら、あるいは、次官の口頭での説得に簡単に応じていたら、この文書は必要なかったであろう。その存在自体が、皇帝を納得させるのがいかに困難であったかを示す。同じ日、リシュリューは、ロシア皇帝は当初カスルレーの宣言案を認めたが、カポディストリアスが皇帝を翻意させたと報告した(70)。
とはいえ、カポディストリアスはイギリスの宣言案が出る前の位置に皇帝を戻すことは出来なかった。彼は「注記」で、ヨーロッパの全ての国が「総同盟」形成の宣言に「参加」すべきであると述べた(71)。つまり、「注記」は10月8日の「秘密覚書」同様、「総同盟」の結成を目指していた。一方、すでに述べたように、皇帝が認めた14日の議定書案は宣言を他の国に「伝達する」という立場をとり、アーヘンでの「総同盟」成立を断念し、その結成を将来に延期したのである。
10月19日の基本合意後にイギリス、オーストリアが反撃に出たさい、11月1日づけでカポディストリアスは皇帝に悲痛な調子で支持を懇願した。カスルレーによれば、皇帝は次官を一旦支持した。そこで、ロシア皇帝とイギリス外相の会談が行われた。その際カスルレーは、イギリスの伝統的外交原則に反する条約を結べば、すでにイギリス議会が行った現体制への承認をも覆しかねないと論じた。アレクサンドルは納得した。彼が譲らなかったのは、フランスを何らかの「協調」に参加させることのみであったという(72)。
11月15日の最終合意の日、先に述べたように、カポディストリアスはアレクサンドルを説いて、「総同盟」提案を他国に呼びかける「覚書」(23 日づけ)に同意させた。だが、そのころ次官と皇帝が別々に外交使節に送った指令には違いがあった。次官は11月15日づけで、「総同盟」の名こそ挙げなかったが、15日の合意が「総同盟」への拡大の一歩になるという見解を示した(73)。彼にとって15日の最終文書は、ヨーロッパの新しい国際秩序を確立する途上にあるものであった。一方、皇帝は21日に、「私が新しい政治体制の創造を模索している」ような暗示を行ってはならないと指示した。彼は新しい国際秩序を形成する意図を否定したのである。彼はまた、そのような言質が「ヨーロッパの全ての諸君主を結びつける兄弟愛の絆を破壊し、少なくとも弱める」と見なした(74)。「ヨーロッパの君主の兄弟愛の絆」とは「神聖同盟」のことであろう。「四大国」の不和は「神聖同盟」を破壊すると考えていたことがわかる。皇帝はアーヘンで「総同盟」に最後まで固執する姿勢をとったが、それは撤退しようとする彼を次官が留めた結果でもあった。15日に裁可された「覚書」が23日にしか発送されなかったこともそれを示す。
以上のように、10月8日の「秘密覚書」も、14日の覚書と議定書も、11月15日の覚書も、後退する皇帝を次官がその度に説得して生まれたものであった。メッテルニヒやカスルレーが「総同盟」提案を軽視しえた原因は、アレクサンドルの同意が不安定であったことにもあろう。すでに述べたようにカポディストリアスはイギリスやオーストリアの拒否を予想していた。それでも皇帝の強力な支持があればかなりの譲歩をイギリスやオーストリアから引き出せると思っていたのではないか。実際、10月20日にカスルレーは次の趣旨で書簡をしたためた。もしロシアが固執すれば、何らかの新条約を締結してもよいと自分は考えている。だが、その必要はない。ロシアはそれほど固持しない(75)。
ではなぜ、皇帝は「総同盟」計画を完全には支持できなかったのか。その点をアーヘン会議にかかわる文書から考えてみる。
一つの理由は、アレクサンドルが「四国同盟」を重視していた点にある。すでに述べたように、彼は7月末に「総同盟」提案を承認した時すでに、カポディストリアスの構想にあった「総同盟」と「四国同盟」の対立の図式を弱めていた。アーヘン入りしてすぐ、9月末に皇帝がメッテルニヒやカスルレーに熱心に述べたのも、「四国同盟」の重要性であった。11月に入ってカスルレーが皇帝を納得させた根拠も、「総同盟」は「現体制」、つまり「四国同盟」を含む戦後秩序の存立を脅かすという点にあった。
