< !-- Google Tag Manager (noscript) --> 18世紀初頭におけるツァーリとエリート
-元老院の地位と活動を手がかりとして-

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  1. 「絶対主義」論については、例えば、G.エーストライヒ「ヨーロッパ絶対主義の構造に関する諸問題」F.ハルトゥング他、成瀬治編訳『伝統社会と近代国家』岩波書店、1982年、238-244頁。二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』木鐸社、1986年、112-181頁。成瀬治『絶対主義国家と身分制社会』山川出版社、1988年。王権神授説による王権の理論的補強や王権の漸次的拡大が論じられる一方で、それが諸身分・社団との協調関係を根絶するものではなかったとする見方が支配的になっている。
  2. Анисимов Е.В. Государственные преобразования и самодержавие Петра Великого в первой четверти XVIII века. СПб., 1997. С. 270. ただし1960年代末から一時期ソ連で活発であった絶対主義論争においても、「絶対主義」という語は用いられたが、ロシアの独自性を主張する意見が支配的であった。高田和夫「現代ソ連史学界と絶対主義-絶対主義論争(1968-1972)-」『歴史学研究』第450号、1977年、38-45頁。
  3. 研究者ごとに定義が異なっているが、ウェーバーを代表として、近代官僚制論が近代のドイツやフランスの実例に立脚して構築されていることは確かだろう。例えばルドンは、18世紀ロシアにおける「近代官僚制(bureaucracy)」の不在の根拠として、機械的な昇進規則の不在、俸給支払いの沈滞、政治世界からの官僚の自立性の欠如を挙げている。LeDonne, J.P., "The Eighteenth-Century Russian Nobility: Bureaucracy or ruling class?," Cahiers du Monde Russe et Sovietique, vol. 34, no 1-2, 1993, pp. 139-140. 同じく俸給不足の問題を重視したトルケは、それが特に文官の経済力の弱体性の主要因となり、17世紀ロシアにおいて、公的には廃止された「扶持制(кормление)」の伝統を事実上存続させつつ、「賄賂」の横行の慣習を生む働きをしたとしている。さらに彼は、このようなロシア官僚制の特徴は、1860年代の司法改革まで基本的に変化することはなかったとも主張した。 Torke, H.J., "Continuity and Change in the Relations between Bureaucracy and Society in Russia,1613-1861," Canadian Slavic Studies,vol. 5, no. 4, 1971, pp. 457-476; Idem,"Crime and Punishment in the Pre-Petrine Civil Service: The Problem of Control," Mendelsohn, E., Shatz, M.S. (eds.), Imperial Russia 1700-1917, Illinois, 1988, pp. 5-9. またラエフは、19世紀ロシアの官僚制は「純粋な官僚制(a genuine bureaucratic system)」ではなかった、との表現を用いた。彼が自説の根拠としたのは、19世紀ロシアにおける法典や規約といった客観的な規則の欠如である。Raeff, M., "The Bureaucratic Phenomena of Imperial Russia, 1700-1905," The American Historical Review, vol. 84. no. 2, 1979, pp. 408-409. これに対してソ連史学には、むしろ18世紀ロシアにはすでに官僚制が形成されていたと見なす傾向があった。例えばパーヴレンコは官僚制の定義として、官僚の君主への従属、諸機関と職員に関する厳密なヒエラルキー、各機関の構造と定員(штат)の画一性、職員の義務の画一性、職員の業務区分の明確化を挙げている。 Павленко Н.И. У истоков российской бюрократии // Вопросы истории. 12. 1989. С.3-6.これは官僚制的「装置」の形成に注目した見解であり、官僚個々人の地位や性格に注目する欧米史学の見解とは、根本的に異なっていると言えるだろう。
  4. 石井規衛『文明としてのソ連』山川出版社、1995年、60-64頁。
  5. 例えば和田春樹氏は、アレクサーンドルの治世を、「愛民政策」を通じ「安定した帝権のもとで、近代ロシアの機構が本格的に動き出した時代であった」と評価している。和田春樹「近代ロシアの国家と社会」田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『ロシア史2』山川出版社、1994年、289-305頁。
  6. アニーシモフは、ピョートル1世時代に導入された徴兵制が170年、元老院が206年、宗務院が197年、人頭税が163年も存続したことを強調している。Анисимов Е.В. Петр I: рождение империи // Вопросы истории. 7. 1989. С. 3.
  7. 最近の代表的なものに、フィリップスの海軍創設事業研究がある。彼は、海軍創設に関わる諸政策の遂行に際し、そのモデル・立地・手段の決定が17世紀以降ピョートル1世時代にいたるまで、常にツァーリのイニシアチヴにより行われた事実を示して、両体制の連続性の根拠としている。 Phillips, E.J., The Founding of Russia's Navy: Peter the Great and the Azov Fleet, 1688-1714, Westport, 1995. 他に、陸軍の形態の連続性を指摘したヘリーの研究もある。Hellie, R., "The Petrine Army: Continuity, Change, and Impact," Canadian-American Slavic Studies,vol. 8, no. 2, 1974, pp. 237-253.
