ロシア帝国が同時代の西欧、特に英仏と異なる独自の統治構造を示していたことは、共通の理解になっていると言えるだろう。最近では、アンシャン・レジーム期ヨーロッパの統治構造を表現するために用いられてきた「絶対主義( абсолютизм)」という語(1) を、ロシアに対して用いることを否定し、самодержавиеという語で表わす研究者も現われている (2) 。このように西欧とロシアの相違を説明する時、根拠とされるのが、ロシアにおける君主による専制権力の保持と行使、身分や社団と呼ばれる中間諸団体の不在、「近代官僚制」 (3) の未成熟などであろう。これらの特徴は、19世紀以降の世界史的な文脈では、ロシア帝国の後進性の属性と見なされてきた。実際19世紀後半以降、ロシア帝国は多くの改革を必要としたのである。
しかしながら、ロシア帝国に見られた独自性、すなわち君主の専制権力および伝統的権威とロシア独特の官僚機構の組み合わせは、必ずしも国内の動員と矛盾したわけではない、との意見もある (4) 。また、専制体制の強化としてかつて反動と評されたアレクサーンドル3世時代に関して、帝権の強化が体制の安定化に果たした役割を評価する声も近年出ている (5) 。以上の点から見て、ロシア帝国の発展にとって専制的な君主権力が持った意義を、積極的に捉えかえしてみる必要があるのではないだろうか。
そうしたロシア帝国の原型が形成されたのが、ピョートル1世時代であったことは確かである (6) 。確かに、モスクワ大公国とロシア帝国との間に一定の連続性が見られることは、多くの研究者が指摘している (7) 。しかしながら、組織化の規模や諸制度の全面的な再編などの点では、やはり断絶が見られる。貴族の勤務義務が通年かつ終身の形で制度化され、全エリートが官僚としての役割を負うことになった点は、とりわけ重要だろう (8) 。本稿は、ロシア帝国の原型を作ったピョートル1世時代における、ツァーリと貴族官僚との関係の分析を目的とする。18世紀ロシアにおいて君主権力の果たした役割を考察することは、19世紀以降のロシア帝国における帝権の意義を理解するため、ひいては帝政ロシアの理解を深めるための一つの手がかりとなるのではないか、と思われる。
また次の点からも、ピョートル時代を検討する意義はある。従来、19世紀から20世紀初頭までの時期については、「市民」の台頭や近代官僚の優越をもたらした二重革命による断絶を強調するような見方が支配的であった。これに対して近年、伝統的な貴族エリート層による強固な影響力が、第一次世界大戦時までヨーロッパに存続した事実を論証することで、従来的な見方に修正を加えようとする諸研究が登場している (9) 。このように二重革命によるアンシャン・レジームの超克という単純な図式が修正されるようになった以上、ピョートル時代のようなアンシャン・レジーム期の統治構造を探るということは、近現代国家の「支配」の近代性と伝統性の相互関係を、実態に即して捉える作業ともなるだろう。具体的には、伝統的な貴族エリート層がいかなる形で国家運営に関与していたか、他の社会集団と比較していかなる立場にあったのか、この問題が現在改めて考察すべき課題となっているのである (10) 。
18世紀の貴族官僚に関する研究は革命前ロシアより存在したが(11) 、第二次大戦後、重要な研究は欧米の研究者によるものに集中していたように思われる。ちなみにソ連史学では、トロイツキーのように、ピョートル改革で導入された官等表に示されるような能力主義的昇進原理に基づいて、官等官集団に新規参入し、貴族の地位を得た「官僚貴族」の存在に注目する傾向が存在した (12) 。しかし官等官集団への参入は、即座に従来のエリート層に拮抗する地位を約束したわけではない。それはあくまでエリートとなるための必要条件を意味したにすぎなかった (13) 。この官僚貴族の台頭は極めて長期的な過程だったのであり、近年では、官僚貴族がロシア行政機構で目立った役割を示し始めるのは、アレクサーンドル1世時代以降のこととする見方が強い (14) 。
それに対し、18世紀前半の行政機構の中で監督者としての地位にあったような高級官僚に関して、モスクワ大公国以来のエリート層、それも特にアリストクラシーと呼ぶことができるような名門貴族の影響力の存続を示したのが、ミーハン=ウォーターズのプロソポグラフィー研究である (15) 。彼女はさらに、18世紀後半に向けて、名門貴族の地位はより支配的になったともしている (16) 。
ただし、この貴族官僚は貴族領主として社会的エリートの性格を持ってはいたが、やはり君主に服従する官僚としての役割が、彼らの存在意義になっていた。18世紀貴族の生活様式・教育・心理などを分析したラエフは、勤務上の官等による彼らの社会的地位の規定、ツァーリに対する強い従属性、所領との地縁性の欠如を指摘した (17) 。さらに、同じく勤務貴族としての性格を持っていたとされるプロイセン貴族との比較でも (18) 、ラエフは、君主に対するロシア貴族の地位の不安定性を強調している(19) 。彼の見解は後の研究者達に強い影響を与えており、ここに、ロシア帝国の貴族官僚に対する専制君主の優越を主張する立場が支配的となったのである。
