< !-- Google Tag Manager (noscript) --> [研究ノート]20世紀のロシア、ソヴィエト哲学をめぐって

C
Slavic Research Center,Hokkaido University.
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はじめに

ペレストロイカ政策以降、20世紀のロシア、ソヴィエトを考えるための材料は大きく変化した。それに伴い、哲学・思想研究の成立条件を見直す作業も要請されている。思想家や哲学者の個々の思索を成立させ、支えている環境がいかなるものであったか、その示唆を与える歴史研究ばかりでなく、隣接領域である文学・文化研究にも大きな変動が生じており、時代認識全体が変わりつつあるからである。これは20世紀のロシア、ソヴィエトにおける思索全体をどう理解し、評価するかという問題とも直結しており、その全体像の把握の仕方についても新たな試行が必要と思われる。

しかし、1990年代前半のロシアにおいて盛んに議論の対象とされてきた宗教哲学の扱われ方に見られるように、歴史的な実像を再認識すること以上に、ソ連体制の動揺と崩壊によって失われたロシアの民族的な威信を鼓舞するような方向に逸脱する流れも生じている(1)。少なくとも、学問的に対するならば、今世紀前半のロシア、ソヴィエトにおいて宗教哲学的思索がいかなるダイナミズムから生まれたのか、またそれが今日読まれるべき必然性がどこにあるかという点を明確にしておく必要がある。しかし、残念ながら、今日のロシアにおいてこうした基礎的な作業を進めるための基本的な条件が整っているとは言い難い。厳密なテキストクリティークに基づくテキストの整理や、それに依拠した網羅的な研究はまだほとんどの論者について手つかずに近い状態だからである。さらに、今世紀のロシア、ソヴィエトにおける思想が何を問題としていたのかというアプローチのオプションもそれほど充実しているとは言えない。従って、以下ではこれらの問題への糸口を探るために、ロシア、ソヴィエトにおける「哲学の位置」を巡る議論と、今世紀の宗教哲学の議論に内蔵された弁証法的論理の問題を取り上げ、今世紀の哲学的思索をどのように捉えるべきかを考えていきたい。

1. 哲学の位置

今世紀のロシア、ソヴィエトにおける哲学の位置を考える場合、哲学と政治との関係という問題について考えないわけにはいかないように思われる。例えば、1958年に刊行された『マルクス主義哲学の基礎』の前書きには、「弁証法的唯物論と史的唯物論はマルクス=レーニン主義の一構成部分であり、その哲学的基礎である」という一文がある(2)。つまり「政治イデオロギーとその哲学的基礎」という枠組みが公式の立場であり、それがソヴィエト期の哲学を規定していたわけである。しかし、イデオロギーが現実の国家経営と密接な関係を有し、かつ周囲を資本主義諸国に囲まれた状態で革命を遂行するという至上命題がある中で、「基礎」に揺らぎが生じることが許されないとすれば、そうした規定は早くも一つの束縛として機能せざるをえなくなる。それが端的に示されたのは、1930年のデボーリン批判の際にミーチン派が唱えた哲学のレーニン的段階や党派性という議論である。これによって哲学が政治の婢となり、さらに権力闘争の具となったことは亡命思想家の間では早くから問題視されてきた(3)。日本でも、スターリンの死後に刊行されたマルクス主義に関する論集の中で、山田宗睦がレーニン以後のロシアにおけるマルクス主義哲学のあり方を批判している。そこでは、デボーリン論争を一つのピークとして、ソヴィエト哲学が「哲学史的な必然性」とは異なるコースを歩んだ結果、哲学的不毛の時代を招来したとして、マルクス主義哲学の研究に関わる者は、今後はソヴィエト哲学のコースとは異なる道を辿るべきだという主張がなされている(4)

哲学が政治イデオロギーの根幹としての位置を占めるという状況の経験を持たない者にとっては、両者を分離するべきだという主張は極めて自然なものに感じられる。しかし、今世紀のロシアについて見た場合、必ずしもそれは自然なことだとは言い切れないのである。事実として哲学と政治が不可分なものとなる状況が生じたのはソヴィエト時代であるが、そうした方向性は革命前から、しかも革命勢力においてばかりでなく、大学のアカデミシャンの中にも見られるのである。

ここでは、サンクト・ペテルブルク帝国大学の教授だったА.И.ヴヴェジェンスキー(1856-1925)が、20世紀を目前に控えた1898年1月31日に同大学で催された哲学協会の第一回の公開会議において、ロシアにおける哲学的状況の見通しと18世紀中葉以来のロシアの哲学史について語った講演を題材として、哲学の位置についての問題を検討してみたい。ちなみに、この講演は後に「ロシアにおける哲学の運命」と題して『哲学と心理学の諸問題』誌に掲載され、1901年に刊行された『哲学概論』にも収録されている(5)

(1)ヴヴェジェンスキーの哲学観と18世紀後半の状況に対する見方

この中でヴヴェジェンスキーはまず、「ロシアにおいて近い将来に哲学が十分に開花し、他の国々おいて見せたような貢献をなすことができると考える基盤はあるだろうか」という問題提起をしている。1870年代には、ナロードニキを初めとして、ロシアにおける哲学の可能性への懐疑が広く見られたにもかかわらず、世紀末の当時にはすでに哲学が「人工的な導入の結果ではなく、ありとあらゆる障害に抗して満たされうる深い要求の結果として」存在しており、急速に発展していくものと予測されている(6)。これを裏付けるために、ロシアにおける哲学の歴史的状況を三つの時期に分けて回顧するという哲学史の試みが示されていくことになる。

まず、第一期は準備期と題されているが、ヴヴェジェンスキーがロシアにおける哲学出現の年として考えているのは1755年のモスクワ大学開設の年である。その一方で、当時すでに存在していたモスクワやキエフの宗教アカデミーдуховная академия については、「高等教育機関として創設されたものではなく」、「西欧においてスコラ哲学が与えたような哲学的思惟に対する形式論理学的な準備すらをもロシアに与えなかった」として、18世紀の宗教アカデミーの哲学教育を全面的に否定するのである(7)。ただし、これはヴヴェジェンスキーが18世紀後半のロシアにおける哲学受容全体を単なる準備段階としてのみ捉えているところから出た評価であり、大学においてなされていた哲学研究のみを真正なものと考えるという立場に立つものではない。

ちなみに、約半世紀後に刊行されたゼンコフスキーの『ロシア哲学史』(8)は、西欧哲学がロシアに紹介される過程で宗教アカデミーが果たした役割を認め、その出身者であるチーホン・ザドンスキーやスコヴォロダーを18世紀のロシア哲学を代表する人物として評価している。だが、ゼンコフスキーが正教会の司祭の立場から宗教思想家に好意的な評価を与えていることは明らかで、18世紀の神学アカデミーの状況について肯定的な見解を示す論者は少ない。もっとも、18世紀の状況の評価自体がまちまちであるため、一般的な観点というものを見出すこと自体が難しい。例えば、レヴィツキーは18世紀の神学校はスコラの退屈な雰囲気しかなかったとして批判し、個人ではパイーシー・ヴェリチコーフスキーやチーホン・ザドンスキーなどを評価しているが、これは宗教思想の枠内での話にとどまっている。しかも、ロモノーソフやフリーメーソンのノヴィコフ、ラジーシチェフ、スコヴォロダー、カラムジーンなど18世紀の優れた知性と並列的に扱っているに過ぎない(9)。ロスキーも同様で、この時期の宗教思想の代表的人物としてフェオファン・プロコーポヴィッチやスコヴォロダー、ノヴィコフやシュヴァルツらのフリーメーソンを挙げ、急進派ではラジーシチェフを評価している。

こうした見方と比較した場合、ヴヴェジェンスキーの講話には会合の祝辞としての性格もあったと考えられるが、大学における哲学研究の意義を強調している点で明らかに彼の哲学観とそれに基づく歴史的評価を反映していると言える。そして、その際にヴヴェジェンスキーは哲学的状況を評価する尺度として、哲学と社会の関係が安定的で望ましい状態にあるか否か、つまり哲学への関心が高く、哲学的思索の意義を社会が認めると同時に、哲学がどれほど当時の社会に普及し、社会生活や精神生活に影響力を与えているかという点を重視しているのである。また、これには、状況次第では、単にロシアにとどまらず世界に対して貢献することも含まれている。

ここで、18世紀後半の哲学的状況に対するヴヴェジェンスキーの評価をまとめると次のようになる。当時すでにフランスの自由主義思想が数多くロシアに紹介され、エカテリーナ時代には広く宮廷の内外にも広まっていた。しかし、いかに普及したとは言え、レヴィツキーの表現の表現を借りれば、受け入れられたのはフランス思想の「否定的側面」(10)でしかなく、ヴヴェジェンスキーはロシアのヴォルテール主義の本質は唯物論と感覚的倫理主義にすぎないと断じている(11)。その結果、19世紀に入ってドイツ観念論哲学が台頭すると、フランス思想の痕跡が跡形もなく消えてしまうことになる。その意味で、ヴヴェジェンスキーもレヴィツキーもフランス思想の影響は皮相な模倣でしかなかったと評価するのである(12)。一方、開設以来19世紀初頭までモスクワ大学で教授されていたのは、専らラテン語で講義されていたヴォルフ哲学であり、それが社会に広く知られるという状況にはなかった。また、大学に籍を置く者にもフランスの自由主義思想の影響はあったが、それを積極的に摂取し展開するには至らなかったのである(13)