  8. 鳥山成人氏は、ピョートル1世時代の勤務義務が「ロシア貴族社会にもたらした強力な溶解・分解作用」を強調している。鳥山成人『ロシア・東欧の国家と社会』恒文社、1985年、25頁。また栗生沢猛夫氏は、17世紀、特に動乱時代には全国会議の台頭により専制以外の可能性も存在したとして、17世紀史の過程に改めて注目する必要性を述べている。栗生沢猛夫『ボリス・ゴドノフと偽のドミートリー』山川出版社、1997年、321-329頁。
  9. 例えば、Mayer, A.J., The Persistence of Old Regime: Europe to the Great War, New York, 1981; Lieven, D., The Aristocracy in Europe,1815-1914, London, 1992; P.J. ケイン・A.G.ホプキンズ、竹内幸雄・秋田茂訳『ジェントルマン資本主義の帝国I 創生と膨張1688-1914』名古屋大学出版会、1997年。
  10. このような関心の産物としては、Scott, H.M. (ed.), The European Nobilities in the Seventeenth and Eighteenth Centuries, 2 vols., London & New York, 1995.
  11. 代表的なものとして、Романович-Славатинский А. Дворянство в России от начала XVIII века до отмены крепостнаго права. СПб., 1870; Павлов-Сильванский Н.П.Государевы слу-жилые люди. 2-е издание. СПб., 1909.
  12. トロイツキーは18世紀中葉の全文官・宮内官を対象としてプロソポグラフィー研究を行い、非貴族から官等官集団への新規参入者が実際にかなりの割合で存在したと主張した。Троицкий С.М. Русский абсолютизм и дворянство в XVIII в. М., 1974.ただし彼による評価に対しては、鳥山成人氏が統計数値の修正を行いつつ批判を加えている。鳥山氏は、14等官以上に新規に参入した者達の中で、下級官吏(приказные люди)として伝統的に国家勤務に参加していた層の出身者が占めた割合の高さを指摘し、「官僚の世界での閉鎖性」を主張している。鳥山成人「18世紀ロシアの貴族と官僚」吉岡昭彦・成瀬治編『近代国家形成の諸問題』木鐸社、1979年、72-92頁。なおピョートル時代のみに限定しての話であるが、諸官庁による人員補充の実態を調査したメドゥシェーフスキーも、新旧官庁の間の人材の連続性を指摘している。Медушевский А.Н. Развитие аппарата управления России в первой четверти XVIII века //История СССР. 6. 1983. С. 136-143.
  13. ルドンは、9等官以下の官僚達は、個人的な忠誠心に基づき、より上位の官僚達に服従するような集団的な家人(household staff)にすぎなかったとしている。LeDonne, "The Eighteenth-Century..," pp. 140-141.
  14. Raeff, "The Bureaucratic..," pp. 406-408.
  15. 具体的には、ピョートル改革直後の1730年の時点で4等官以上であった者179人を対象として、出自、職歴、教育状況などを分析している。Meehan-Waters, B., "The Muscovite Noble Origins of the Russians in the Generalitet of 1730," Cahiers du Monde Russe et Sovietique, vol. 12, no. 1-2, 1971, pp. 28-75; Idem, "Social and Career Characteristics of the Administrative Elite, 1689-1761," Pintner, W.M., Rowney, D.K. (eds.), Russian Officialdom, London&Basingstoke, 1980, pp. 76-105; Idem, Autocracy and Aristocracy, New Brunswick & New Jersey, 1982.
  16. 彼女は、1740-70年代に4等官以上であった者362人についても同様の分析を試みている。 Meehan-Waters, B., "The Russian Aristocracy and the Reforms of Peter the Great," Canadian-American Slavic Studies, vol. 8. no. 2, 1974, pp. 288-303.