アレクサンドルは「総同盟」構想が「四国同盟」と共存しえないと認識したために、少なくともアーヘンで計画を断念した。彼にとって「総同盟」はあくまで「四国同盟」を前提としていたのである。
では、皇帝の「四国同盟」尊重の姿勢はどこからくるのか。
第一に、「四国同盟」は戦後体制の一角をなしており、皇帝はその秩序を形成した一人であった。それゆえ、それを破壊できなかったと思われる。18年夏にオーストリアの外交官はこう述べた。「[ロシア皇帝の]目的は、彼の手によってヨーロッパに平和をもたらすことと、この平和は彼に依存しているとヨーロッパに認めさせることにある」(76)。彼はヨーロッパ体制の創造者かつ指導者であることに特別の執着を持っていたのである。
第二に、アレクサンドルが他のヨーロッパ諸国との関係に敏感になっていたとしても不思議ではなかった。彼は1812年に西方諸国と一国で戦った。その後ウィーン会議で彼がポーランドに関する自分の意図に固執した結果、1815年1月3日にフランス、イギリス、オーストリアがロシアとプロイセンに対する秘密同盟を締結するという事態を招いた。さらに16年以降、ロシアがドイツ問題などに介入したために、オーストリアやプロイセン、イギリスの反発が生じていた(77)。ヨーロッパの指導者であることにたいする強い固執や、他のヨーロッパ諸国との不和にたいする敏感さは、ロシアが政治的文化的にヨーロッパの「周辺国」であることからくる可能性もある(78)。
第三に、アレクサンドルは、四大国主導の既存の国際体制から実質的利益を得ており、それに満足していた。1815年のヨーロッパ秩序が自分のポーランド支配を保障していることを彼は知っていた。彼は18年9月末にカスルレーに語ったという。「私には希望どおりの広さの領土がある。…私の野心は統治手段を改善し、私の民を幸せにすることにある」(79)。
第四に、皇帝は四大国間の不和が革命を促すと認識していた。彼は11月21日づけ指令で、四大国の対立は「うぬぼれと恐怖を煽り、最も罪のある欲求を一層助長する」と述べている(80)。
第五に、18年9月末にカスルレーに述べたように、革命が発生したフランスに対してアレクサンドルは不安を抱いており、フランスは真の同盟国になりえないと判断していた。したがって、フランスとの関係強化のために「四大国」間の協調を犠牲にすることはできなかった。その意図はすでに15年9月に第2次パリ講和の交渉の方針として示されていた(81)。
さて、アレクサンドルが「総同盟」を完全に支持できなかったいま一つの理由は、彼が重んじていた立憲君主主義的手法に陰りが見え始めたことにあろう。10月14日のロシアの議定書案と覚書は、「総同盟」が全ヨーロッパで立憲君主主義を支持する側面を放棄し、フランス一国の憲章体制の保障で満足した。
彼がそれを放棄しはじめた理由はいろいろ考えられる。イギリスは内政不干渉の立場から、オーストリアは立憲主義の拡大を恐れたために、それぞれ「総同盟」構想における立憲君主主義的側面に反対していた。ヴァルトブルク祭の影響もあったであろう。イェナ大学のブルシェンシャフトが発起して17年10月18日に開かれたこの祝祭で、当時「反動」と見なされていた書物の焚書が予定外に行われ、一般に大きな衝撃を与えていた(82)。また、多くのロシア貴族は、18年3月27日にアレクサンドルがポーランド国会で示唆した帝国への憲法導入に反対していた(83)。同国会はおおむね平穏であったが、政府への批判もあり、政府の法案が全て通ったわけでもなかった(84)。皇帝は立憲君主主義的手法を、既存の君主主権と国境線を革命から予防するものとして考えていたのであるが、その効果に不安を抱きうるような状況が存在していたといってよいであろう。