従って、当時の大学は明らかに社会との接点が希薄であったわけだが、全体にまだ哲学的思索への関心が高くない時代にあって、次の時代にドイツ観念論哲学を本格的に受容する準備を整えつつあった点が評価されていると言える。ヴヴェジェンスキーが18世紀の大学での哲学研究・教育の意義を評価する一方で、その半世紀を単なる準備期としてのみ考えているのはこうした理由からである。ちなみに、18世紀の独創的な哲学者としてヴヴェジェンスキーが唯一挙げているのはスコヴォロダーである。だが、スコヴォロダーをロシアで最初の哲学者として認知しているにもかかわらず、彼が著作を残さず、またそれに伴ってロシアの哲学的状況に何の変化ももたらさなかったことで、その影響力は地方的なものでしかなったと判断しているが(14)、ここにもヴヴェジェンスキーの哲学観が反映していると言えよう。

(2)19世紀哲学史からの示唆

さて、ヴヴェジェンスキーが哲学史を構想する際の基準は以上のようなものであるが、18世紀を準備期とした以上、講話の中でヴヴェジェンスキーが描くロシア哲学史は高々一世紀程度のものでしかない。第二の時期としては、専らドイツ観念論哲学の受容と消化の時期が挙げられ、これが発展の第一期とされている。そして、19世紀中葉に大学で哲学教育が禁じられた中断期間を経て、第三期、つまり発展の第二期が訪れるが、これは19世紀後半のヴヴェジェンスキーにとっては同時代に当たる。しかし、18世紀のヴォルテール主義の流行への評価と合わせると、ここで短いながらも一つの周期的とも言える動向が浮き彫りにされることになる。それは、哲学的な関心が高くない時期、ないしは哲学的関心が衰弱している時期には唯物論や感覚主義が社会的に流行し、逆に哲学的な関心が高い時期には観念論や唯心論に哲学者の注目が集まるという思潮の変化である。18世紀のフランス思想が流行した際と、19世紀中葉にドイツで盛んとなった唯物論が流入した際の二つの時期が前者に当たり、19世紀前半のドイツ観念論の受容期と19世紀後半の新カント派哲学などの受容期が後者に当たるわけである。

ここでヴヴェジェンスキー自身の立場を確認しておくと、カント哲学研究を専門としていることもあり、全体として観念論や唯心論を肯定している。ただし、神秘主義的な傾向には批判的であり、アレクサンドル一世時代初期に大学や宗教アカデミーの制度が改革され、哲学の発展期を迎えたにもかかわらず、ナポレオン戦争後になって神秘主義的な傾向が勢いを獲得した結果、大学での哲学教育が後退させられたことに対して厳しい批判を展開している(15)。逆に、この時期に哲学教育を継続しえた宗教アカデミーから、精神哲学 духовная фило-софия の分野で優れた成果が生み出されていることに言及しており、それが社会的に普及しなかったことに遺憾の念が述べられている(16)。また、後に大学での哲学教育が復活した際に、宗教アカデミーが人材を提供したことなども高く評価している(17)

ちなみに、ヴヴェジェンスキーはいくつかの論文で神や信仰の問題に言及しているが、全体として世俗哲学の立場にとどまっており、論旨においても宗教色は希薄である。これは、理性的、英知的存在者として神的なものを想定することや、そうしたものを要請する心理に対してカントが寛容であったことを継承したものと言える。例えば、ヴヴェジェンスキーは晩年の1922年に発表した「無神論との闘争における神への信仰の運命」(18)という論文の中で、「学問的方法によって自らの観点を証明することに、神を信ずる者も無神論を信ずる者もこれまでのところ成功していない」(19)として、論理的にはどちらも同じように主張されうることを認め、神信仰も無神論も心理的な問題である以上、共に滅びることなく存続し続けるだろうという見方を示している。ヴヴェジェンスキーは20世紀初頭の宗教哲学の隆盛とも一線を画しながら、カント的な観点を維持し続けたのである。

一方、彼は唯物論や実証主義には否定的であるが、その際に自然科学と哲学の関係が問題とされている点には注目しないわけにはいかない。ヴヴェジェンスキーは19世紀中葉のドイツの自然科学において唯物論が再び勢力を回復した原因として、当時の科学の進展によってシェリングやヘーゲルらの示す自然理解との間に懸隔が生じ、より単純な自然理解に基づいて科学研究が推進されたことを挙げている(20)。そのため、科学研究の場において哲学的関心も後退することになったわけだが、こうした流れがロシアに導入されたとき、18世紀後半にフランス思想が流行したのと同様の皮相な理解に立脚して唯物論が流行したという見方が取られている(21)。自然科学における自然観や世界観と科学者の哲学的関心との関係が問題にされるという構図には、明らかに1920年代における弁証論派対機械論派の論争との類似性が見られる。つまり、拠って立つ立場が全く異なりながらも、哲学に思考の一般原理を提供することを求めるという発想においては共通性が指摘できるのである。そうした考え方が当時哲学に携わった者のかなりの部分に共有されていたとすれば、それがロシアやソヴィエトの思想状況において極めて大きな要素となることを認めなければならない。

ただし、その際には類似性ばかりでなく相違している部分にも目配りをしておくべきであろう。ヴヴェジェンスキーの場合には、哲学の専門的な研究の進行とその拡大によって、哲学文化の正統的なあり方が確保されるという観点を一貫させており、社会や宗教などの具体的な問題もそうした見地から論じられている。従って、観念論と唯物論の二つの潮流の交代という見方が出されているとは言え、それは機械的な循環論などではなく、哲学と社会との相互関係への着目が根底にある。その意味では、ロシアにおいては決定論的に解釈されがちである史的唯物論とは明らかに一線を画している。また、それはロシアにおける新カント派と呼びうる論者の特徴を明らかにするポイントにもなる。彼らは人間の認識の本質を探る学問としての認識論や人間精神の本性を問題にする学問としての心理学、そして人間の正当な生き方を確立する学問としての倫理学などの知見を、社会的に有用な理念へと昇華しようとする傾向を持っているが、それは個人的な資質の問題以上に、カント哲学の摂取と展開のあり方によってある程度規定されているように思われる。П.Б.ストルーヴェ(1870-1944)やН.А. ベルジャーエフ(1874-1948)など、マルクス主義的な世界観に共鳴した者が、理論的な問題の部分で新カント派哲学を摂取したのは、正当な哲学的観点に基づく正しい人間社会のあり方を指し示す可能性をそこに見出したからにほかならない。彼らの立場からすれば、哲学に課せられた課題として、社会を領導するための理念の産出があり、その成果を実践に活用していくことを一般的に承認するために、カント的な見地が一定の役割を果たしたのである。

以上のような観点が当時の哲学界において広く認知される状況があったとすれば、大学のアカデミシャンとして哲学研究に取り組んでいたヴヴェジェンスキーのような人物が、明確な社会志向を持っていたということも別に驚くべきことではないのかもしれない。その場合には、彼のような立場の者が決して急進的な革命を唱道するわけではないことも、当然のこととして確認しておくべきだろう。だが、同時に彼らがともすれば「反動」というレッテルを貼られ、革命的インテリゲンツィアから批判されるしかなかったことの意味も改めて問われなければならない。恐らく、論集『道標』をめぐって展開された論争の性格を規定したものこそが、そうした当時の社会状況だったように思われる。『道標』では、第一次革命の失敗によって明らかになったロシア社会の未成熟さが、特に精神的な側面に関わるものと考える論者が多いが、そうした見方を与える哲学的根拠として新カント派的な見地があったと言えよう。理想的な社会建設を行うために理念的な準備が必要だと考えるのは彼らに限ったことではないが、少なくとも哲学的な知見の重要性を承認し、その普及を第一義と考えたがゆえに、これを怠った革命的インテリゲンツィアに対して痛烈な批判が展開されることとなったのである。

従って、当時の文脈において彼らが反動勢力とされたのは、議論の内実よりも発想の点で革命的インテリゲンツィアとの間に大きな相違があったからではないだろうか。つまり、哲学に携わる者の側ではある程度暗黙の了解として共有されていた、一定の哲学観に基づく変革志向というものが、哲学に直接携わることのない活動家レヴェルでは受け入れられなかったのではないかという問題である。議論の前提そのものに齟齬があったと考えなければ、本質的に変革をもたらす理念の重要性に着目していた『道標』の問題意識が、政治的立場としての反動へとすり替えられてしまったことの理由も分からなくなってしまう。冷静に考えるならば、そこにあったのは「理念」を重視するか、「行動」を重視するかという極めて広い意味での社会変革へ向かう路線の対立であり、当時は圧倒的に後者に与するインテリゲンツィアが多かったということを示しているのではないだろうか。そうした時、思想的背景に由来する路線対立が政治的な主導権争いと結合する構図の雛形はこの時期にすでに明確な形を示している。つまり、同じ問題に対して異なる立場からの問題提起がなされた際に、両者の間に本質的に横たわっている問題意識や観点の相違が、いつの間にか政治的立場の問題にすり替えられてしまうという構図である。それは結局のところ権力闘争に収斂するしかないような「相転移」である。『道標』論争をロシア思想史のみならず、その後のソヴィエト史の動向を左右した事件として捉える場合には、こうした思想的状況の理解とあわせて考えることが不可欠であるように思われる。