  17. Raeff, M., Origins of the Russian Intelligentsia. The Eighteenth-Century Nobility, New York, 1966.
  18. プロイセンとロシアの社会構造の共通性を指摘し、「東欧型絶対主義」として捉える見方としては、鳥山成人「18世紀のツァリーズム」『ロシア史研究』41号、1985年、22-28頁。土肥恒之「東欧の絶対主義」『ロシア史研究』41号、1985年、44-47頁。ただし鳥山氏は、両国の相違点について注意する必要性も指摘している。
  19. プロイセンでは、所領に対する貴族領主の行政・司法上の諸権利が明確に定められ、また国家からの勤務収入が安定していたため、貴族は独自の価値観と身分的一体性を保ちながら勤務に専心することができたとしている。Raeff, M., "The Russian Nobility in the Eighteenth and Nineteenth Centuries: Trends and Comparisons," Banac, I., Bushkovitch, P. (eds.), The Nobility in Russia and Eastern Europe, New Haven, 1983, pp. 106-109. このようにロシアとプロイセンの社会構造の相違を説くラエフであるが、彼は統治手段についてまで相違を強調したわけではない。むしろ彼は統治手段の点での双方の共通性を指摘し、その統治パターンにwell-ordered police stateの名を与えている。ただし、この点については結語で再び触れることにしたい。
  20. LeDonne, J.P., "Ruling Families in the Russian Political Order 1689-1825," Cahiers du Monde Russe et Sovietique, vol. 28, no. 3-4, 1987, pp. 233-312. J.P. ルドン著、松里公孝訳「18世紀のロシア(1700-1825)」和田春樹・家田修・松里公孝編『スラブの歴史』弘文堂、1995年、63-95頁。ルドンは、アレクセーイ・ミハーイロヴィチの2人の妻の実家ミロスラフスキー МилославскийとナルィシュキンНарышкин家を各々中心として2派が形成されたとした。ただし前派については「サルトィコーフ 隊Салтыков派」と呼んでいる。また彼は法規定の分析を通じて、この統治階級内でのpatron-client関係が、日常業務に影響を及ぼす可能性を法的に与えられていたことを立証しようともしている。 LeDonne, J.P., Absolutism and Ruling Class, New York, 1991.
  21. ルドンは会議法典以降、ツァーリと統治階級との間に利害の一致に関する「コンセンサス」が生じたと述べているが、統治階級の側に「コンセンサス」と呼べるほどの自覚的な態度が見られたかは疑問である。LeDonne, "The Eighteenth-Century..," pp. 141-142.
  22. Ibid., p. 145.
  23. なお、個別事例研究の必要性に関して同じ問題意識に立つものかは不明だが、最近のロシアでは複数の官吏の伝記を集めたcollective biographyが多く現われている。「ピョートルの巣の雛鳥達」を扱ったものとして、Павленко Н.И. Птенцы гнезда петрова. М., 1994.歴代の元老院検事総長を扱ったものとして、Звягинцев А.Г., Орлов Ю.Т.Око государево российские прокуроры XVIII век. М., 1994. 不正を犯した官吏達を扱ったものとして、Серов Д.О. Строители империи.Новосибирск, 1996. このセローフの書の末尾(С.150-215)にはприложениеとして史料集が付されており、本稿も多くを負っている。
  24. なお本稿では、史料からの引用を多く示している。確かに法令などは、ある指示を臣下・臣民に伝達することが主目的であり、その指示の内容のみに注目する読み方もあるだろう。しかし法令もまたテクストである。むしろ表現方式などの面から、筆者の意識や背後の状況といった新たな情報を読み取れないだろうか、との問題意識に立っている。
  25. Полное собрание законов Российской империи. Собр. 1-е (以下、ПСЗ). Т. 4.СПб.,1830. С. 627 ( 2321).
  26. Там же. С. 642-643 ( 2328).
  27. Там же. С. 643 ( 2330).
  28. Там же. С. 643-644 ( 2331).
  29. 9参議会による具体的な業務の分割については、1718年12月12日付けの勅令により指示された。ПСЗ.Т. 5. С. 601 ( 3255).その後、1722年1月に鉱工業参議会が鉱業参議会と工業参議会に分離され、同時期に所領参議会も新設された。
  30. 1717年12月11日付けの勅令による。Там же С. 525 ( 3129).
  31. Анисимов.Государственные…. С. 241.
  32. ただしこの職務規定には、誰を「最高位の」官職とするか具体的な指示はない。
  33. ПСЗ. Т. 5. С. 605-606 ( 3264).
  34. ПСЗ. Т. 6. С. 479-480 ( 3877).
  35. 元老院検事総長職務規定は、Там же. С. 662-664 ( 3979).
  36. 請願局長官職務規定は、Законодательство Петра I. М., 1997. С. 86-88.この規定の中で、地方裁判所(Провинциальный суд、高級裁判所(Надворный суд)、当該案件を管轄する参議会、元老院、と続くような段階的上訴の原則が確認されている。
  37. 貴族系譜紋章局長官職務規定は、Там же. С. 84-85.
  38. ПСЗ. Т. 6. С. 660-662( 3978).
  39. ПСЗ. Т. 4. С. 627 ( 2321). И.А. ムーシン=プーシュキン Мусин-Пушкин伯爵、Т.Н.ストレーシュネフСтрешнев、П.А.ゴリーツィンГолицын公、М.В.ドルゴルコフДолгоруков公、Г.А.プレミャンニコフПлемянников、Г.И.ヴォルコンスキーВолконский公、М.М.サマーリンСамарин,В.А.アプーフティンАпухтинБAН.П. メリニツキー Мельницкий である。
  40. ムーシン=プーシュキン、サマーリンと、1711年8月12日に元老院への参加を命じられたЯ.Ф.ドルゴルコフ公である。ドルゴルコフ公の元老院への参画については、元老院への指令の中に、「何となれば、将軍にして全権保有軍事コミッサール(генерал-пленипонциялкрикскамисар)のドルゴルーキー公[ドルゴルコフのこと]に従う形で、全コミッサール機関が割り当てられており、また彼は常にあなた方と共にあるべきである」との表現がある。ツァーリの発意により議員の追加が行われたことは明らかである。Письма и бумаги Петра Великого. Т. 11. выпуск. 2. М., 1964, С. 96-97.