ただ、その中で若干異なる解釈を示すのがルドンである。彼は、18世紀ロシアには貴族官僚上層の政治エリートによって統治階級(ruling class)が形成されていたとし、その統治階級が君主に対して持つ自律性を強調する立場にある。系図研究に基づいて彼は、統治階級内部に血縁や婚姻を通じて形成された2つの派閥の存在を指摘し、両派は各々の時期に力関係を変えながら18世紀を通じて競合したとしている (20) 。統治階級内部のネットワークに注目する彼のアプローチは、確かに従来の研究に欠けていたものである。また、旧来のエリート層が婚姻を通じて新興エリートを吸収したことを示した点など、注目すべき成果も多い。しかし統治階級と君主との相互関係については、前者の自律性を強調しすぎている印象を受ける (21) 。彼自身も認めているように、さらに諸業務における意思決定過程の詳細な分析が必要だと思われる (22) 。
本稿が意図するのは、この君主とエリート層との関係を明らかにするような個別事例研究である
(23)
。具体的には、ピョートル1世時代に最高行政機関とされ、また彼の治世後半に進められた大規模な行政の組織化の動きを体現する元老院を対象とする。当時の最上層のエリートにより構成されたこの機関には、ツァーリとエリート層との関係の在り方、そしてツァーリが統治に果たした役割が最も顕著に示されていると考えるからである。本稿の構成としては、元老院の性格を明らかにすべく、その地位や機能の変遷を概観した後、元老院に関係した2つの事件、
П.П.シャフィーロフЩафиров(1673-1739)
と М.П.ガガーリン
Гагарин(1658-1721) の審理の過程を分析する。シャフィーロフもガガーリンも高官であり、その彼らが不正事件に関与したこと自体、非常に興味深い。しかし本稿の関心は、以上の問題関心から自ずと審理の進められ方の方にある。そして最後に、元老院よりも範囲を広げて、当時の官僚とツァーリとの関係の在り方を見ることにしたい
(24)
。
「統治を司る元老院 (Правительствующий Сенат)」は、1711年2月22日付けの勅令により設立が宣言された (25) 。同年3月2日付けの勅令で告げられたように、オスマン帝国との「今回の戦争において朕が日常的に留守にするがゆえに」、当初は臨時に設置された機関であった。ピョートル1世が元老院を臨時機関と見なしていたことは、彼が元老院による不正な振舞いについて、「知る者があっても、朕の帰還までは黙さんことを。そうすることで現下の他の活動を妨げないようにするためである」と述べた点でも明らかである。まずは、ツァーリの留守中に統治を円滑に維持することが重要視された (26) 。具体的な活動内容は同日付けの他の勅令で指示されており、公正な裁判、歳出の監査、人材・金銭の集積、国庫専売品の管理、対外貿易の振興など広汎な機能が委ねられている (27) 。また3月5日付けの勅令によれば、元老院議員はみな等しい議決権を有するものとされ、全会一致による決議が要求された (28) 。
臨時機関として設立された元老院であったが、ピョートルの帰還後も存続し常設機関として定着する。その後、1717年から現実化する参議会( коллегия)制導入と連動する形で、元老院の果たすべき役割も新たに制度的に定められることになった。この参議会とは、多数が乱立し管轄事項の重複も生じていたプリカース( приказ)に代わり、中央行政の再編を意図して設立された機関である。1717年末の段階では、外務・歳入・司法・監査・陸軍・海軍・商業・歳出・鉱工業の9参議会により国政の分割が図られた (29) 。各参議会は議長(Президент)を頂点とし、副議長( Вице-президент)、参事官(Советник )、参事官補佐( Асессор)その他から構成された。そして、この各参議会の議長が1718年以降、元老院に参加するよう命じられたのである (30) 。これにより、元老院は諸参議会を統括する最高行政機関と定められることになった。アニーシモフはこのような元老院の性格を、「諸参議会議長による参議会( коллегия коллежских президентов)」と呼んでいる (31) 。
元老院の新たな機能については、1718年12月の元老院職務規定に詳しい。この包括的な規定には、元老院に求められた具体的な活動の内容が記されている。各参議会や諸県から上げられた問題の審理、ツァーリから下された課題の解決、票決による最高位の( вышний)官吏の選出(32) 、一般官吏の任命、各地への訓令(указ)の送付などである。また、決議の方式は多数決に変更された (33) 。この変更の点に、元老院がより現実に即した機関として想定されるようになった状況を見ることもできるだろう。さらに、「裁判と捜査」を掌握する司法参議会を管轄下に置いた元老院は、同時に最高審としての機能も委ねられたことになる。まさに元老院は、分野を問わず中央・地方の諸機関とツァーリとの間を仲介する役割を与えられたのである。
この後、参議会制を実際に運用する中で様々な問題点が表面化し、元老院職務規定も1722年4月27日に改正されることになった。以前との最大の相違は、参議会議長と元老院議員との兼職の原理が廃された点にあった。この理由として同年1月12日付けの勅令は、参議会議長と元老院議員の兼職が、元老院の業務遂行を労力の上で困難としていること、元老院が個々の参議会の利害から超越する必要があることを挙げている (34) 。またこの時期、元老院内部の構造もより整備された。「君主の目」として元老院の活動を監視すると共に、諸監察機関を統轄する元老院検事総長( Генерал-прокурор)(35) 、参議会および中央諸官署の事務遅滞や不正を訴えるような嘆願書の受理と事後処理を担う請願局長官( Генерал-рекетмейстер)(36) 、貴族の家族や勤務に関する情報を収集・整理すると共に、貴族が勤務へと専心するよう監督する貴族系譜紋章局長官( Герольдмейстер)(37) などの職務が、元老院に付属する形で新設されたのである。ここに元老院を頂点とするピョートル1世時代の行政機構は、一応の制度的枠組みが完成された。しかし、元老院によるその他の具体的活動に関する規定は、おおむね1718年の規定と変わっていない (38) 。