(3)真理の地位について

ヴヴェジェンスキーや『道標』の寄稿者の哲学観の梗概は明らかになったと思われるが、その内実を規定する問題のいくつかを検討しておくことにする。これまでの議論では、彼らが哲学的な真理の地位をどのように考えていたのかという最も重要な点がまだ明らかにされていない。これは彼らが目指したように、哲学が社会の歩みを定めることができるのかという問題とも密接な関係を持つものである。哲学の社会的使命を要請する背景には、哲学的な真理認識に対する楽観的な期待があるようにも見えるが、永遠不変で客観的、普遍妥当的な真理の存在に対しては今日では誰しも懐疑的である。

また、19世紀後半のカント哲学再評価の機運が、科学研究の認識論的な基礎をめぐって、唯物論や実証主義の立場を批判するために起こっており、主として認識批判の問題に焦点が当てられていることからしても、真理に対する楽観的な観点は不可能であったはずである。『道標』の寄稿者も含めて、そうした哲学的傾向を学んでいた彼らが真理の地位に関して素朴な見解を許していたとすれば、彼らのカント哲学受容にも疑問符を付けざるをえなくなる。だが、結論から言えば、そう解釈されても仕方のない部分があると言わざるをえないのである。ただし、それには様々な前提条件が伴っており、これを無視して結論のみを先取りしても無意味である。まず、ある程度ヴヴェジェンスキーの議論の概要を見ることで、どこにそうした結論を許す余地があったのかを確認していくことにする。

今世紀初頭のロシアにおけるカント哲学受容と展開の動向について論じたアブラーモフは、ロシアにおける新カント派哲学には当時のドイツの新カント派哲学の影響を受けたものと、それとは異なる観点を含みつつカント哲学の再評価を行ったものの二つがあるとして、両者の区別が必要であるとしている。そして、ヴヴェジェンスキーの場合は、認識論的議論において一部コーエンの影響が見られるものの、後者の部類に属す独自のカント哲学研究としての色彩が強かったとしている。こうした特徴は、1)初期の論文「人格化の限界と表徴について」における「形而上学的感覚」の問題、2)修士論文「批判哲学の原理における物質理論の構築の試み」における自己意識の問題、3)論理主義の下で展開された知識論などに顕著に見られるという(22)。1)は『実践理性批判』の影響下に、道徳的感覚 нравственное чувствоと同一視されうるような形而上学的感覚を認識のオルガノンとして認め、そこから形而上学的体系を構築する立場である(23)。2)は「私」についての知識や意識が「私ならざるもの не-я 」の承認や理解を前提としていることに着目したもので、次章で問題とする弁証法的な思考法と相通ずる論点を持っている。3)は知識を三つの水準で考えるもので、アプリオリな知識、アポステリオリな知識、信仰を手段として解明される知識からなるとされている。以上のようなヴヴェジェンスキーの思索の特徴から、アブラーモフは「ヴヴェジェンスキーの批判哲学、ないし論理主義の最終的な結論は、ア・プリオリな知識という狭い領域の背後にア・ポステリオリで合理化されえない知識という広大な領域があるということ、不死や神の存在に対する信仰は「批判主義」の観点からは必当然的ではない необязательно が、決して消え去りはしないこと、無神論も可能であるが、科学はそれを何ら援助するのではないことなどに収斂する」(24)としている。

アブラーモフの結論からすれば、ヴヴェジェンスキーの哲学の根幹は、カント哲学の示す認識の限界や条件をふまえつつ、ア・ポステリオリに獲得される知識や発想を単純に否定し去ることの不合理をも認め、それらをそうしたものとして確保する必要性を承認したものだと言えよう。つまり、日常的な信憑や慣習的に理解される物事は、ほとんどがア・ポステリオリな知識に属するが、それらを客観的で誰しもが納得する手段で覆すことができるならば、そうした新しい知見は普及されるべきである。だが、そうではない場合、つまり宗教や道徳、歴史観など必ずしも科学的な証明になじまないものまで無闇に排除すべきではないということである。これらの領域における知識をどのように扱うかという問題は、カントの言う実践理性、すなわち倫理的な領域や、あるいは美的判断や構想力に委ねられる領域に属するのである。

従って、新カント派哲学や批判主義と言われる思潮が当時のロシアの哲学的状況にもたらしたものが何であったかと言えば、人間の認識能力の条件や限界についての知見というカント哲学の基本的な発想と共に、人間が具体的な生の局面において、そうした有限性を背景として倫理的に行動することの重要さだったのである。批判主義の立場からは、真理は絶対的に客観的に普遍妥当なあれこれの物として指し示せるものではないことは明らかであり、より正しいものへ向かう目的志向的な過程自体が重視される。言ってみれば、いかなる発想の下で行動することが望ましいかということを、その都度毎に立ち止まりながら考え、行動することを求めずはおかないのである。その前提として、日常的な信憑や慣習的なものに対する「批判」が不可欠であることは言うまでもないが、それは科学的真理の名において信憑や慣習を破棄することでもないのである。

その限りでは、カント哲学の洗礼を受けた論者たちは、客観的真理が存在することを素朴に認めたのではなく、論理的に当否の判断を下しえない問題があることを承認し、全体として望ましいあり方を模索する立場に立たざるをえなくなる。こうした観点は極めて穏当で理性的なものに感じられるが、逆に急進的な社会変動を追求する立場に対して批判的になりうるとも言えよう。もっとも、『道標』所収のベルジャーエフの論文では、「真理に対する謙虚さは大きな道徳的意義をもっているが、死んだ抽象的な真理への崇拝をもたらしてはならない」(25)と述べられているように、真理に関係することが一つの実践であることが意識されている。しかし、この実践は特定の目的のために特定の「真理なるもの」を功利的に用いることではない。ある意味では、こうした言い方にならざるをえないところに彼の議論の分かりにくさがあると言っても過言ではないが、批判主義的な立場に立つ限り、それは避けがたいことなのである。

言い換えれば、純粋に批判の枠内にとどまり続けようとすれば、積極的に何らかの政治的主張を打ち出すことも難しくなる。ヴヴェジェンスキーの場合、公にされた文章においては政治的発言がほとんど見られず、個人としてどのような政治的所信を持っていたかは明らかではない(26)。哲学が政治から一線を画しながらその根底にある観点を批判し、社会の方向性を倫理的に模索していこうとすれば、最終的には合意形成に基づく漸進的な歩みの過程で発言することが恐らく最も理に適っているということであろう。上述した1922年の論文にしても、無神論と反教会のプロパガンダが巷にあふれていた時期に敢えて発表されているが、それも哲学者の見識として当然の行動だったと考えることもできる。これとは逆に、ある程度政治志向を持っていた論者の場合、一定の政治的見解を打ち出し、それを定式化する過程で純粋な批判の場にはとどまることができなくなったと言ってよい。

その結果、ストルーヴェのようにナショナルな色彩を帯びた国民観の下で反革命運動に参加した論者が、同じ『道標』の寄稿者からも激しい批判を受けることにもなるのである(27)。一方、新カント派哲学を経て宗教哲学に向かった論者の場合、既存の宗教を受容しつつも批判し、独自な世界観へと再構築していく作業を展開したわけだが、ここにも全く問題がないわけではない。仮に政治運動からは一線を画していたとしても、メシアニズム論などを介してやはりナショナルな傾向を示しているし、キリスト教の普遍性に可能性を見ているものの、それは当時のロシアが抱えていた非キリスト教圏を切り捨てることにもなりかねない。この時代にこうした傾向が出てくることは、必ずしもロシアに限ったことではないため(28)、カントの示した穏当な見方を維持し続けることが誰にとっても困難な状況が今世紀前半の知的状況の中にあったとも考えられる。しかし、批判の場から一歩踏み出せば、何らかの真理に与せざるをえず、それによって一定の真理を真理なるものとして認めることを迫られていくことになる。その結果として、素朴な真理承認に接近していく危険をも冒すことになるのである。

こうした哲学的思索に内在する困難を克服するには、問題点を把握した上で、新たな可能性を提起していくしかない。それには哲学を育てる一定の環境が必要である。それゆえ、ヴヴェジェンスキーが講演でロシア哲学の未来について語った際に、「純粋に外的な性格を持ったある種の克服しがたい障害に出会うことがない限り」という条件を付しているのである(29)。逆に言えば、哲学探求の過程に内蔵されたものではない困難が、哲学の発展を阻害する可能性もすでに当時から予感されていたのである。そして皮肉なことに、それは革命を待たずして端的な姿で現実化することになる。ヴヴェジェンスキーの文章を掲載した『哲学と心理学の諸問題』誌の創設者Н.Я. グロート(1852-1899)や、当時の哲学界の重鎮であったМ.М.トロイツキー(1835-1899)、Вл. ソロヴィヨフ(1853-1900)など有力な哲学者が次々と他界していくのはちょうどこの翌年以降のことである。そして、彼らを含む数多くの哲学者が編集者として名を連ねていた扉のページには、1905年にС.トルベツコイ公(1862-1905)が死去した後、唯一Л.М.ロパーチン(1855-1920)が残るだけとなってしまうのである。この時期には、Г.И.チェルパーノフ(1862-1936)やН.О.ロスキー(1870-1965)などを初めとする中堅、若手の哲学者や、ベルジャーエフのように大学にも宗教界にも属さない在野の哲学者が寄稿するようになり、哲学が大学の外でも相応の社会的位置を獲得し普及したとも言えるが、この雑誌だけを見れば明らかに往時の勢いは感じられなくなっている。そして、大戦と革命を経て多くの哲学者が国外に出ることになり、国内に残ったヴヴェジェンスキーも1925年にその生涯を終えることになるのである。