「総同盟」にたいするアレクサンドル一世の姿勢は常にあいまいで動揺していたように見える。次官とのやりとりの中で皇帝の姿勢は前進と後退を繰り返し、全体として放棄の方向に進んだ。
1818年7月末にアレクサンドルは、次官が作成した「総同盟」構想をアーヘン会議に提案するものとして承認した。それを自分の「神聖同盟」の「発展」として認識したからであろう。すでに皇帝は15年以来、神聖同盟草案に描いた自分の考えの実現を図ってきていた。それが全て失敗したのちに、彼は「総同盟」に期待することになったのである。
アレクサンドルの神聖同盟草案は、平和と秩序という現状維持を目的とし、その手段として一定の変化を促すものであった。具体的には、キリスト教諸国全体の集団安全保障的国家連合の形成と立憲君主主義の支援とを掲げた。その後、平和と秩序という目的は「正統主権」の維持と領土保全に等しいことが明らかになった。また、彼の外交上の関心はキリスト教諸国からヨーロッパに移行したようであった。カポディストリアスが1818年に作成した「総同盟」構想は、「正統主権」の維持と領土保全という目的と、「小国」を含む全ヨーロッパ諸国の集団安全保障的国家連合と立憲君主主義という手段とにおいて、皇帝の「神聖同盟」の延長上にあったといえるであろう。
アレクサンドルはこのような「総同盟」をアーヘンで完全には支持しえなかった。イギリスやオーストリアはそれぞれ異なる立場でアレクサンドルに反対していた。カスルレーは、内政不干渉と孤立主義の立場から、「正統主権」と国境線を条約で保障したり、立憲君主主義への支持を宣言することを拒否した。「大国」によるヨーロッパ支配を維持するために、国家連合の形成を認めなかった。メッテルニヒは、「大国」のヨーロッパ支配と現状維持の立場から、立憲君主主義の拡大と「小国」を含めた国家連合を退けた。アレクサンドル自身も立憲君主主義的手段に不安を抱きはじめたようであった。いま一つ、アレクサンドルの支持が不十分であった理由として、同じ計画でも彼と次官では最重要点が違っていたことが考えられる。
アレクサンドルは神聖同盟条約を提案した時すでに、「小国」をも視野に入れつつも、自分のヨーロッパ構想の中心に「大国」を置いていた。15年9月に皇帝は神聖同盟条約をまずオーストリアとプロイセンに提案し、ついでイギリスに参加を求め、11月にフランスに声をかけた。「小国」を後回しにしたのである。彼が「四大国」の同盟を自分の「神聖同盟」計画を補強するものとして利用しようとしたことも想起すべきである。この「大国」重視の皇帝の姿勢がアーヘンで明瞭になったといえよう。一方、カポディストリアスは「大国」にある程度の優越を認めるものの、ギリシアという「小国」の出身として「小国」の権利と内政改革を「大国」から守ることに関心があった。遅くとも17年には次官はそれを皇帝に示していた。
両者の認識の違いはその点だけにあるのではない。すでに15年に、皇帝は立憲君主主義と国家連合を神聖同盟草案で主張すると同時に、四国同盟交渉において「正統主権」の維持と領土保全を外交文書で保障しようとした。次官は、同交渉において皇帝のそのような意図を実現させることに熱心ではなかった。次官は17年3月の時点ですでに、ヨーロッパ全体での立憲君主主義の支持や国家連合の形成を主張していたが、「正統主権」や領土保全にはまだ言及していなかった。