1711年に元老院の創設を宣言した時点で、ピョートル1世は9人の元老院議員を任命した (39) 。しかし、その後の議員の補充・解任・死去を通じて、1718年末の段階で元老院に残っていたのは3人のみであった (40) 。ここで先に述べたように、1718年の元老院職務規定第1条によって、元老院は「諸参議会の議長」から成るよう指示された (41) 。これにより9人の議員が補充されることになった(42) 。さらに1722年に元老院議員と参議会議長の兼職が禁じられると、元老院職務規定第1条の議員資格も「現任枢密参事官( Действительный тайный советник)達と枢密参事官( Тайный советник)達」と改正された(43) 。しかし、この改正による影響はむしろ参議会の方で生じた。すでに在籍していた元老院議員達はそのまま留められた。そして陸軍・海軍・外務・鉱業参議会の議長・副議長には例外的に兼職が認められながら、他の参議会については新たな議長が任命されたのである (44) 。
元老院議員の官職は、1722年1月24日付けの官等表の中で官等を定められていない。その代わり、参議会議長は少将相当の4等官、また枢密参事官も4等官、現任枢密参事官は大将相当の2等官とされており (45) 、彼らから成るよう指示された元老院は、法規定上きわめて高位の者達により構成されるものと定められていたことになる。さらに実際には、1等官にあたる宰相( Канцлер)の官等を持つゴローフキン、元帥号を持つメーンシコフ、アプラークシン、ブリュースらが在籍するなど (46) 、元老院は法規定よりも上位の官等官を含んでいた。これほどの高官達により組織された行政機関は、当時、他にはない。したがって元老院の態度を、ピョートル1世時代後期の政治エリート層の意図を最も顕著に代弁するものと見ることは妥当であろう。
最大でも議員数が12名に留まったピョートル1世時代の元老院は、モスクワ大公国時代の貴族会議( боярская дума)と比べ、より権力の集中した機関であったと言ってよい。15世紀以前から存在したとされ17世紀末まで存続した貴族会議では、17世紀を通じて議員数が急増し、1689年には最大の151人に達した (47) 。これは貴族会議の権威を低下させると共に、その機動性を奪うことになった。また貴族会議が諸プリカースとの関係を法的に定められていなかった点も、元老院が与えられた堅固な制度的基盤とは異なっているだろう。
ただし、貴族会議と元老院双方に共通する重要な特徴がある。いずれにおいても、ツァーリが議員を選任した点である。先に見たように、元老院の議員資格を定め、また実際に人選を行ったのはもっぱらツァーリの勅令であった。そして議員の臨時の補充もピョートル1世の発意から生じた。以下は、元老院に対する1721年2月20日付けのピョートルの指令である。
この指令の受領後、ヴァラキアの君主ドミートリー・カンテミール Дмитрий Кантемир公に対して、枢密参事官の官位(чин )を宣告し、また元老院議員として公認されたし(48) 。
また議員の死去や、本稿で取り上げるシャフィーロフ事件を経て、1723年以降に元老院議員の数が減少した状況に対しては、1724年12月5日付けの元老院への指令により、次のように命じられた。
何となれば現在、元老院には少数の成員しかいない。それゆえ、将官の内から3人を追加されたし。また、彼らは1年ごとに交替すべし (49) 。
ツァーリの任免権が直接に行使されたのは、元老院議員ばかりではない。そこでツァーリによる権力行使の実態を明らかにするため、ピョートル1世時代の人事に関する法規定と実例を検討しておきたい。なお官庁や官職が新設された時を除いては、昇進・異動は欠員( ваканция)を埋める形で実施されるものとされた。
中央行政機関である参議会については、法規定から判断して、参議会議長が与えられていた権限の大きさは明らかである。例えば参事官と参事官補佐については、1717年12月11日付けの勅令により、参議会議長が「あらゆる業務に対し2人もしくは3人ずつ[複数の候補者]を選ぶべし。その後、全参議会の会議に報告し、投票により、これらの参議会に選任すべし」と指示されている (50) 。「全参議会の会議」とは具体的には元老院を指しているが(51) 、当時の元老院は参議会議長達によって構成されていた。最終的な選出の段階まで、参議会議長が介在していたことになる (52) 。また参議会成員の人事の原則を定めた1720年2月27日付けの「総則」第11章によれば、参事官補佐より下位の秘書官( Секретарь)・官房官(Камерир)らの官吏については、「参議会議長がその参議会の他の成員達と共に、数人ずつ適任者を選び、彼らについて報告し、彼らの中から選出し、元老院において彼らに官職を宣告すべし( сказывать)」となっている。最後の「宣告すべし」という表現は、この条文から判断する限り単なる公示を意味するようである。複数の候補者を選び一人に絞る段階まで、参議会内の合議で実行されることになり、参議会議長の権限はより増している (53) 。