外的要因による思想の挫折という構図は、その後様々な形でソヴィエトや東欧において幾度となく繰り返されることになる。それはロシアへのマルクス主義の適用における誤りや、政策的な誤りが蓄積した結果でもあろうが、哲学と政治とが良好な関係を築くことの重要性が十分に顧みられなかったことにも一つの要因があったのではないだろうか。

2.  オルガノンとしての哲学

前章で取り上げたヴヴェジェンスキーの「ロシアにおける哲学の運命」においては、哲学の明確な定義は提示されていない。もっとも、哲学者の会合で哲学の定義から話を始めたらそれだけで議論が紛糾してしまうかもしれないし、あるいはある程度の合意がすでに形成されていたのかもしれない。だが、そこで言われている「哲学」の内実は、具体的な個々の主張の集積体ではなく、むしろ具体的な問題を考えるための手続きを正当なものにする「思考のオルガノン」だったようにも思われる。少なくとも、西欧哲学の成果の吸収に立脚した上で独自の発展を期待していることからすれば、西欧哲学のあり方が一つの模範であることは疑いえない。その場合、ベーコンが用いたような意味での「オルガノン」として、つまり思考の方法や手続きであり、それを通して正しい見解がもたらされるべきものとしての哲学という見方をすれば、完全にヴヴェジェンスキーの意に沿うか否かはともかく、大枠は言い当てられるように思われる。

そう考えると、ヴヴェジェンスキーの哲学史の構想とは、この思考のオルガノンとしての哲学がどのような形でロシアに移入され、独自なあり方としてどのような可能性が模索されてきたのか、その歴史を捉えることにあったと言えよう。彼の時代は、期待されたような自立的な作業がようやく本格化しつつあったため、まだその成果を具体的に示す段階にはなかったと言える。その後のロシア哲学が何らかの成果をもたらしたのならば、それを評価し、位置づけることが20世紀の哲学史の内実とならなければならない。ここでは、このヴヴェジェンスキーの宿題に答える試みとして、「オルガノン」としての哲学評価のいくつかの例を提示してみたい。

(1)宗教哲学におけるオルガノン

20世紀初頭の大きな哲学的潮流として宗教哲学、あるいはより正確に言うならば、宗教的思考を再評価し、そこから哲学的な可能性を汲み取った議論を挙げることができよう。無論、その内実として東方正教の伝統とのつながりが意識されていたという意味でも「宗教哲学」なのであるが、ここでは概括的に扱うことにする。実際問題として、この時期の宗教哲学の個別の議論を見た場合、その主張内容のレヴェルでは無論のこと、扱う問題領域やアプローチの方法も極めて多様である。従って、「宗教哲学」という括り方自体がかなり曖昧なものであり、今後の研究次第ではこうした枠組み自体が解体される可能性も否定できない。

例えば、認識論的な問題から接近した論者としてはベルジャーエフやロスキーが挙げられるし、カントが提起した理性のアンチノミーという議論を真理論の問題として捉え、論理の問題に敷衍した例がП.А.フロレンスキー(1882-1937)やС.Н.ブルガーコフ(1871-1944)に見られる。また、西欧におけるヘーゲル再評価の機運と呼応しながら宗教哲学に新たな展開をもたらしたИ.А. イリイン(1882-1954)やА.Ф. ローセフ(1893-1988)など、1917年革命と前後する時期に現れた論者などもいる。このうち、フロレンスキーは1911年に叙聖され、革命後もトロイツァ=セルギエフ修道院の維持に尽力するなど、正教正統とは最も近い立場にあった。また、ブルガーコフも亡命前の1918年に叙聖されており、正統に近い立場にいたと言えるが、亡命後の在外教会からは晩年の神学的著作が異端的であるとされるなど、必ずしも正統を体現していたとは言い切れないようになる。そして、ベルジャーエフやロスキーの場合、初めから正教正統教義の擁護のためにではなく、自身の思索を深めていく過程で宗教的思考を積極的に展開させており、教会の立場からすれば逸脱傾向にあったと言えよう。ローセフの場合は正教徒としての強烈な自覚を持っていたが、革命前に異端的とされたимяславиеの擁護を行っているように、教会の公式的な立場に従順であったとは言えない。また、イリインの場合、母方がドイツ系で福音ルター派の信仰を持つ家柄だったこともあり、正教との関係は微妙である。一般的に彼らの思想的背景やその行程を見れば、以上のような評価が概ね妥当なものとして与えられよう。だが、実際の議論が必ずしもこの通りに割り切れるわけではない。本稿の紙幅にも限りがあるので、とりあえずベルジャーエフ、フロレンスキー、ローセフのいくつかの具体的な論点を材料として、彼らの思考のあり方を見ていくことにする。

さて、ベルジャーエフは西欧においてはロシア的な精神性を代表する論者として扱われることが多かったが、その際にトートロジカルな議論の分かりにくさがかねてから指摘されてきた(30)。彼自身もそれは否定しておらず、「私の思想は極めてアンチノミー的で、しばしば極端にひどく傾き、極めてアフォリッシュに表現されている」と回想している(31)。だが、初期の論文を見ると、議論はむしろ明快だと言って良いほどで、彼が宗教哲学的な思索を自らの課題とした時に、自覚的にそうした論じ方を選んでいるという側面を見る必要がある(32)。例えば、1910年の「認識論の問題」はそうした転換を明確にした論文であるが、ここでベルジャーエフは「理性」に代わる哲学のオルガノンとして「神のロゴス」に依拠することを宣言している。これを神学的に解釈すれば、「神のロゴス」である「キリスト」の言行を支えている思考法に依拠するということに他ならない(33)。カントの認識論への批判から出発したベルジャーエフは、その独自の認識論的試行の結果としてこうした見解に辿り着いたわけだが、その契機自体がカント哲学において徹底して遂行された理性批判にあったと言えるのである。すでにヴヴェジェンスキーの観点に見られたように、理性はア・プリオリな知識(34)の領域の背後にある広大なア・ポステリオリな知識の領域を否定するわけではなく、またそこでの思考を完全に規定するわけでもない。ならば、宗教的な世界観が一定のリアリティを持ち、それに立脚した精神生活が営まれている場においては、まさに宗教的な思考、「神のロゴス」が哲学のオルガノンであっても良いという解釈もありうる。

そして、1914年の『創造の意味』ではこうした思考法が具体的な問題に対して積極的に展開されており、その後のベルジャーエフの議論の原型を形成しているのである。例えば、この書の中心テーマである「創造 творчество」の問題をめぐっては、人間による創造行為が神の天地創造творениеに比せられ、この行為を通じて人間の内なる神人性が回復されるという主張がなされている。これはイエス・キリストの神人性というキリスト教の中心的教義や、創世記における神人同型説に依拠したものであるが、ここでの「創造」概念は初めから宗教的な規定に従って打ち出されており、それが何らかの形で「証明」されたり、論理的な正当性が検証されることは期待されていないのである。その限りでは全く神話的な世界観に立脚しているが、日常的な信憑の構造が一つの独断的な前提から出発し、その論理を一貫させるような「循環」として成立しているとすれば、そこに見られる物語性や世界観を、それとは起源を異にする論理によって正当化しうるか否かは初めから二次的な問題でしかないのである。

しかも、この人間による創造という発想は、旧来のキリスト教が明確に打ち出さなかった人間の神人性を前面に押し出しているという意味で、正統教義の枠を逸脱しかねない議論となっている。しかし、キリスト教教義を全体として一貫させていくと、逆説的に一種の律法破壊的な言説に到達せざるをえなくなる部分があることも事実である。それは福音書におけるイエスの言行のラディカルさと相通ずる側面を持っているが、それだけに正統教義との間に緊張関係が生じることにもなる。また、こうした論理ならざる論理を受け入れる精神性を「ロシア的なもの」として捉えれば、ナショナルな世界観に裏打ちされた思想として成立する契機を伏在していることも理解できるのである。

ベルジャーエフの循環的な議論が宗教的思考という一つの方法として成立していることは明らかになったと思われるが、そこから認識に関する一つの弁証法的な理解が提出されているので、その構造を簡単に紹介しておこう。カント的な構成においては、認識主体と客体とは互いに対立させられ、それがあたかも認識能力と対象存在との対立であるかのように扱われる。しかし、主体そのものも一つの存在である以上、こうした対立は事態の一面しか捉えていない。このような批判から、ベルジャーエフは認識を存在者対存在者の交流として捉えるという発想を提示するのである。つまり、認識は主体の側の能力として一面化されるべきものではなく、主体も客体も同じ存在者として相互的に作用し合っており、その結果として認識が獲得されるのである。その場合、認識は一つの固定した真理の獲得ではなく、客体が存在として潜在的に内包している内実を具体的な姿に結晶させること、認識される以前には「無いもの」であったものを「在るもの」にすることとして捉えられるようになる。そうした意味での「創造」行為として、そしてまさに「実践による弁証法的運動」とでも呼ぶべきものとして認識を考えることが提案されるのである(35)。ベルジャーエフはカント的な認識批判と宗教的思考を介して、認識の過程に見出される存在の弁証法的な性格に光を当てようとしていたが、こうした議論をより論理的に捉えた例も同時代に提出されようとしていたのである。次にフロレンスキーとブルガーコフ、そしてローセフの議論を見ていくことにする。