  41. ПСЗ. Т. 5. С. 605-606 (3264).
  42. 新設の諸参議会の議長・副議長は、1717年12月15日付けの勅令により任命された。Там же С. 527-528 ( 3133) .新たに元老院議員となったのは、外務参議会議長Г.И .ゴローフキンГоловкин 伯爵(1660-1734)と副議長П.П. シャフィーロフ男爵、歳入参議会議長Д.М. ゴリーツィン公(1665-1737)、司法参議会議長А.А. マトヴェーエフМатвеев (1666-1728)、陸軍参議会議長А.Д. メーンシコフМеншиков 公(1672-1729)とА.А. ヴェイデВейде (1657-1720)(陸軍参議会では副議長を置く代わりに、両名とも議長とされた)、海軍参議会議長Ф.М. アプラークシンАпраксин 伯爵(1661-1727)、商業参議会議長П.А. トルストーイТолстой (1653-1729)、鉱工業参議会議長Я.В. ブリュースБрюс 伯爵(1670-1735)であった。なお、すでに元老院議員に任ぜられていたИ.А .ムーシン=プーシュキン(?-1729?)は歳出参議会議長、Я.Ф. ドルゴルコフ公(1639-1720)は監査参議会議長に任ぜられた。
  43. ПСЗ. Т.6. С. 660-662 ( 3978). ただしこの規定によって、「現任枢密参事官」「枢密参事官」イコール「元老院議員」という図式が定められたわけではない。
  44. Там же. С. 479-480 ( 3877).
  45. Там же. С. 486-493 ( 3890).
  46. メーンシコフ、アプラークシン、ブリュースは、文官の範疇に属する現任枢密参事官や枢密参事官の官等を持っていない。この点からも、1722年4月の職務規定の改正が、元老院議員資格の厳密な再規定というよりは、参議会議長との兼職の阻止に主眼を置いていたと見ることができる。
  47. Crummey, R.O., "Peter and Boiar Aristocracy, 1689-1700," Canadian-American Slavic Studies, vol. 8, no. 2, 1974, p. 277.
  48. Сборник русскаго историческаго общества. Т. 15.СПб., 1873 (以下、Сборник).С. 419 .ピョートル1世による元老院への指令においては、「公認されたし(объявите )」の部分のように、一般に二人称複数命令形を用いて指示がなされている。しかし他方で、ツァーリ宛ての嘆願書に二人称単数命令形を用いている例も多く、元老院への指令が尊敬表現であるのか単なる文法的混乱なのかは定かでない。
  49. Там же. С. 563.
  50. ПСЗ. Т. 5. С. 525 ( 3128).
  51. 1720年2月27日付けの「総則(Генеральный регламент )」第11章には、参事官・参事官補佐の人事について1717年12月11日付けの勅令とほぼ同じ表現が見られるが、「全参議会の会議」の部分は「元老院」と改められている。Законодательство Петра I. М., 1997. С. 106.
  52. この規定からすれば、1722年4月の元老院議員と参議会議長の兼職の禁止は、元老院から排除された参議会議長の権限の縮小を意味するだろう。しかし先に見たように、この前後で元老院議員の構成は変化したわけではなく、それゆえに従来の有力者の既得権は保持されていたことになる。そして、この元老院議員達を任命したのも、やはりツァーリであった。
  53. Там же. С. 106.なお参議会副議長については、1720年の「総則」第11章は「元老院は副議長に適任な幾人かを選び、票決してツァーリ陛下に報告すべし」と定めている。
  54. ПСЗ. Т. 6. С. 479-480 ( 3877).
  55. Там же. С. 481 ( 3881).
  56. Сборник. С. 447-448.
  57. 同年4月19日付けの元老院への指令には、「票決(балотирование)による司法参議会議長への選出によれば、より多くの票がスチェパーン・コルィチェフ Степан Колычевに入れられた。それゆえ、貴族に対する現下の全体査閲の終了後、彼コルィチェフを司法参議会に議長として就かせられたし」との表現が見られる。票決の主体は記されていないが、恐らく元老院と思われる。しかし、2週間も経ずにアプラークシンの議長任命が行われているので、理由は不明だがコルィチェフの任命は実現しなかったものと判断される。元老院による参議会議長の選出を示す珍しい事例だが、結局、その選出は実効性を持たなかったことになる。 Воскресенский Н.А. Законодательные акты Петра I. Т. 1. Л., 1945. С. 253. なお同指令では、陸軍大佐И.プレシシェーエフ Плещеевの貴族系譜紋章局長官への任命も宣言された。この人事は同年5月2日付けの元老院への指令において、ほぼ同じ表現により再び確認されている。つまり、コルィチェフの人事のみが無効となったわけである。Там же. С. 254.