その肝心の参議会議長については、参議会の他の成員に見られるような人事上の普遍的な規定は存在しない。したがって実例を追うことにしたい。まず1717年末の創設期には、議長は先に触れたようにツァーリの勅令により任命された。その後、元老院の変革を想定したツァーリは、1722年1月12日付けの勅令により、新たな参議会議長の候補者をツァーリに報告するよう、元老院に対し求めている (54) 。さらに同月18日付けの勅令では、司法参議会より独立して所領参議会を設立するよう命じると共に、「[所領参議会の]運営に関しては、宣誓を行いつつ、あらゆる官位( чин)から3人を前記の参議会の議長に選び出し、朕に報告せよ」と元老院に指示した (55) 。これらの表現からは、推挙された複数の候補者の中から議長1名をツァーリが選出、という図式が見えてくる。これらの動きの中で、同月18日、歳入・歳出・商業・工業の4参議会議長がツァーリの指令により任命された (56) 。司法参議会議長の選出については若干事情が複雑であったが(57) 、最終的には同年4月29日に、ツァーリから元老院への指令で、「司法参議会には、ピョートル・マトヴェーエヴィチ・アプラークシンを割り当てるべし」と命じられた (58) 。このアプラークシンの任命の事例では、事前に元老院からの推挙が存在したかどうか不明であるが、いずれの場合においても、議長の最終的な人選がツァーリの意思により完了されたことは確かであろう。そしてツァーリは、参議会人事に強い発言権を持つ議長を自ら定めることにより、自分の意思を中央行政機関に反映させる可能性も保持したのである。
また1722年4月27日には、元老院に対して以下のような指令が出されている。
議長ゴリーツィン公に対し、現下の出撃のために糧食を発送するまでは、歳入参議会を統轄するよう命じられたし。彼がモスクワに帰ったら、彼に対し元老院に座っているよう命じられたし。そして、歳入参議会を彼から引き継ぎ、ガラーシム・コーシェレフ Гарасим Кошелевに対して[同参議会を]統轄するよう命じられたし (59) 。
この措置には、参議会議長の「任期」についてもツァーリの裁量が働いたことが示されている。これは、国家運営の円滑な進行を第一義としたツァーリによる柔軟な対応と見ることができるだろう。
ツァーリの人事に関する権限は、地方行政の頂点に位置した県知事(Губернатор )に対しても同様に働いていた。県知事についても、1722年の元老院職務規定で「元老院で官職を宣告すべ」き対象とされた以外 (60) 、参議会議長と同様に人事上の普遍的な規定は見られない。しかし例えば、1724年1月15日付けの指令では元老院に対し、「ミハーイロ・ヴォロディーメルの息子 (61) ・ドルゴルーキー Михайло Володимеров сын Долгорукий 公に対し、シベリア県の知事となるよう命じられたし」と指示されており(62) 、この表現から、ツァーリの判断が最終決定となったことは明らかである。
そして、臣下による推挙とツァーリによる承認との関係を顕著に示すのが、検察官人事にまつわる事例である。ピョートル1世時代の行政監察は、1711年に新設された監察官( Фискар)、そして1722年、より強い権限を持つ者と定められた検察官( Прокурор )(63) に委ねられた。ピョートルは同年1月12日付けの勅令により、「あらゆる参議会には検察官が1人ずつ存在」すべきことを述べると共に、その候補者達を選出するよう元老院に命じた (64) 。元老院が提出した同年2月7日付けの候補者リストに対しピョートルが行った決裁の内容は、注目に値するだろう。例えば陸軍参議会検察官としては、 И.ボルティンБолтин と Е. パシュコフПашковの2名が推薦されたのに対し、ピョートルの決裁によってパシュコフが選ばれた。海軍参議会についても同様の経緯が見られた。その一方で、歳入・司法・商業・鉱業参議会については、各々2名の候補者が推薦されたにもかかわらず、ピョートルはいずれも承認しなかった。工業・歳出参議会に対しては各1名のみ推薦されたが、彼らも承認を得られなかった (65) 。その後、同年4月17日付けの候補者リストにおいて、改めて歳入・司法参議会については2名ずつ推薦され、各1名が選ばれることになった。所領・商業・鉱業・工業・歳出参議会については1名ずつ推薦され、今度は全員が承認を受けている (66) 。この推移からは、複数の候補者からの選出に際して、実際にツァーリの意思が介在したこと、さらにツァーリの判断が臣下による推薦の枠に拘束されなかった状況を見ることができる。
武官についてはどうであったか。18世紀全般にわたる武官人事の原則を定めたとされる (67) 1714年4月14日付けの勅令では、ある連隊で欠員が生じた時に、「その連隊の佐官と尉官の証言( свидетельство)により尉官を、全師団の将官と佐官の証言により佐官を」任命すべし、と指示されている。「証言」の正確な意味は不明だが、「この証言とは、欠員に任命されている者が、その模倣( шаржа)にふさわしいということである」との表現から、上司・同僚による推薦の辞を指すものと判断できる (68) 。さらに、同勅令の末尾には以下の指示が存在する。