10月12日のイギリスの宣言案に対するカポディストリアスの「注記」は従来ほとんど取り上げられることはなかったが、アーヘンにおける皇帝と次官の決定的選択を知る上で注目に値する。イギリス案に対する次官の対抗案は、「四国同盟」をそのまま継続せず、全てのヨーロッパ諸国からなる国家連合として「総同盟」を結成するという点に集中していた。14日のロシア議定書案がアーヘンでの新たな国家連合の結成を断念したのは、主に皇帝の意向であることがわかる。いま一つ留意すべきは次の点であろう。「注記」は「正統主権」維持と領土保全という原則に全く言及しなかった(85)。イギリス案がその原理を採用しなかったのにかかわらず、カポディストリアスは「注記」でその点に言及せず、容認したのである。一方、皇帝が認めた14日のロシア案は、8日の「秘密覚書」と異なり「正統主権」こそ明示しなかったものの、「全政府の権利と領土」の保障を主張した。
しかし、このように最重要事項が異なっていたとはいえ、アレクサンドルが立憲君主主義や「小国」を含む国家連合を簡単に捨てえたというわけではないであろう。彼はすでにフランスなどで独自の「憲法」外交を展開していた。アーヘンでは、イギリスやオーストリアの強力な反対にかかわらず、次官に説得されて「総同盟」に通じる提案を何度も会議に提出させた。次官が皇帝をそこまで引っ張りえたのは、その余地があったからである。
アレクサンドルが神聖同盟草案以来展開させていったシステムと、皇帝の望みを入れて次官が計画した「総同盟」構想とが同じ矛盾を抱えていたことに、「総同盟」にたいする皇帝の未練の原因を解く鍵があるようである。この二つの構想はともに「正統主権」の維持と領土保全という目的と、ヨーロッパの集団安全保障的国家連合と立憲君主主義の推進という手段を掲げた。このようなシステムは「小国」を「大国」から守ると同時に、「正統主権」によって「大国」の優越的地位をも保障する。また、立憲主義の推進はあくまで「正統」君主自らが主導権をとることを条件とし、「下からの」突き上げを許さない。それは現状維持のために変化を求めるという制御困難なシステムであった。だが、正にそれをアレクサンドルは最大目標として望んでいたのではないか。
アレクサンドルはアーヘンで自分の考えが国際外交において実現困難なことを悟ったようである。といっても、彼が18年にそれを完全に断念したとは言いきれないのであるが、少なくとも、彼は変化を促す手段よりも現状維持の目的をアーヘンで優先せざるをえなかった。だが、彼がその両方を目指そうとしていたということまで疑うのは難しい。
ウィーン会議後の国際関係の特徴として、「大国」による国際政治の独占と革命の抑圧とを挙げることができる(86)。これに対して、アレクサンドルのシステムは少なくとも「小国」を国際政治から排除しない計画であった。また、「正統主権」維持という範囲内ではあるが、抑圧的手段ではなく改革を促し、それによって革命を予防できると考えていた。彼が求めたものと現実の秩序とは区別されなければならないように判断できる。
最後に、アレクサンドルの考えや態度をヨーロッパにおけるロシアの立場という観点から位置づけてみたい。
アレクサンドルの時代にロシア領はかつてなくヨーロッパに進出した。ロシアはヨーロッパの「四大国」の一つになった。ロシア皇帝はヨーロッパで軍事的栄光に包まれていた。当時ヨーロッパの外交世界には一定の同質性、一体性があったといわれる。ロシア皇帝もその外交官も、曲がりなりにもその貴族的でコスモポリタン的な世界の一員であった。ロシアの外交官はフランス語を操り、西欧の思想に通じていただけでなく、西欧の外交官の多くと革命に対する恐怖を貴族として共有していた。また、ロシア外務省はたくさんの外国人をかかえていた。カール・ネッセルローデ(1780-1862) は1816年から56年までロシア外務省を率いたが、彼の父はカトリックのライン貴族でヨーロッパの数カ国に勤務の経験をもつ国際派であった。彼自身はイギリス国教徒として洗礼を受け、ロシア正教徒と結婚した。同じライン貴族出身のメッテルニヒと同様、19世紀的な民族意識はなかったといわれる(87)。ロシア外交界が当時のコスモポリタン的ヨーロッパ世界の一員であったことを示す例である。だが、その一方で、ロシアがヨーロッパに完全に受け入れられていたかどうかは疑問であった。