  58. Сборник. С. 470.
  59. Там же. С. 468.この事例でも、ツァーリが後任の議長を定めている点は注目される。
  60. ПСЗ. Т. 6. С. 660-662 ( 3978). 同規定では、参議会議長も元老院が「宣告すべ」き対象とされていた。
  61. 18世紀初頭には、父称は地位の高い人間への敬称として限定的に使用されていた。一般には「某の息子/娘」の表現が用いられた。
  62. Сборник. С. 528.
  63. 監察官が秘密裏の監視を原則とするのに対し、検察官は公然の監視を原則としていた。Пав-ленко.У истоков…. С. 13. また検察官の導入に伴い、監察官は自分の発見した不正について、検察官に対する報告義務を負うよう定められた。ПСЗ.Т. 6. С. 662-664 ( 3979).
  64. Там же. С. 479-480 ( 3877).
  65. Воскресенский. Указ. соч.С. 250-251.
  66. Там же. С. 253.
  67. LeDonne, Absolutism and Ruling Class, New York, 1991, p. 45.
  68. さらに1719年1月1日付けの勅令では、武官の欠員の補充について、「2、3人の候補者からの票決により、欠員に選出するように」との指示が現われる。ПСЗ.Т. 5. С. 607 ( 3265).
  69. Там же. С. 96-97 ( 2795).
  70. Сборник. С. 376. またルミャーンツェフもトルストーイも、官位と共に没収地を下賜されている。
  71. ミーハン=ウォーターズの説によれば、ピョートル・シャフィーロフの父パーヴェルはスモレーンスク在住の商人であったが、アンドルソヴォ条約(1667)によりスモレーンスクがロシア領となった時点でロシア人化した後、使節庁での勤務に参加して貴族身分を与えられたとされる。 Meehan-Waters, "The Muscovite..," p. 16. 他方でセローフは、パーヴェルによる使節庁での勤務や貴族身分の取得を疑問視し、むしろ彼は外国人捕虜としてБ.ヒトロヴォー Хитрово公のホロープになっていたと主張している。Серов.Указ. соч. С. 30-32..
  72. ピョートル・シャフィーロフは1691年に使節庁通訳官(Переводчик)として勤務を開始。1697-98年に西欧への大使節団に参加。北方戦争中は諸戦闘に参加し、1710年に男爵(барон)位を得た。
  73. ПСЗ. Т. 5. С. 527-528 ( 3133).ただしミーハン=ウォーターズの指摘によれば、当時の高官がこのように同一分野で勤務を続ける事例はむしろまれである。その意味では、この現象は、外交が当時の行政の中で特別な性格を持っていたことの現われともとれるだろう。
  74. Анисимов. Государственные…. С. 250-252.
  75. Непотребный сын. Дело царевича Алексея Петровича. СПб., 1996. С. 382-389.この判決文の提出は元老院の改組直前の出来事であるが、シャフィーロフの名は改組後の元老院議員12名の中で7番目に位置している。
  76. 本来、元老院での議事の進行は元老院検事総長の職務であった。ただし元老院検事総長職務規定第12条には、「元老院上級検察官は、元老院検事総長の諸業務における彼の補佐役である。元老院検事総長の不在時には、彼の業務を遂行せねばならない」とあるから、当日は検事総長П.И.ヤグジーンスキーЯгужинскийが不在であったと判断される。 ПСЗ. Т. 6. С. 662-664 ( 3979).
  77. Сборник. С. 502-503.
  78. Павленко. У истоков…. С. 12-16. パーヴレンコは行政監査機関の欠陥について、その担い手があくまで官僚制機構の内部に位置した官僚であり、一般社会からの監視ではなかったことに最大の原因を求めている。しかしパーヴレンコが理想視したようなシステムが、当時の社会状況において可能であったか、またそれが適した道であったかは疑問である。
  79. Серов. Указ. соч. С. 162-163.
  80. Там же. С. 163-164.
  81. Сборник. С. 502-503.
  82. 特にゴリーツィンとドルゴルコフの2人は、シャフィーロフによる不正や元老院での騒動への協調ゆえに、1723年2月13日、官等を剥奪され、元老院議員から解任された。 Серов. Указ. соч. С. 65.
  83. 元老院議員からはマトヴェーエフ、ムーシン=プーシュキン、ブリュース、将官からはИ.ブゥトゥルリンБутурлин,И.ドミートリエフ=マモーノフДмитриев-Мамонов,И.ヴォエーイコフВоейков(当時モスクワ県副知事)、近衛隊佐官・尉官からはА. ブレディヒンБре-дихин,А. バスカコフБаскаков,С. ブレクロイБлеклойが参加。Г.М. ゴロヴィーンГоло-винのみ経歴不明だが、大佐以上の陸軍士官を記した1722年1月11日のリストに含まれていないことから、近衛隊付き士官であった可能性が強い。Сборник.С. 440-443.