元帥は陸軍中佐までを任命し、陸軍大将は陸軍大尉までを任命すべし。陸軍大佐に対しては、朕の命令なしには元帥でも任命してはならない。しかし予告されている方法により選出し、そのことについて[朕が]在席の際には朕に言明し、離れている際には文書にして許可を待つべし (69) 。
将官人事についての規定は存在しない。しかし、これらの表現から次のような原則、すなわち陸軍中佐までについては人事にツァーリの承認は必要とされなかったが、陸軍大佐以上については、臣下による何らかの推挙が存在したにせよ、ツァーリの意思の働く余地が残されていた、との原則が推測されるだろう。そして将官は、参議会人事における議長と同様に、武官人事を統制する際の核となる部分であった。
さらに、これら欠員補充を目的とした人事の他にも、特別な功績に対し臨時に官位で報いる事例も存在した。一例としては、オーストリアに政治亡命を図った皇太子アレクセーイをロシアへと連れ戻した功績ゆえに、1718年12月13日、 А. ルミャーンツェフ Румянцевに対し近衛隊少佐と将軍副官( генерал-адъютант)の官位、П.トルストーイに対し現任枢密参事官の官位が授けられている。ただしこうした動きも、もっぱらツァーリの指令によって進められたことに留意すべきだろう (70) 。
以上で見てきたように、ツァーリは元老院議員、参議会議長、県知事、将官といった各分野の頂点をなす者の人選に際し、自分の権力を直接行使することが可能であり、また実際に行使していた。臣下による推挙が存在した場合にも、それに従う義務はなかった。また元老院議員や参議会議長、将官を押さえることは、さらに下位の人事に対しても間接的に影響を及ぼすことになる。こうした形式を利用することで、まさにツァーリによる包括的な支配が実現されていたと言える。
そこで以下では、さらに具体的な事件を対象として、元老院に関わる業務が実際にはどのような過程をたどったのか、またツァーリとの関係はどうであったのか、検討したい。
ピョートル・シャフィーロフ男爵の出自に関しては諸説が存在するが、彼の父を正教に改宗したポーランド系ユダヤ人とし、シャフィーロフを名門貴族の範疇から外して見る点では一致している (71) 。それゆえにこそ、シャフィーロフの急速な立身出世は研究者の注目を集めてきた (72) 。1709年に使節庁の宰相補佐(Подканцрел)に任命されたことは、彼が外交の分野で長官のГ.И.ゴローフキンに次ぐナンバー2の地位を得たことを意味している。参議会制への移行後、1717年12月15日付けの勅令でも、外務参議会では同様に議長にゴローフキン、副議長にシャフィーロフが任命された (73) 。そして翌1718年、シャフィーロフは唯一人、参議会副議長の中から元老院議員に任ぜられたのである。
アニーシモフは公的文書に記された署名の有無および順序の調査を通じて、当時各官僚間に非公式に存在したヒエラルキーを浮かび上がらせる方法論を示した (74) 。そのアプローチに従うならば、1718年6月24日にピョートル1世に提出された皇太子アレクセーイに対する判決文で、シャフィーロフが上から8番目に署名している事実は (75) 、この時期に彼が保持していた極めて高い権威を象徴するものと言えるだろう。まぎれもなく、彼は当時の行政機構の最上層を構成した一人であった。
その高官シャフィーロフが審理の対象となった直接の契機は、元老院上級検察官( Оберпрокурор)グリゴーリー Г.スコルニャコフ=ピーサレフ Григорий Г. Скорняков-Писарев(1675-1752?) との衝突であった。シャフィーロフが1722年9月、自弟宛てに不当に高額の俸給が支払われるよう、元老院からの指令書を不正に作成した容疑、また、彼が監督していた駅逓( почта)事業に発覚した使途不明金の問題を要因として、以前から検察官ピーサレフは彼に疑念を向けていた。その緊張関係が表面化したのが、1722年末の元老院での審理の場においてである。先に触れた使途不明金の問題について審理が行われようとした際、ピーサレフは当事者であるシャフィーロフに対し退去命令を下した (76) 。その命令にシャフィーロフが抵抗し、ピーサレフを「悪党(вор)」と呼ぶなどしたため、口論が生じ議事が中断されることとなった。これを機にピーサレフは、当時ペルシア遠征からの帰還途上で首都に不在であったピョートル1世に対し、シャフィーロフを告訴する「密告」を送った。その一方でシャフィーロフも、ピーサレフらによる業務遂行を「個人的執着心( страсть)に基づいた、法令に反するもの」として、ピョートルに対し文書でピーサレフを弾劾したのである (77) 。
パーヴレンコも述べたように、ピョートル1世時代には監察官や検察官の設置など、包括的な監視システムの確立が図られながら、彼らのイニシアチヴにより審理が開始された例はまれであった (78) 。またシャフィーロフについては以前にも、1719年5月19日付けの外務参議会議事録において、議長ゴローフキン伯爵との間の口論や彼への暴言の事実が記されている (79) 。同日の内容を記した、外務参議会参事官В.スチェパーノフСтепанов の説明書( объяснительная записка)によれば、シャフィーロフは外務参議会の下僚をゴローフキンの「手先( креатура)」と呼び、その中の一人を殴打すると共に、自分の意に従うよう他の者達を脅迫したりもした (80) 。しかし、これらの事実が公文書に記載されたにもかかわらず、以後のシャフィーロフの地位に打撃を与えた形跡は全く見られない。臣下内部で生じた騒動・不正に対し、行政機構は自律的に制裁・処罰を加えることができなかったと言える。そして一般的に言うならば、ツァーリが主導することなしには、18世紀初頭ロシアの行政機構は活動できなかった。こうした構造の中で、ツァーリの専制権力こそが行政を活発化する積極的な役割を果たしたのである。