(2)西欧的論理の昇華

フロレンスキーの1914年の主著『真理の柱と礎』においては、カントールの集合論や萌芽期の記号論理学などを取り入れた議論が展開されていることからも理解できるように(36)、神学のオルガノンとしての哲学という中世的なあり方への回帰志向を見せながらも、当時の最新の知見を導入することで哲学的な議論の水準が格段に押し上げられている。特に「真理はアンチノミー」であるというテーゼに象徴されるように、カント以降の論理学的議論を巧みに援用しながら、伝統的な神学に見られる一見非論理的で矛盾した論法を基礎付ける作業が展開されている(37)。これは、カントの「理性の生み出す仮象」(38)としてのアンチノミーという問題提起を転倒し、むしろ真理そのものが一つの二律背反的な姿で現れざるをえないことを積極的に展開した議論である。見方を変えれば、矛盾の統一体としての真理像が提起されており、宗教的な弁証法的論理の基礎付けを行うものだと言うこともできる。

この議論の詳細を見てみると、形式論理学の公式に従いながらも、矛盾した言明が真であることを示す奇妙な結論が導かれている。フロレンスキーが行った議論を一般的な記号法に書き換えて再現すると次のようになる。まず、p→qという含意と、p∨qという結び(ないし選言)は、公式(p→q)≡(−p∨q)によって置換可能であるところから出発する。ここで、(−p→p)→pという式があるとして、これを上の公式から置換するために前半を(−p→p)≡{−(−p)∨p}と置き換えると、これは(p∨p)と同義なので初めの式は(p∨p)→pとなる(39)。これは結局のところ、pという命題がある場合、pかpが成立するならばpが成立すると解釈できるので、p→pという自己包括に等しい。しかし、初めの式にある(−p→p)は、pでないならばpであるという矛盾を表している。通常、こうした式はナンセンスであり、そのような論理式で表されるような事態は現実には成立していないと考えられる(40)。従って、全体として内実を伴わない論理的なパラドクスでしかないはずである。

だが、フロレンスキーはこうした議論と共に、哲学用語としての「アンチノミー」の確立がカントの『純粋理性批判』においてなされる以前は、主としてそれが法的、あるいは神学的な概念であったことに注意を促し(41)、「アンチノミーは体験の本質そのものに属している」(42)として、神学的に展開される弁証法的な思考の過程が、悟性的な思考の持つ閉鎖を破壊するような異なる次元への道行きであることを、聖書やその他様々な宗教的文献に依拠しながら説いていくのである。このようなフロレンスキーの議論は、当時の宗教哲学に一つの転機をもたらしたと考えることができる。例えば、ブルガーコフは1918年の『黄昏ざる光』において、「論理的な矛盾は思惟における誤りから、思惟がそれ自身の規範に合致していないことから生じる」が、「ヘーゲルの意味での弁証法的な矛盾は、論証において、間断のない運動において見出される論証的な思惟の一般的特性から生じるのであり、それは常に位置を変え、一つの地点から別な地点へと移動する」ものであるとしている(43)。つまり、フロレンスキーの形式論理を用いた議論の不合理は認めつつも、神学的な議論がそれとは別の次元の矛盾を内包したものであることを確認し、それをヘーゲル的な弁証法的論理との関係で考え直す方向性を示しているのである。こうして、1910年代の宗教哲学は初めにカント的なアンチノミーの議論を独自に展開する可能性を模索しており、その過程で矛盾という論理的概念を再び神学的議論に回帰させることによって、ヘーゲル的な問題圏を視野に入れた議論を構築しつつあったのである。

こうした議論は、後のローセフの弁証法哲学への一つの直接的なヒントになっているという意味でも興味深い(44)。ローセフは1927年に刊行した『名の哲学』や『古典古代のコスモスと現代の科学』においてギリシア的な弁証法を前面に打ち出しているが(45)、その内実を見るとヘーゲルの弁証法とフッサール現象学の中心的な概念を手がかりとした、宗教哲学の弁証法論理学とでも呼べるような議論が極めて緻密に展開されている。また、1929年頃に執筆された『物と名』においては弁証法的唯物論と見まがうばかりの議論も見られるのである(46)

ここでローセフの哲学の意味合いを考えるための予備的な作業として、宗教哲学と弁証法との関係を整理しておくことにする。弁証法の語源であるギリシア語のディアレクティケーを著述の形式として積極的に用いたのはプラトンであるが、問答法や弁論術などとしての弁証法の祖としてはエレア派のゼノンの名がアリストテレスによって挙げられている(47)。また、ヘーゲル弁証法に見られるような、あるものとその否定が一つのものの内に矛盾的に見出されることを明確に意識化した例としては、プロクロスなどが挙げられる(48)。これは、プラトン主義哲学の一つの到達点であると同時に、中世の哲学への布石としても重要な意味を持つものである。一方、数々の教父の思索によって内容を充実させてきたキリスト教神学においては、否定神学や三位一体論などの議論の中で、矛盾を契機とする一種の弁証法的思考が積極的な役割を果たしている。今世紀のロシアの宗教哲学においては、こうした教父哲学への関心が再び高まっており、それと平行してカントやヘーゲルの議論を介した論理学への注目がなされていたのである。従って、ギリシア古典学とキリスト教的な伝統という二つの領域に強い関心を持っていたローセフが自己の哲学的方法として弁証法に着目したのは極めて自然なことであったとも言える(49)。次に、『名の哲学』における弁証法の基本的観点と、『物と名』における物 вещьと現実性действительностьの概念を瞥見しながら、ローセフの議論の特質を検討していくことにする。

さて、ローセフの提示する弁証法とは、まさに現実を認識し、理解する仕方や態度としての論理であり、オルガノンとしての明らかな自覚を伴うものである。その要件をローセフは、1)「真の弁証法は常に直接的な知識である」(50)こと、2)「弁証法は真正にして、唯一可能な哲学的リアリズム」であり、「弁証法は単に物を把握するだけではなく、物の意味の自己展開においては弁証法が物そのものでもある」(51)こと、3)「弁証法は抽象的な何かである」(52)こと、4)「弁証法は絶対的な経験主義の観点に立つ」(53)ものであるという四つのポイントによって示している。このうち、1)、2)、4)は似通った規定であるため、弁証法に対する一つの定義として考えることができようし、特に2)の規定は後半に見られるような表現からすれば、唯物論的弁証法そのものではないかという印象も与える。従って、3)だけが場違いであるようにも見えるが、これについてローセフは「感得するだけではなく、思考する必要がある」こと、そして、「感得されるもののに中に、論理的な、例えば数的な合法則性を求める必要がある」ことなどが、その内実であることを示し、「直接的な所与は、それを意識しようとすれば、感得される対象と完全にパラレルであるが、同時に何らかの意識された、論理的に基礎づけられた形式において与えられる、ある抽象的な構造に変貌する」(54)としている。言い換えれば、いかに弁証法が直接的な知識であるにせよ、思考過程を通過せざるをえないとすれば、概念的な構造という一つの抽象として成立するしかないということである。また、4)に関しても「弁証法は何らかの一定の経験とその完全な個別的特性についての教説ではない。それはあらゆる経験にとって不可欠な論理的結合についての、あらゆる経験の意味の基盤についての教説である」(55)としているように、事実的な経験の集積体に立脚する「経験主義」とは異なることが強調されている。こうした観点は『マルクス主義哲学の基礎』などに見られるソヴィエト時代の唯物論的弁証法と基本的にはほとんど変わるところがないが、ローセフの構想はそれを凌駕するようなパースペクティヴをも示しているのである。

その前にまず、弁証法的な現実把握の例としてローセフが取り上げている、書棚の認識を見てみよう(56)。彼は書棚が「単一なものнечто единое」か、それとも「多数的なもの нечто многое」かという問題を発している。一つ二つと数えられるものとしての書棚を見れば「単一なもの」であるが、それが複数の部品から組み立てられていることを見れば「多数的なもの」だとも言えよう。こうしたことは全く日常的に経験することであるが、ことさらに対立的なカテゴリーを用いて考えるのは不適切であるようにも思われる。しかし、ローセフは上の二つの異なるカテゴリーを同時に内包する「全体 целое」として書棚を捉えば、対立的なカテゴリーによって指示される事態が総合された現実を捉えることができ、それを行うのが弁証法の観点だとするのである。そして、『物と名』においては、こうした観点から、我々が実際に相対している「物」の規定を示していくのである(57)

ローセフはまず、物の「それ自体 самое само」を認識されないものとして提示し、認識されない以上「意味を持つことはできない」という点から出発する。「意味」とはすでに「何かを指示する」ものであり、この何かとの相互的な関係の内にある以上、それはすでに一つの対立を形成する。だが、「意味」とそれが指示する「現象」という対立が認識に伴って立てられるとすれば、「それ自体」はこうした対立を欠如しているはずである。従って、「それ自体」は認識されず、認識においては別なものが現れていると考えなければならない。それが「現実действительность」であるが、上に見たようなローセフの弁証法的観点から、意味と現象という対立がありながらも、総合されているものとしてこの「現実」は規定される。しかし、「それ自体」と「現実」はその存在構造が異なるため、「現実はなおもそれ自体の完全な現象ではない」とされなければならないのである。