  84. LeDonne, "Ruling Families..," pp. 245-248. なおサマーリンは1719年に元老院議員から外れ、Я.Ф.ドルゴルコフとヴェイデは共に1720年6月に死去していた。さらにカンテミールは病気のために、1722年の後半からは元老院の実際の業務には参加していない。ちなみにルドンは、トルストーイを1710年代末以降の時期におけるサルトィコーフ派の中心人物と捉えているが、むしろメーンシコフとの臣従関係を強調する見方もある。Серов.Указ. соч. С. 114-115.
  85. Там же. С. 169-171.
  86. 例えば、シャフィーロフの審理を命じた1723年1月9日付けの指令でも、元老院議員達に対し「これらの指示を聞きつつ、後で無知によって言い逃れしないように準備していて欲しい」と命じられている。その他、А.デヴィエルДевиерをサーンクト・ペチェルブールク警視総監(генерал-полицымейстер)に任命した1718年5月27日付けの元老院への指令にも、同様の表現が見られる。Сборник.С. 372.
  87. また1724年1月20日付けの勅令では、以前から武官が行っていたのと同様に、文官も総則の中から自分の職務に関係した部分を定期的に朗読すること、それを検察官が監督することが命じられている。ПСЗ.Т. 7. С. 205 ( 4422). ピョートル1世は、エリート層でさえも法令の理解が十分ではないと認識していたわけである。
  88. 1705-06年のアーストラハン蜂起においては、蜂起の指導者達による全体集会(クルーク)が、寛大な処置を約束した勅書を歓迎する一方で、厳格な調子で蜂起中止を命じた勅書については偽造と見なして退ける姿が見られた。土肥恒之「ピョートル改革期の社会と民衆」『社会史研究』創刊号、1982年、246-252頁。
  89. このような視点からの研究としては、1720-60年代の農民嘆願書におけるツァーリの法令の引用について分析したラースキンの論文がある。Раскин Д.И. Использование законодательных актов в крестьянских челобитных середины XVIII века // История СССР. 4. 1979. С. 178-192.
  90. ПСЗ. Т. 6. С. 660-662 ( 3978).
  91. ПСЗ. Т. 5. С. 605-606 ( 3264).
  92. ПСЗ. Т. 6. С. 1 ( 3480).
  93. Там же. С. 656-657 (3970).
  94. Там же. С. 368-369 ( 3757).
  95. ПСЗ. Т. 5. С. 84-85 ( 2775).この勅令が直接表現するところによれば、「平民出身の兵士で長年の勤務により士官の地位を得る者」は、禁令の対象外となっている。これから類推するに、恐らく近衛連隊で勤務した経験のない貴族でも、同様に平兵士から長期の勤務経験を積んだ者は士官になることができたものと考えられる。ただし、それが近衛連隊経由よりもはるかに厳しい道であったことは確かだろう。
  96. ПСЗ. Т. 7. С. 360-362 ( 4589).漠然とした定義であるが、事実上の判定基準は外見と身体的能力であったとされる。Романович-Славатинский. Указ. соч. С.130-131. また знатныеという語を18世紀ロシアにおける「アリストクラシー」の代替語と捉えるミーハン=ウォーターズの図式は、この事例から見る限り、必ずしも常に成り立つとは言えない。Meehan-Waters, "The Russian Aristocracy..," pp. 288-289.
  97. Сборник. С. 548.
  98. Там же. С. 549. 他の者達の罪状は遺言状偽造への関与、司祭や自分の下男の殺害など多様であり、刑期も半年から10年とばらつきがあった。
  99. Там же. С. 185. この任命も、ツァーリの勅令の形式をとっている。
  100. さらに1720年7月1日付けの勅令により、彼の動産・不動産全てについて、それらを他者が購入したり抵当にとったりすることが禁じられた。このガガーリンの資産の凍結は、彼に対する追及が本格化したことを意味するものと思われる。Там же. С. 407.
  101. 同日には、マトヴェーイ・ガガーリンの息子アレクセーイが以前に行った外国旅行に際し、ロシアから持ち出した金銭・物品の額、当地で手形(вексель)により入手した金銭・物品の額についても、捜査官署に対し調査が命じられている。ガガーリン家の資産状況を詳細に把握することにより、不正所得との関係を証明するためだろう。Там же. С. 421.
  102. Там же. С. 420.
  103. Там же. С. 422-423.