またピーサレフとシャフィーロフの双方ともが、事件の処断を即座にツァーリに委ねようとした態度には、エリート層による君主への強い依存の姿勢が明示されていると言えるのではないだろうか。
ピーサレフ、シャフィーロフ両名の訴えに対応して、帰還後、1723年1月9日付けでピョートル1世は元老院に指令を出した。この指令により当該事件の審理が命じられ、審理期間中はシャフィーロフ、ピーサレフ双方を公職から追放するよう指示された。中でも注目されるのは次の部分である。
この捜査は、元老院で遂行されるのが[本来なら]ふさわしかろう。しかし何となれば、前記の両名とも、元老院の中で自分に敵対的な者達を明らかにした。すなわちシャフィーロフが2名、メーンシコフ公とゴローフキン伯爵を挙げたのに対し、ピーサレフは、「シャフィーロフの友人達」と不正確な形で明らかにしたので、ピーサレフに対しては名を挙げるよう命じられたし。いずれの側からも、彼らに敵対的な者達がこの捜査に参加しないようにするためである (81) 。
この結果、審理の場から、ピーサレフのシンパとしてメーンシコフとゴローフキンら、シャフィーロフのシンパとして Д.М.ゴリーツィン公、Г. Ф.ドルゴルコフ公らが除かれた (82) 。そして、元老院議員3名に将官、近衛隊士官らを加えた計10名によって、後に最高法廷( Вышний суд)と呼ばれるような法廷がad hocに組織されることになったのである (83) 。
序で紹介したように、ルドンは18世紀ロシアの統治階級内部に2大派閥の競合を見た。主に親族関係を基準とした彼の区分によれば、当時の元老院議員ではメーンシコフ、ゴローフキンがナルィシュキン派、ゴリーツィン、ドルゴルコフ、シャフィーロフ、アプラークシン、ブリュース、トルストーイがサルトィコーフ派となっている (84) 。このような彼の区分は、今回の事件に見られる対立構図と大よそ一致していると言えよう。2大派閥のいずれにも属さない者とルドンが捉えたマトヴェーエフとムーシン=プーシュキンが、最高法廷の中心メンバーをなしていたことも興味深い。
ところで本来、最高審と定められていた元老院に代わり、ad hocに最高法廷の設置を命じたことが、ツァーリによる司法システムの恣意的な改編であったことは確かである。しかしながら、それはむしろ、事件の性格を考慮した柔軟な対応であったと言えるのではないだろうか。ルドンが仮説として提示した2大派閥の存在、その両派の対抗関係が日常の業務にいかに影響を及ぼしたか、この問題はいまだ具体的には解明されていない。しかし、たとえそのような動きが日頃存在したのだとしても、今回の事件に対するピョートルの措置は、両派の対立が審理に悪影響を及ぼす可能性を事前に排除したものと見ることができる。そして、このような措置をツァーリがなすことができた点から判断する限り、両派の力関係がそのままツァーリの意思を拘束していた可能性は低いように思われる。ツァーリは自らの専制権力を生かして、公正をより期待できる法廷を選んだのである。
元老院そのものほど顕著ではないにせよ、最高法廷も当時の有力者から構成されていた。特に近衛隊士官の中には、軍事のみならず司法の分野で活躍し、捜査活動を監督する地位を与えられた者もあった。したがってこの機関の意思についても、エリート層の姿勢を代弁するものと見なすことは無理ではないだろう。その最高法廷は同年2月13日に判決を下し、4つの罪状でシャフィーロフに有罪を宣告した。1.身内への不正な俸給支払いの工作、2.先にツァーリに提出されていた自白( повинная)に発覚した偽証、3.元老院に対する侮辱行為、4.法の恣意的な解釈、がその罪状である (85) 。このBとCに関する判決文の表現は、エリート層とツァーリとの関係を象徴的に示すものと思われるので、詳細に検討することにしたい。
Bの罪状に関する判決文の中では、退去命令に対するシャフィーロフの不服従、ピーサレフとの間の口論、元老院における混乱の惹起といった行為が取り上げられ、それらが「彼がこのような神聖な場所で行うには、甚だふさわしくないことであった」と断罪された。そして、これらの行為を有罪とするにあたり、1722年4月27日付けの勅令の一部が引用されている。
判決文の根拠として法が引用されるということ自体は、現代的な視点からすれば特殊なことではないだろう。しかし、それは当時のロシアにおいては重要な意味を持っていたように思われる。ピョートル1世による法令には、「無知によって誰も言い訳せぬように」との表現を伴い、臣下・臣民が法の内容を普く理解するよう求める指示が頻繁に登場する (86) 。ちなみにこの措置からは、当時のロシア臣下・臣民によるツァーリの法の知識が非常に乏しいものであったことが予想される (87) 。さらに、ロシアの「ナロード」には、自分達にとって都合の良い法令のみを真の法と見なす傾向も見られた (88) 。エリート層とは事情が若干異なるかもしれないが、臣下・臣民により引用された法令とは、ピョートル1世時代に多数公布された法令の中でもとりわけ、臣下・臣民により存在を知覚され、彼らの意識においても規範として定着していたものと見なすことができるだろう (89) 。したがって、そうした法令を分析することは、ロシアの臣下・臣民の意識を理解する上で重要であると考える。