ここまでは弁証法的議論の構成と言っても、カント的な「物自体」と「現象」の二元論的な構造と似通っているため、理解しやすいと思われる。問題は、「それ自体」とも「現実」とも異なる「имя」が持ち込まれ、ちょうど三項関係をなすような形、言い換えれば三位一体的な構造が成立していることである。ローセフは「自らの内で、自分自身にとって開かれている現実は、他のあらゆるものにとってはやはりまだ閉ざされて」いるとして、「現実は様々な形象、表現、名を持たなければならない」と言うのである。一般に弁証法的であるか否かを問わず、認識論的な議論においては認識者と認識されるものの二項対立的な見方がなされ、一般的な意味での「表現」は認識者の内に成立するものと考えられる。しかし、ローセフの議論では、「現実」は「それ自体」という自足的で、認識外的な領域にあるものとは異なる場において「意味」や「現象」の総合として客観的に定立されており、そこにはまだ通常の認識論で言われる「認識者」は現れていないのである。

言い換えれば、ローセフの議論は初めから主観−客観という対立によって事態を捉えるという構成になっておらず、ここでも「それ自体」や「現実」の客観的な定立のみがなされている。つまり、この「現実」は「現実それ自体」とでも呼ばれるべきものになっているが、すでに「意味」と「現象」という対立の総合によって成立していることを「自分では」知っているもの、自己を自己として捉える意識の段階にある「物」なのである。それゆえ、これがさらに「他のもの」と関係するために、「表現」すなわち「名」を必要とするのである。だが、この「名」をもローセフは客観的に定立し、「物の名において、物のある種の自己の形象である内的な意味と外的な自己顕現がつかみとられている」という規定を与えるのである。こうした規定は、「名」が「現実」とは異なる対立の総合としてあることを示しながら、まさに「物」の内部と外部をつなぎ、当の「物」以外のものによっても用いられることによって「物」と外部の「他」を結合する「名」の機能を言い当てようとしているのである。ここから、「物と他の全ての物との意味的な相互交流の舞台が名であり、それはあらゆる物のそれ自体の最大限の、最も親密な現われ」だという名の本性が把握されていくのである。ローセフは「それ自体」や「現実」や「名」という通常は観念的に取り扱われるものに対して客観的な規定を与えることで、あたかも一般的に「物」とされるものと同じような構造をそこに見出している、あるいは「物」をとらえるのと同じ視点で全てを理解しようとするのである。しかも、その際には、別なヴァリアントの序文で強調されているように、ローセフは「ある種の社会的現実としての名の検討」(58)を自己の探求の課題としており、「弁証法の課題は様々なタイプの現実の中でも社会的現実の位置を示すことにある」(59)として、極めて独自な仕方で社会性の一つの側面を明らかにしようとしているのである。こうした議論が極めて徹底した唯物論なのか、観念論の変種なのかという問題は、恐らく最早さほどの意味を持たないであろうし、1920年代の宗教哲学における弁証法的論理の試みとして引き続き検討していく必要があることも明らかであろう。

以上のような概観を見ても、1910年代から20年代の宗教哲学がすでに極めて高い水準に達していたことは理解できると思われる。ここで、論じ方のレヴェルに注目した場合、ベルジャーエフは論理のみを独立に扱った議論をほとんど行っておらず、常に具体的な問題にかかわる過程でアンチノミー的な論理や弁証法的観点を用いる形になっており、フロレンスキーやローセフのように西欧哲学の成果を摂取し昇華したスマートな議論と比較した場合、むしろ宗教的色彩が濃厚であるようにも感じられる。その意味では、正統教義の立場に近いか遠いかという基準は議論のあり方とは無関係であることも了解されよう。また、これらの議論が全体として哲学的な新しい世界理解の可能性の探求であることにも留意する必要がある。それは哲学と社会・政治との関係という問題に直接的な回答を与えるものでないが、思考の前提に関わるという意味で新たな展望への糸口になりえたかもしれないということである。この領域での個々の論者の思索の内実や歴史的な位置を明らかにするような問題設定は他にも考えられるが、それと同時に、個別の詳細な読解を進めることも無論重要である。それを平行して進めることで今世紀初頭のロシア哲学の可能性をさらに明らかにしていく必要がある。

(3)戦後ソヴィエトの弁証法

さて、宗教哲学における弁証法を問題とした以上、それ以降の議論の行方を視野に入れていけば、歴史的な連続性という問題を別にしても、ロシア・ソヴィエト哲学史を一つの問題軸から構築する可能性があると言えよう。少なくとも、ローセフの議論に示された弁証法理解の水準と比較して、ソヴィエト時代の議論がどのように評価されるべきかという問題は当然問われなければならない。特に、本稿で問題としているようなオルガノンとしての哲学という観点からすれば、具体的に主張された内容とは独立にソヴィエト時代の弁証法論理学を扱うことが可能だからである。ただし、ソヴィエト時代の弁証法的論理学に関する研究はすでにかなりの蓄積を見ており、その全体像を問題にするのは本稿の課題ではない。ここでは、戦後のソヴィエト哲学の水準を示す議論に注目してみたい。

さて、ソ連体制崩壊後の今日においても、ソヴィエト時代の哲学者として高い評価を獲得し続けている論者としてイリエンコフの名が挙げられる(60)。彼は弁証法的論理学の専門家として1960年代の西欧においても広く知られており、戦後ソヴィエト哲学の新たな潮流を代表する論客と目されていた。しかし、ソヴィエトにおけるイリエンコフの立場は微妙なものであった。モスクワ大学の大学院在籍中に哲学部で講義を開始した彼は、1953年に「認識論的諸テーゼ」を公けにしたことで「ヘーゲル主義者」と見なされ大学を追われたとされている。だが、同年から哲学研究所に勤務しており、これが一般的な「更迭」でないことは明らかである(61)。そして、1955年に『哲学の諸問題』に掲載された「科学理論的な認識における抽象的なものと具体的なものの弁証法」(62)はイタリア語に翻訳され、講演のための招聘を受けるなど国際的にも高い評価を得ている。翌1956年には『科学理論的な思惟における抽象的なものと具体的なものの弁証法』を脱稿するが、当時イデオロギー問題に絶大な影響力のあったソ連科学アカデミー哲学研究所の所長フェドセーエフの干渉によって印刷が許されなかったという。そのため、1958年にイリエンコフはやむなく著作の短縮と構成の変更を行い、それが1960年に刊行されることになる(63)。削除されたのは哲学史的な部分で、それはフェドセーエフらにとっては容認しがたい、論争の余地のある主張や評価が集中していたためだということである。

削除された哲学史的な記述は最近公刊された手稿版(64)に見ることができるが、彼の哲学の直接的な源泉は明らかにヘーゲルにあり、その十分な取り組みの上でマルクスの弁証法を認識論や論理学の問題として展開するという極めて手堅い研究方法がとられている。しかし、例えば近代初頭の唯物論に対する評価として、「唯物論は、認識のリアルな実践に合致した理論たろうとするならば、機械的唯物論たらざるをえない」(65)という主張が何の断り書きもなく打ち出されているような箇所も見られる。全体の文脈から、20世紀の哲学的水準がこうした古びた見方を克服する地点まで来たことを前提としていることは理解できるが、いかにも不用意な発言であることもまた明らかである。ソヴィエト国内ではイリエンコフに対して「半観念論的」であるという評価がしばしばなされたということであるが、それは当然すぎたとも言えよう(66)。こうして著書のテーマが縮小されたため、1960年の刊行版ではタイトルが『マルクスの『資本論』における抽象的なものと具体的なものの弁証法』に変更されている。しかし、出版後には同じようにイタリアのマルクス主義系哲学者たちがこれを高く評価するなど、海外で一躍イリエンコフの名を知らしめることになり、日本でも1972年に翻訳が出版されている(67)

そこでのイリエンコフの議論は、ヘーゲル論理学の読解を基礎としてマルクスの弁証法的論理を分析したもので、ある意味では極めて正統的にヘーゲル−マルクス−レーニンの系譜を浮かび上がらせているとも言える。特に、ヘーゲル=マルクスにおける「具体的なもの」と「抽象的なもの」という対概念の内実を明確化し、唯物論的弁証法の可能性を拡大したことが西欧での評価の一因となっている。直接的に感覚によって獲得される「具体的なもの」は一度思惟による抽象を経て知識となるが、これは一面的なものでしかないため本質的に「抽象的なもの」にとどまる。これに対して、ヘーゲルやマルクスの言う「具体的なもの」とは物の「多様な規定の統一」であり、それは「抽象的なもの」が総合された結果として新たに現れる。イリエンコフはこの「具体的なもの」こそが論理学において唯一意味のある客観だとするのである(68)

そして、さらにイリエンコフはヘーゲルの啓蒙的な文章を参考としながら、こうした過程が社会的になされるという観点をも示している。つまり、一般的に個々人がある事物について持つ認識は、その事物の一断面のみを捉えたものでしかなく、事物本来の客観的な本質に到達するものではないがゆえに「抽象的なもの」でしかないが、そうした個々ばらばらの「抽象的な」知識が他者の持つ異なる知識と相対せられ、言わばテーゼに対してアンチテーゼが立てられ、それらが比較検討されて、より高次の「具体的な」認識へと移り行くとするのである。これは単に公共的な知識というだけではなく、個々人においても他者の認識と出会う局面が想定されており、知識が個人的であると同時に社会的なものでもあることを示している(69)。議論の材料からも明らかなように、これはヘーゲルの『精神現象学』における自己意識の弁証法的発展という構想を社会的な場面で再構成したものだと言ってよい。こうした議論を見れば、その材料や用語は異なるが、ローセフの示した知識の社会的な共有構造と相通ずるものが感じられるのである。