  104. ПСЗ. Т. 5. С. 135-136 (2871).この勅令の中にも、先に触れた「誰も無知によって言い逃れしないように」の表現が存在する。
  105. エーストライヒ、前掲論文、244-256頁。また千葉徳夫氏によるエストライヒ論文の解題にも、17世紀中葉のゴータ侯国の行政を論じる中で、「[君主とその家族が]見習われる模範として最も厳格な紀律に服したのである」との記述が見られる。G. エストライヒ、阪口修平・千葉徳夫・山内進編訳『近代国家の覚醒』創文社、1993年、152-153頁。
  106. 「前記の不正を行う者があれば、極めて苛酷な体刑に処され、全財産を奪われ、さらし刑に処され、そして尊敬すべき人々(добрые люди)の範疇から除外されるか、あるいは死刑に処されるであろう」と宣告されている。
  107. Сборник. С. 433. ガガーリンの事件は、ピョートル1世に対して大きな衝撃を与えたものと推測される。直後に公布された1722年4月17日付けの「民事法の遵守について」の勅令でも、「ガガーリン的な行動原理に追随して、いかなる口実の下でも、朕のこの法令に違反する者があれば」との表現が見られる。
  108. Серов. Указ. соч. С. 202-203.
  109. 1722年5月4日付けの勅令によれば、ガガーリンの家財道具・物資を売却して得られた金14000ルーブリは国庫金に数え入れられ、軍事費として活用された。Сборник.С.474.また同年5月5日付けの勅令には、ガガーリンの所有していたモスクワや郊外の屋敷が、ツァーリの下にすでに没収されていた事実が示されている。Там же. С. 475.
  110. カビネットの機能の変遷については、Анисимов.Государственные…. С. 282-286.
  111. Серов. Указ. соч. С. 150-158.
  112. ПСЗ. Т. 5. С.137-138 ( 2877).
  113. ピョートルの措置は、投げ文への決裁の形式で記されている。
  114. Анисимов. Государственные…. С. 287.
  115. 土肥恒之『ピョートル大帝とその時代』中公新書、1992年、149頁。
  116. Русская старина. Т. 5. СПб., 1872. С. 917.
  117. Законодательство Петра I. М., 1997. С.86-88.
  118. Анисимов. Государственные…. С. 278-281.
  119. これに対して1713年10月23日付けの勅令では、「もし、このような犯罪者、国益の侵害者、略奪者を知っている者があれば、その者達は、全く恐れることなく到来し、その事実についてツァーリ陛下本人に届け出て欲しい」と、直接の「密告」が奨励され、密告者に対する褒賞も約束されている。ПСЗ.Т. 5. С. 63 ( 2726). ただし国家機関の拡充に伴い、ツァーリ本人やツァーリ宮廷への「密告」は制限されてゆく。
  120. Сборник. С. 444.
  121. Русская старина. Т. 98. СПб., 1899. С. 239-240.
  122. Серов. Указ.соч. С. 167.
  123. この種の嘆願は俗人のみに限定されるものではない。1724年2月24日、ノーヴゴロド大主教フェオドーシー Феодосийはモスクワでの滞在地として、リャザーン府主教ヤボールスキーЯборскийが生前に使用していた屋敷の下賜を願い、裁可を得ている。このヤボールスキーの屋敷自体、1710年にツァーリより下賜されたものであった。Сборник.С. 509.
  124. 当時、兄ドミートリーは都市参事会(Главный магистрат)の成員、弟オシープは商業参議会参事官補佐であった。
  125. Там же. С. 488.その他にも、例えばリガ県知事А.И. レープニンРепнин公は「自分の県知事としての俸給を定めてくれるよう」ツァーリに嘆願した。それに応じ、1720年2月21日付けの元老院への指令でピョートルは、「他の県知事達に対しても定められているような額に基づいて、金銭と穀物による彼の俸給を定めるべし」と指示している。Там же. С. 399. なお、1721年1月18日付けの勅令では、宗務院(Синод)の議長・副議長・参事官・参事官補佐に対する俸給額が具体的に定められている。ПСЗ.Т. 6. С. 312 ( 3712).
  126. この指令ではツァーリにより、「オステルマンОстерман殿に対し、彼の官等に基づいて2年分の俸給を与えるべし」と命じられると共に、元老院の側でも、「どの年に彼に対する支給がなかったか」調査すべき旨を指令書に書き加えている。これらの記述から、ツァーリの指令が褒賞の指示などではなく、オステルマンに対する未納分の俸給を問題にしていたことが明らかである。Сборник.С. 554.