判決文で引用された勅令とは具体的には、1722年の元老院職務規定、その第10条であった。勅令の内容は以下の通りである。
朕への勤務に関係しないような局外の問題について話し合うことは、誰にも許可されていない。いわんや誰も、大胆にも無為な会話や騒ぎを伴って姿を見せていてはならない。まさに、あらゆるふさわしい丁重さをもって振る舞うべき場所が作られていることを、知っておく必要がある。何となれば元老院は、離れた状態にある朕自身の存在( присутствие)の代わりに、招集されているからである (90) 。
第1章で触れたように、包括的な元老院職務規定は1718年12月に公布され、1722年4月に改正された。そして、いま引用した第10条は、1718年の段階でも第9条として全く同じ表現で存在した条文であった (91) 。このように継続的に用いられた表現は、元老院に対するツァーリの基本的な姿勢を表現しているものと思われる。それは、元老院をあくまで「ツァーリの代替物」として考えていたということである。さらにこの条文から判断する限り、この代替の機能とは、単純にツァーリの業務を代行するのみならず、彼の人格的権威をも代替することを意味したと言えるのではないだろうか。
同じく、元老院によるツァーリの人格的権威の代替の原理を示しているように思われるのが、1722年の職務規定第12条である。これも全く同じ条文が、1718年の職務規定に第11条として含まれている。
元老院においては、いかなる業務も口頭で遂行されてはならず、全て文書で遂行されねばならない。何となれば、いかなる点でも朕の利益を全く損なわないよう、非常に荘重な態度の中で、あらゆる警戒心と慎重さを持つことが、元老院にとっては甚だ必要なのである。それゆえ、全議員は深刻な罪に至ってはならない。また朕にとって、いかなる点でも疑わしく見えないようにして欲しい。
この条文が求めるところは第一に、文書にすることで日常業務の詳細な証拠を残すことにあっただろう。この文書は、ツァーリが元老院の活動に問題点を見出した時など、調査の材料として用いられる可能性も持っていた。その意味でこの条文は、ツァーリによるエリート層への潜在的な不信感を表わしたものと言える。ただし第二に、元老院議員に「荘重さ」を求めた点には、元老院にツァーリの人格的権威の体現を求めるツァーリの意識も感じ取れるように思われる。元老院議員が「罪に至る」ことが、業務の単なる不履行を意味するのみならず、ツァーリの権威をも傷つけるものと捉えられたからこそ、「いかなる点でも」の表現が用いられたのではないだろうか。
こうした性格を持つ元老院職務規定を引用した事実は、エリート層の側でも、ツァーリの要求した権力図式をそのまま容認していたことを意味するように思われる。そしてピーサレフにも、元老院での口論を原因として平兵士への降格という厳罰が最高法廷により下されたことは、元老院の権威が、ツァーリによっても最高法廷を組織するエリート層によっても同様に重視されていたことを、示すだろう。
次いでCの部分に関し判決文は、退去命令に対するシャフィーロフの抵抗を、単なる元老院での命令違反に留まらず、1720年1月5日付けの勅令に対する「敵対行為」であったと宣言している。この勅令は、被告人と親戚関係にある判事( судья)が事件の審理に参加することを禁じるものであった (92) 。さらに判決文は、Bの部分と同様に、有罪の根拠を説明すべく法令の一部を引用している。それは、1722年4月17日付けの「民事法( права граждан-ские)の遵守について」と題された勅令の一部であった。この勅令は、法に対しロシア臣下・臣民がとるべき態度について、さらに元老院の法律関係の権限についてピョートル1世の求めるところを、他に類を見ぬほど顕著に示すものと思われるので、内容を追うことにしたい。
勅令の冒頭においては、従来のロシアで「世界中のどの地域にも存在していない」ほどに、法が遵守されていなかったこと、あるいは「トランプゲームにおいて組札と組札を選び合わせるように玩ばれていた」ことが非難され、その状況は現在も部分的に存続しているとされる。このピョートルの主張が妥当なものであるか否かは疑問の余地がある。しかし彼の用いた非常に激しいレトリック、また「民事法の厳密な遵守ほどに、国家統治にとって必要なものは存在しない」の文言などに、法の重視に対する彼自身の強い姿勢を読むことは可能であろう。
これに次いで、臣下・臣民が遵守すべき姿勢が以下のように指示された。
もし、それらの規約(регламент )の中に曖昧に見える事項があれば、あるいは明確な裁定が下されていないような案件があれば、そのような案件は遂行せ( вершить)ず、いわんや決定を下し(определить )てはならない。その案件について、元老院に抄本( выписка)を持ってくるべし。この場合、元老院は全参議会を招集し、前記の案件について考え、宣誓の下で解釈すべきであるが、しかし決定を下すべきではない。自らの意見を例として書き留めつつ、朕に言明すべし。朕が決定し署名する時に、この内容を印刷し規約に加えるべし。その後、この朕の決定に従って遂行すべし。もし朕が遠くに離れている時に、必要な案件が生じるなら、前に書かれているような形で実行しつつ、そして皆に対して実行するよう署名した後でも、朕から承認され、印刷され、規約に付加される時点までは、印刷してはならず、いわんや決して正文化し( утверждать)てはならない(93) 。