具体的な議論に入る前に、こうしたイリエンコフの議論がソヴィエト哲学史においていかなる位置を占めるかという問題を考えておくことにするが、その際には、彼の示す社会的な知識の弁証法的成立という観点が、ソヴィエト哲学が追究してきた主要課題の一つに対する回答となりえた可能性を見逃すことはできない。デボーリン批判後の30年代には、論理学、弁証法、認識論の三つが同一であるという『哲学ノート』におけるレーニンのテーゼ(70)の具体化が主張されていた(71)。これを受けて、哲学界では弁証法論理学を構築する作業がなされていくが、寺沢によれば(72)、38年の『ソ連邦共産党小史』におけるスターリンの「弁証法的唯物論と史的唯物論について」以降、弁証法と唯物論との分離が一般化されたため、作業は一時中断し、スターリンの死後に再び議論されるようになったものの、少なくとも1960年代には寺沢が期待したような結果は提起されなかったとしている。こうした寺沢の見方には、弁証法的論理学が形式論理学をも包摂する形で構築されるべきであるという彼自身の見解が根本にあるため、形式論理学を排除するような立論は承認していないという前提がついている。これは弁証法論理学の資格にかかわる重要な問題であるが、イリエンコフは形式論理学に対して否定的であったという評価があるように、寺沢の望むような回答を与えたわけではない。そのため、寺沢はイリエンコフの議論には全く言及していないが、一方ではイリエンコフらの研究において、この問題である程度の成果が収められたと評価する者もいるのである(73)。ここでは、この弁証法的論理学のあり方という問題については論じないが、『科学的認識における具体的なものと抽象的なものの弁証法』においては、論理学、弁証法、認識論が同一的に成立する場を社会的な言語コミュニケーションの場に求め、そこで認識の弁証法的過程を論理化するという方向性が示されている。一般的に問題があるとすれば、そうした社会的交流の原理を思考法則としての論理学として捉えきれるのかという点があるが、明らかにイリエンコフはこうした社会性を論理学の必須要件として考えているように思われる。

このように、ローセフとイリエンコフは、彼らの思索の過程を見る限りでは、互いに独立に弁証法の本質を理解しているが、両者の見解に類似性があるという印象を免れることができない。特に、両者共に社会性という契機を中心に置いて弁証法的な論理の問題を論じているわけだから、そこから本質的に同じ議論に到達せざるをえないのか、別な可能性があるのかを知る上でも比較検討は必須である。ここで、両者の議論の内実を見極める試金石として、言語の資格がどのように考えられているかという点を見ていくことにする。ただし、両者共にその思索の全体像を問題にすることはここでは不可能なので、本稿で利用している材料に限って検討する。

さて、イリエンコフの言語観は、ヘーゲルの『精神現象学』において示された言語観を引継ぎ、それを唯物論的に理解するという方向性の上で成立している。すなわち、一方で「言葉 лово、発話речъ,言語язык、陳述、これらは実際に個別的な知覚とは異なる第一の社会的形態であり、人間による世界の精神的な同化 усвоениеという第一の社会的形態である」されているように、個別的な知覚が言語によって表現されることで、他者によっても共有される社会的な意識を形成する。しかし、この社会的な意識からすれば、「言葉において表現されない私の個別的な知覚の中にある全ては、私の格別に個的な持ち物のままであり、社会的な意識という宝物庫には入らない」という事実を導く。こうした矛盾にはマルクスとエンゲルスも着目しており、言語表現と社会的意識は、個別的な認識と認識されたものを表現することによって他者と共有する構造とが不可分であることを示すものとして捉えられることになる(74)

こうして、「感覚的に直観された、あるいは感覚的に表象された物、現象、事実、出来事の形象を、発話という形式に、陳述という形式に翻訳すること、これはすなわちこの事実、この現象、この出来事、この物をそれ自身の意識にまで導くことである」という「意識化」の問題が提起されることになるのである(75)。これは、言い換えれば、個別的な知覚を一つの知識として形成する作業が単に個別の人間の認識能力においてなされるだけでなく、言語という社会的構造を利用し、一般化された認識の回路を経ることによって知識が形成されるということを意味する。従って、先程の知識の社会的共有という問題も、知識が本来的に社会的な性格を帯びているという前提の上で構想されていると言える。しかも、それは人間によって一方的に理解されるわけではなく、人間的な認識という構造を経ることで、物が自己を認識する構造としても理解される。この物の観点を中心として、物が自己を認識する過程を徹底的に記述することができれば、それによって自然的な物質のみを物と捉えるのとは別の意味での「唯物論」が形成されると考えることもできよう。

しかし、このまさに「唯物論」が生成されるはずの地点で、「言語を通して意識という社会的リアリティに参加しながら、個人は反映という行為そのものにおいて、あたかも分裂する」として、問題が二分されていくのである。すなわち、「個人は目の前に感覚的に彼に与えられた物の世界を持つが、他方ではこの感覚的に与えられた世界の社会的表現の形式の体系を、社会的に意識化された世界、精神的に獲得された世界を持つ」として、再び知覚とそれを表現した世界という二項対立的な発想へと引き戻されてしまうである。しかも、この「社会的な意識の圏域」が「理念的な世界 идеальный мир」と言い換えられているように、言語的に表現された世界が物の世界から再び切り離されているのである(75)。こうした部分に、「半観念論」の兆候を見て取ることは容易だが、それ以上に問題なのは、「反映論」の介在によって、「物の自己意識」という最も唯物論的なテーマとなりうる問題圏が、オーソドックスな主観−客観という二項対立モデルに還元されていることであろう。

こうして、イリエンコフの議論においては「言語」がいかなる存在であるのかという問題には全く言及されることがないまま、「意識化」のメカニズムの問題に話は移ってしまうのである。その際には、「物(出来事、事実、一般に主体の外部に見出されるあらゆるリアリティ)を意識しつつ、人間はそれについての表象を形成するのであり、この行為、意識的表象の形成という行為が意識の全ての神秘を内包しているのである(77)」と述べられているように、明らかに言語や社会的意識と同義である「表象」を物としては扱わないという姿勢を見せているのである。なるほど、引用文でも注記されているように、「物」が「主体」である人間の外部に見出されるものであるというレーニン的な物概念からすれば、言語は「物」として扱われる条件を満たしてはいない(78)。また、スターリン時代の言語のイデオロギー的な位置づけの不明瞭さを考えれば、言語を「物」として扱うという発想そのものが困難であったかもしれない。そのため、「意識」の問題をめぐる議論においても、「反映論」の場合と同じように、二項対立的な観点への逆行を余儀なくされてしまうのである。

従って、イリエンコフの議論の行程を言語の問題を中心として見た場合、レーニンが弁証法的唯物論を構築するために用意した概念を用いることによって、逆に徹底した弁証法的唯物論の構築を不可能にしているという現象が生じているのである。言語と意識の問題において、イリエンコフが「半観念論的な」議論でお茶を濁しながらも、むしろ「具体的なもの」の理念性を積極的に承認する方向を目指したのは、あらゆるものを「物」として捉え、それが自己意識へともたらされる過程を弁証法的に捉える道が閉ざされていたからではないだろうか。

そうした時、イリエンコフの議論と同時期にメルロ=ポンティによって提出されたソヴィエト哲学批判の意義が改めて確認されるのである。彼は1955年に刊行した『弁証法の冒険』(79)の中で、ソヴィエト哲学における弁証法と唯物論の結合に疑問を呈しており、基本的な認識論的問題がレーニンの『唯物論と経験批判論』に立脚した素朴な反映論の域を出ないままであることや、その上で弁証法と唯物論が曖昧に結合されていることから、「唯物論の自己批判としての弁証法は後回しにされた」(80)のではないかと推測している。そして、「ヘーゲル以前の、いやさらにはカント以前とさえ言っていいような認識論が、どうしてマルクス主義的弁証法へ導くことになりうるのか、到底理解できない」(81)という極めて正当な疑問を呈し、「哲学上のレーニン主義が一つの便法なのだとすれば、レーニン主義がうまく避けた諸問題がいずれふたたび姿をあらわすにちがいないし、弁証法と唯物論的形而上学との均衡も不安定なままであるにちがいない」(82)という見通しをも明らかにしているのである。

一般的に考えても、反映論的な感覚知覚に縛られると、その先で展開される思惟作用の独立した本質を明らかにすることが難しくなる。『マルクス主義哲学の基礎』においても両者の関係は曖昧なままである(83)。ある意味では、感覚知覚と思惟作用という二つの領域の乖離を収拾するために、認識論と弁証法論理を統一するという問題が生じるとも考えられるが、反映論を固持する限り、認識の直接性を否定しかねない「知識」の弁証法的発展という問題領域に踏みだすことは本質的に困難であるように思われる。一般に、ソヴィエト論理学が統一問題において見るべき成果が上げられなかったとすれば、その最大の要因が立論の前提である反映論や物質の先在性という唯物論の制約にあった可能性も無視できない。メルロ=ポンティが言うように、レーニンの議論がロシアにおける革命的世界観の骨格としての唯物論を堅持するために一定の役割を果たしたことは認められよう(84)。だが、その役割を超えて哲学的議論の絶対的な前提条件とされてしまった結果、求める哲学の生成を阻害する要因になったとすれば、根本的に哲学的な見通しを誤ったと言うべきであるし、それを訂正できなかったソヴィエト哲学は初めから失敗することを運命付けられていたと言うべきかもしれない。少なくとも、そうした制約の中になかったローセフの示したような、徹底した「唯物論」を確立するに至らなかったという事実からすれば、結果的にそうした結論を承認せざるをえないように思われるのである。