  127. LeDonne, "The Eighteenth-Century..," p. 140.
  128. ウェーバーによる近代官僚の定義については、M. ウェーバー、世良晃志郎訳『支配の社会学1』創文社、1960年、60-73頁。
  129. 村上淳一『近代法の形成』岩波書店、1979年、130-194頁。
  130. Raeff, M., "The Well-Ordered Police State and the Development of Modernity in Seventeenth- and Eighteenth-Century Europe: An Attempt at a Comparative Approach," The American Historical Review, vol. 80, no.5, 1975, pp. 1221-1243. ラエフの主張によれば、well-ordered police state とは、三十年戦争後のプロテスタント諸邦に萌芽し、17世紀ドイツで発達した統治パターンである。重商主義とカメラリスムス(Kameralismus)に依拠しつつ、国内のリソースの最大限の活用と、紀律化による臣下・臣民の活動領域全般の合理的組織化とを図る。このような統治を正当化するための根拠とされたのが、初期啓蒙思想により提唱された「公共善」の追求の思想であった。ラエフは、イギリスを除くヨーロッパ大陸全域のアンシャン・レジームに、このパターンが遍在したとする。
  131. ただしラエフは、well-ordered police stateは社会の社団的編成を前提にしたと述べ、エカチェリーナ2世による貴族身分創設の動きをこそ、17世紀に発達したような本来のwell-ordered police stateへの接近を図るものと見ている。Raeff, M., "Seventeenth-Century Europe in Eighteenth-Century Russia?," Slavic Review, vol. 41, no.4, 1982, pp. 611-619.
  132. ПСЗに所収されているものに限定しての話ではあるが、17世紀後半には年平均36に過ぎなかった法令数が、18世紀前半には年平均160に増加している。Павленко Н.И. Идеи абсо-лютизма в законодательстве XVIII в. // Абсолютизм в России (XVII-XVIII вв. ). М., 1974. С. 416.
  133. もともと「身分」を指す語自体が、18世紀末から19世紀初頭までロシアには定着しなかったとの分析もある。Freeze, G.L., "The Soslovie (Estate) Paradigm and Russian Social History," The American Historical Review, vol. 91, no. 1, 1986, pp. 11-21.
  134. ウェーバー、前掲書、91-92頁。
  135. Cracraft, J., "Opposition to Peter the Great," Mendelsohn, E., Shatz, M.S. (eds.), Imperial Russia 1700-1917, Illinois, 1988, pp. 22-34. クレイクラフトによれば、臣下・臣民による不満の最大の原因は、ピョートル1世が示す「ツァーリ」としては特異に見える行動様式であった。
  136. エカチェリーナ2世時代を中心に、16世紀後半から19世紀初頭のロシアの外交政策に対するエリート層の態度を分析したジョーンズも、諸ツァーリの対外方針がエリート層の目先の利益とは必ずしも一致しないように見えたこと、それゆえにエリート層の側に抵抗の動きが生じたことを指摘した。ただしそれと同時に、彼らの抵抗があくまでサボタージュのような消極的な手法に留まっていたことも強調している。Jones, R.E., "The Nobility and Russian Foreign Policy 1560-1811," Cahiers du Monde Russe et Sovietique, vol. 34, no. 1-2, 1993, pp. 159-167. なお、ピョートル政府が貴族の「怠業」を認識した例としては、次のものがある。すなわち1700年7月、病人・老齢者一覧表に記載されていた貴族達に対し、ピョートルは彼らが虚偽の申告をしたと見なし、アゾーフへの流刑と資産の処分を命じている。Россия при царевне Софье и Петре I: Записки русских людей. М., 1990. С. 286.
  137. 石井、前掲書、37-39頁。
  138. Jones, op.cit., pp. 159-167.
  139. 1979年の段階でラエフは、従来のツァリーズム研究が君主の個人的性格の分析に集中していた点を批判し、「機関としての専制君主権力」が帝政期に果たした機能の研究を提唱している。Raeff, "The Bureaucratic Phenomena..," pp. 404-405.
  140. 女帝時代と寵臣政治に対する否定的な見方の形成においては、クリュチェフスキーの果たした役割が大きいとされる。В.О. クリュチェフスキー、八重樫喬任訳『ロシア史講話4』恒文社、1983年、345-403頁。
  141. 寵臣政治の利点を指摘する点で、ジョーンズの主張は興味深い。彼は、寵臣がツァーリの手足としてツァーリの巨視的な政策の遂行を助けたこと、また体制への敵意を自身に逸らして、「ツァーリ信仰」の存続を助けたことを評価する。Jones, op.cit., pp. 166-167. またアニーシモフも、外国人支配として悪名高いアーンナ・イヴァーノヴナ時代の「ビローン体制(биронов-щина)」について、それに対する批判が、実状に沿わない、後世からの政治的色彩の強いものであったことを指摘すると共に、ビローン Биронやオステルマンがアーンナの補佐に果たした積極的役割を評価している。Аниситов Е.В.Анна Ивановна//Вопросы истории.No4.1993.C.26-33.
  142. 青木康『議員が選挙区を選ぶ』山川出版社、1997年。青木氏は、18世紀イギリスにおける議員の選挙区移動の現象を指摘し、エリートと一定地方との結合という従来の図式に訂正を迫っている。
  143. 安成英樹「フランス絶対王政における地方長官の昇進過程」『史学雑誌』第107編第1号、1998年、1 -34頁。安成氏は、17世紀後半から18世紀のフランス地方長官を対象としたプロソポグラフィー研究を通じ、地方長官と中央政界との強い関係、そして王権による自分に忠実な官僚育成の意図を示した。

Japanese

Summary in English