1812年のパリでは、後々しばしばロシア脅威論の根拠にされることになる偽書、「ピョートル大帝の遺書」の一異本が出版された(88)。ナポレオン戦争後もロシア脅威論は静まらなかった。16年1月26日にカポディストリアスはこう分析した。神聖同盟条約の締結やルイ18世政府に対するロシアの支援、ポーランド会議王国の成立、アンナ大公女 (皇妹) とネーデルランド皇太子の結婚の動きによって、ロシアが世界支配を目指しているという「偏見」が生じた。次官はヨーロッパの世論の不信を解く必要を皇帝に進言し(89)、ドイツなどで非公式通信員を任命することになった。この試みはかえって、ドイツを牛耳る意図がロシアにあるという不信感をドイツ世論に呼び起こした。17年のヴァルトブルク祭では、ロシアの非公式通信員、コッツェブーの書物が焚書の対象になった。その彼が「反動的な」ロシアのスパイとしてイェナ大学の学生ザントに惨殺されたのは、アーヘン会議の翌春19年2月23日のことである。イギリスやオーストリアはロシアの影響力拡大を妨げるため、16年以降、ロシア脅威論を煽る材料をヨーロッパの世論に提供していた(90)。
アレクサンドル自身、メッテルニヒに「風変わりな君主」と評されている。彼の矛盾する行動や態度の変化を世の人は理解しえないともメッテルニヒは述べた。カスルレーもアレクサンドルはほとんど常に非合理的であると考えていたようである。また、専制君主であるロシア皇帝が自由主義的関心をもっていることは人を驚かせた(91)。ペテルブルク駐在イギリス大使のカスカートは、シチリア、スペインなどでのロシア使節の活動に関して16年7月1日づけでこう述べた。「どのロシア人も、自分たちが外国人よりも劣っていると思われることに神経質になっている…。彼らは自分たちが非力であるせいで我々を嫌っている」(92)。ロシアの外交官は西欧に対して劣等感を感じていると大使は見なしていた。
ロシア帝国も、君主も、外交官も、ヨーロッパで完全な「仲間」としては認識されていなかったといっても誤りではあるまい。アレクサンドルの場合、それがロシア皇帝ゆえではなく、たとえ彼独自の問題にすぎなかったとしても、ロシアの君主はヨーロッパの君主や外交官の間で異質の存在であった。そのような状況は、アレクサンドルや外務上層部の姿勢に無意識のうちにも反映せずにはいなかったであろう。もとより、皇帝は西欧との差異を意識していた。たとえば、彼は1802年6月にプロイセン領メーメルを訪れたさい、初めて見た西方の都市に強い印象を受け、ロシアの都市よりもはるかに優れていると側近に熱心に語った(93)。その上、アレクサンドルは孤立無援でナポレオン軍を迎え撃った過去を忘れえなかったであろう。ヨーロッパにおけるロシアの立場が危機にさらされたのは、つい数年前のことであった。
このように、19世紀初頭、ロシアはかつてなくヨーロッパと一体感を強めていたが、それは完全なものではなかった。ロシア外交は、ヨーロッパに対する「周辺性」を解消できていなかったのである。ロシアの勢いがヨーロッパの「中心」に迫ったために、かえって「周辺性」が際立ったようにもみえる。
このヨーロッパに対する「周辺性」の点から、アレクサンドルの「神聖同盟」構想と「総同盟」計画にたいする彼の姿勢とを説明しうるとすれば、次のことがいえるであろう。