3. むすびにかえてムロシア・ソヴィエト哲学史研究の方向性について

さて、本稿では過去の哲学史観や、今世紀を通して見られた問題関心などを検討してきたが、最後に今後の研究の可能性と方法についてまとめておきたい。まず、哲学史を成立させる際の哲学観について言えば、しばらくはイデオロギー的な問題から切り離して議論すべき部分を整理することが最重要課題であると思われる。今日では、ソヴィエト時代のイデオロギーは内実を失った空虚でしかなかったという見方(85)も提出されており、改めてイデオロギーと哲学との関係を検証し直す必要がある。プラトンの対話篇に見られるように、問いかけと応答からなる構造を弁証法だけでなく、あらゆる哲学的思索の本質の一つと考えれば、最終的にあれこれの具体的な、そしてしばしば予め結論となることが決まっていたテーゼを確立することが哲学の役割だとは考えられない。一般的に考えても、回答のみが一定の形を与えられ、凝固した結果としての哲学的教説は、「〜とは何か」という問題提起を共有しない人々に提示されても、それ自体では必ずしも有意味であるとは限らない。

むしろ、固定されたイデオロギーが強制的な権力に変貌するのは、哲学的な思索のダイナミズムの源泉である対話性を欠如していることから生じるようにも思われる。だとすれば、哲学に携わる者が結果としてある種のイデオロギーを表現することにならざるをえないとしても、そのことを無批判に肯定することはできない。少なくとも、最終的に一つの見解を固定することに同意するならば、クーノ・フィッシャーの言う「愚者の画廊(85)」としての哲学史に陳列されるだけである。

多少解釈学的な見方になるが、哲学的営為そのものが常なる問いかけと応答の反復の過程の内にしかないとすれば、今後ロシア、ソヴィエト哲学を検討する場合、最終的な判断を下す前の段階に踏みとどまり、まずは判断のための材料を整理する必要がある。本稿では論及しなかったが、西欧哲学を摂取する以前のロシアにおいても哲学的な関心ばかりでなく、哲学的思索がありえたと言うことができようし、そこでの哲学的問いかけと回答の連鎖を一つの哲学史へと結実させることもできるであろう。

次に、本稿で注目した思考の形式性という視点についてであるが、これは内容的に異質な思索を横断的に捉え、類似性のある論法によって全く異質な思想内容が語られうるという側面を示す上では有効だと思われる。その際には、当該の思考をどの程度生かしているかということを問題にすることはできるが、一定の内容が論理的必然性に従って導出されるわけではないことも明らかにすることになる。従って、結論として述べられる内容を比較し、評価するための共通の尺度が確立されない間は、全て過去の思索が思考そのものとしては等価であることを認めなければならない。

こうした観点からすれば、一定の観点や主張内容を選び取ることは主観的な意志の次元の問題であり、その限りでのイデオロギー的対立は問題にしうると言うことができる。だが、そこでも哲学の対話性は常に自己の見解を相対化する契機を内包しており、また個々のイデオロギーをどのようなものとして捉えるかという観点を客観的に示すことができるとは限らない。今世紀初頭の思想状況を捉える上で、革命対反動、唯物論対観念論というような対立図式が、研究上の視点としてはあまり用をなさないことは今日では明らかであり、思想傾向を分類する枠組みが常に仮設的なものであるという前提を改めて確認する必要がある。例えば、前章で「宗教哲学」という枠組み自体が解体される可能性があると述べたが、その理由を整理すると、1)今世紀初頭の宗教哲学は単なる神学回帰ではなく、2)西欧哲学的知見の摂取が前提にあり、3)精神的伝統の再興と一体化した宗教の近代化という要素を抱えていたため、同時代の「非宗教哲学」との境界が明確ではないことが挙げられる。そのため、極めて大雑把な枠組みとして用いることしかできないのである。

一方、ソヴィエト期においてもマルクス主義哲学が一枚岩ではなく、様々な要素を抱え込んでいたことも最近では明らかにされている。そして、その中には宗教的関心を持った論者もいた。例えば、イリエンコフ的な弁証法的論理学の影響を受けた世代に属するГ.С.バチーシシェフ(1932-1990)は、イリエンコフ同様、戦後のソヴィエト哲学界で活躍し、主として弁証法的論理学の専門家として知られている(87)。だが、今日では彼はキリスト教に帰依していたことが明らかにされ、一時は公職を退くことも考えていたほどであったという話が伝えられている(88)。マラーホフによれば、70年代以降のバチーシシェフの「宇宙の無限な弁証法」は、シェリングの万有の哲学、「ロシアの宇宙論」、および東洋的な神秘主義を思い起こさせるものであった」ということであるが(89)、弁証法的論理学に関する思考の系譜がこうした道筋に通じていたのか、あるいは一般的な意味での精神的な転回があったのかは今後明らかにしていく必要があろう。

こさらに、形式的な問題を突き詰めていけば、ローセフのように宗教的関心から出発した議論が弁証法的唯物論の議論を擬装しえた構造もより明瞭な形で理解できるように思われるし、さらに言えば、同じような論法に立脚する宗教哲学とマルクス主義の間に、ある種の近親憎悪のようなものが生じる構造も明らかにできるように思われる。類似の論法に立脚しつつも、全く異なる思想内容が語られた時、宗教哲学の側からすれば、歪曲された宗教としてマルクス主義が捉えられ、マルクス主義の側からすれば、「阿片」のイデオロギーとして捉えられる結果を生じている。論法と内容とが互いに独立に存立しうることを承認すれば、こうした対立がまさに内容の問題であって、思考法の問題ではないがゆえに、いずれも論証不可能な果てしない争いを繰り広げることになると考えることができる。

この点では、ヘーゲルやマルクスも例外ではないように思われる。ヘーゲルの場合、愛の宗教としてのキリスト教への失望から人倫の哲学の構築へ進み、マルクスの場合、ブルジョア階級の利害を擁護する反動的勢力としてのキリスト教会からプロレタリアートを切り離すために無神論が主張されている。どちらも、同時代の宗教のあり方への批判があることでは共通しているが、そうした傾向が反宗教的ではあるが、疑似宗教的な議論を成立させる背景になったとすれば、それがロシアの革命思想においても継承され、社会主義国家が疑似宗教国家のようになってしまったと言うこともできよう。こうした問題を精神性や傾向という言葉で片づけてしまうのは安易であり、マルクス主義から宗教へ向かう方向性があるとすれば、その経路や構造の問題にも目を向ける必要がある。

これと関連して、弁証法そのものに対する見方についても一言しておきたい。今世紀に飛躍的な発展を遂げた記号論理学と比べた場合、弁証法はこれとは異なる次元を把握しようとした試みだと考えるべきであり、今後弁証法論理学が形式論理学の上位に立つ包括的な論理学として確立される可能性はほとんどないと思われる。ただし、いわゆる弁証法的過程、すなわち生成変化する物事や事態を捉えるパースペクティヴを記号論理学が獲得できない限り、弁証法的な思考の有意味性を完全に否定し去ることもできないという留保が必要である。ロシアの思想家の多くが世界観という言葉によって、合理性だけでは割り切れない何かをも洞察する視点を検索する中で、弁証法的な思考を展開するものが出てくるのはそのためであるように思われる。

一方、弁証法的な思考と結合された内容のレヴェルに戻った場合、その当否にかかわらず、宗教哲学もマルクス主義も一定の発想力の源泉となる可能性を今後も温存していくと思われる。国家経営のためのイデオロギーとしてのマルクス主義が破綻した今日ですら、マルクス主義と「マルクスの思想」とは別物であるという見解が見られるように、マルクスを越え出る構想が未だ見出されないとすれば、今後も「マルクスの思想」の可能性に依拠せざるをえないということである。また、宗教哲学は国家経営のイデオロギーとして機能しなかったため直接的な破産を免れているが、今日のロシアでの理解のされ方に示されているように、唯物論から観念論への揺り戻しの文脈で語られてしまうような受容にとどまっており、新たな思想的地平を切り開くだけの積極性は回復されていない。しかし、ロシアに正教的な伝統が存続し続ける限り、やはり宗教哲学が一つの世界理解のための発想力の源泉にならざるをえないことも明らかである。

最後に、哲学史の方法論の問題に言及して終わりたい。通常、哲学史と言えば、可能な限り多くの哲学者を取り上げて記述する網羅的な哲学史もありうるが、対象が広がれば個々の哲学者の議論を綿密に行うことは難しくなる。今世紀のロシア、ソヴィエトの哲学史を構築する場合、現段階では個々の論者の思索を評価する材料が変化しているため、問題史的な整理の試みを複数提示するのが最も有効であるように思われる。適切な問題軸を設定することで、ロシア、ソヴィエトを通じた共通性や差異性を明らかにし、ある程度通時的な特徴把握を行いながら、個別の思索の検討を深化させていく作業を積み重ねていくのが最も早道であるように思われる。その場合、影響関係からして西欧哲学とキリスト教神学などとの関連で見ていく必要があるが、これらの解釈の仕方や問題設定などの面で、ロシアの研究者とは異なるアイディアを出すことができれば、国外からロシアにおける思索を捉えるメリットにもなりうると思われる。