一方で、ロシアが「周辺性」を以前よりも弱めたために、「神聖同盟」構想は存在しえたようである。アレクサンドルの「神聖同盟」とカポディストリアスの「総同盟」は、シュリやサン=ピエールなどの数多くのヨーロッパ計画の系譜に属する。リシュリューは、「総同盟」を正にそう評価した(94)。そのような構想はロシアにおいて目新しいものではなかった。1771年にはサン=ピエールの計画の翻訳がロシアで刊行された。19世紀に入ると国際法への関心も高まり、帝国内の5大学では主に外国人によってではあるが、国際法が教授された。その一人であるクリスチャン・シュレーツァーは1804年にロシアで初めて国際法の概説書を出版した。1806年以降、国際法に関するロシア人の著作や翻訳が数多く出現した。ロシアの啓蒙主義者であり、外交官でもあったヴァシーリー・マリノフスキーは、1790年代に『戦争と平和の法』を執筆し、1803年にペテルブルクでそれを出版した(95)。同じ頃、外務次官アダム・チャルトリスキはアレクサンドルに地域的諸連邦に基づくヨーロッパの新体制構築を提言し、受け入れられた。この案を皇帝の「若き友人たち」はシュリの計画になぞらえていた。1804年に皇帝はチャルトリスキの考えを土台にしてイギリスにヨーロッパの「連盟」を打診した(96)。「神聖同盟」や「総同盟」は突然現れたわけではなかったのである。それら一連のロシアの計画は、この種の構想の中では、15世紀のチェコ王イジーを除いて、ヨーロッパの政府が初めて取り上げたものと見なしてもよいのではないかと思われる(97)。ヨーロッパの「大国」になったからこそ、ロシアの君主は全てのヨーロッパ諸国からなる国家連合を外交の場で提案しえたのであり、また、そうする自信を得たのであろう。ナポレオン戦争後、他の「大国」もロシアの意向を結局無視しえなかった。神聖同盟条約に喜んで加盟する国はなかったのにもかかわらず、ほとんどのヨーロッパ諸国はそれに参加することを拒否できなかった。
さらにいえば、ロシアが「周辺性」を弱めたために「神聖同盟」構想は必要になったという側面もある。アレクサンドルの時代、ロシアはポーランドなどの西方の政治的「先進」地域に新たに進出した。もちろん、旧ポーランド国家の一部はすでに18世紀にロシア帝国領に組み込まれていた。だが、新たに支配下におかれたポーランド地域は、ポーランドの中心部であり、しかも、ワルシャワ大公国時代にナポレオン法典が導入されていた。「総同盟」は、一方で、ポーランドを初めとする立憲君主主国や「小国」の保護者としてロシアを呈示し、他方で、領土保全と「正統主権」維持の規定によってポーランド支配をロシアに約束するはずであった。
他方、ヨーロッパに対するロシアの「周辺性」の存在が、アレクサンドルの姿勢に色濃く反映している。彼の国家連合構想は、ロシアが主導する、したがって決してロシアが排除されたり、隅に追いやられることのない「ヨーロッパ」を形成する試みとして読み解くことができる。つまり、「周辺」から脱却して「中心」に立つ計画であった。ここに、彼が「神聖同盟」にこだわり、「総同盟」に魅了された理由の一つがある。
また、アレクサンドルが「総同盟」を放棄せざるをえなかった理由も「周辺性」に求めることができる。彼は「総同盟」への固執が「四国同盟」を破壊すると悟ったためにそれをアーヘンで断念した。このことは、ロシアが他の「大国」に排除されず、ひいてはロシアがヨーロッパの「大国」であり続けるという最低限の条件を守るためであったと解釈できる。
アレクサンドルの「神聖同盟」構想には、「総同盟」に対する彼の姿勢をも含めて、ロシアのヨーロッパに対する文化的政治的「周辺性」の問題が投影されていたといえよう。リーバーはヨーロッパとアジアの双方に対する「周辺性」をロシア外交の継続的状況の一つに数えた。たしかに、この「周辺性」の観点は、少なくともヨーロッパに関して、ロシア外交を解きあかすための一つの鍵になりうるように思われる。従来、「海への出口」への志向や「メシアニズム」、「安全性への不安」などをロシア外交の土台とみなす諸説が存在してきた。ロシアの「周辺性」の観点はそれら諸説と異なる視点でロシア外交を読み直す可能性を与えるであろう(98)。