この表現から明らかなように、元老院とはあくまで諮問機関であり、立法機関ではなかった。他のヨーロッパ諸国の身分制議会が課税承認機能を認められ、さらにフランス高等法院が王令登録権を保持していたのとは全く異なり、元老院はツァーリの行動を拘束する権限を、法律上全く認められていなかったのである。
また上記の勅令は、法の立案・解釈・改正の権限が全てツァーリに帰することを定めており、これは、ロシア帝国が無制限専制国家であることを宣言したものと言えるだろう。ただし、これは法規定上の問題である。実態はどうであったのか。
法の解釈について次のような例がある。1721年3月7日付けの勅令では、「高貴な貴族( знатное шляхетство)」の未成年者のみに近衛連隊への入隊が認められた (94) 。すでに1714年2月26日付けの勅令により、近衛連隊で兵士として勤務した経験のない貴族を士官に任命することが禁じられていたため (95) 、その内容と合わせると近衛連隊の持つ特権的地位は明白であった。この特権を考えれば、近衛連隊への入隊資格は、エリート層にとって自らの立場を規定する重要な問題であったと言える。にもかかわらず当該業務を扱う陸軍参議会の側では、「高貴な貴族」の要件を独自には規定できなかった。それゆえ1724年11月の報告書の中で、高貴な貴族としての資格は所有農奴数に基づくのか官等に基づくのか、解決をツァーリに委ねたのである。これに対するピョートルの決裁はいずれでもなく、「有効性( годность)に従い判断すべし」であった(96) 。この点にも、ツァーリの決裁が臣下の上申に左右されるものではなかったこと、また臣下が実際に、ツァーリが法を独占する統治構造を了解しつつ活動していたことが示されているだろう。それと同時に、ツァーリの決裁を得ることで、初めて業務が確実性を帯びたのである。
先に触れた「民事法の遵守について」の勅令では、いかなる功績を誇る者であれ、「この勅令に違反する者があれば、国法の違反者および政府への敵対者として、一切の容赦なく死によって処断されるであろう」とされていた。この規定に従い、判決文ではシャフィーロフに対し、動産・不動産全ての没収、諸官位と勲章の剥奪と共に死が宣告された。しかし、この判決文に対するピョートル1世の決裁は、「実際の死を除いては、全てこの判決に基づいて遂行すべし。そして[シベリアの]レーナ Лена への流刑に処すべし」であった。このように、最終的な刑もツァーリの決裁があって初めて確定された。そしてそれは、エリート層による上申をそのまま採用するとは限らず、時にはツァーリの積極的な判断が介在するものとなったのである。ここにもエリート層からのツァーリの自立性が示されているだろう。ツァーリの決裁とは、ただ素通りされるような事務処理上の通過点ではなかった。
ここで、ツァーリによる司法権の行使の実態をさらに考えるため、シャフィーロフ事件の関係者の後日談を追うことにしたい。元老院での不適切な行動ゆえに有罪とされたピーサレフは、事件後しばらくして、没収された不動産と官等の返還を嘆願した。それに対しピョートル1世は、1724年5月7日に以下のような決裁を示した。
彼は元老院での無作法な悪態に対しては十分に処罰されており、[この点では]以前の官等( чин)にふさわしくなったであろう。しかし運河事業では[彼による]黙認と管理不行き届きがあり、それゆえ、この罪のために、自分で自分をそのような[復権の]措置にふさわしくなくしたのである。しかし、現在の祝典とシャフィーロフの摘発のゆえに、陸軍大佐の官等と没収された村落の半分とが与えられるであろう、と (97) 。
ピーサレフは事件時には准将の官等を有していたので、この処遇は完全な復権とは言えない。しかし彼の功績に対し、ツァーリ個人の判断のみに基づき、若干の恩寵が向けられたことも事実である。また同日、「ピョートル・シャフィーロフの命令に従い、その弟ミハーイロへの給料支給に関する決議( приговор)を筆記したがゆえに、7年の流刑に処されてい」た前元老院秘書官キレーエフ Киреевについても、「解放すべし」と決裁された。同じ文書にはキレーエフ同様、他に10人が赦免を嘆願している旨が記されているが (98) 、その中でピョートルがキレーエフのみを釈放した点は注目される。これらの点には、ツァーリの権限により執行後の刑に対しても修正が生じたこと、ただしそれは必ずしも機械的かつ無制限に波及したのではなく、ツァーリ個人による個別の判断に基づいていたことが示されていると言える。
次に時期を若干さかのぼり、元老院によるマトヴェーイ・ガガーリン公の審理について検討することにしたい。この事件の審理過程も、シャフィーロフの事例と多くの点で類似点を示している。
1690年代に勤務生活に入ってより、ほとんどの期間、シベリア行政に携わってきたガガーリンは、1711年3月6日にシベリア県知事に任ぜられた (99) 。彼に対するピョートル1世の信頼は、ピョートルによる彼宛ての多くの書簡に見出される。しかしその一方で、彼による職務上の不正については多数の報告が寄せられていた。そのため1717年以降、近衛隊士官 И.ドミートリエフ=マモーノフ、И.リーハレフ Лихаревの管轄する捜査官署(розыскная канцелярия )により、調査が進められた。この結果、ガガーリンは1719年1月11日に県知事から解任され、捜査官署による監視の下に置かれることになった (100) 。最終的に捜査官署に対して彼への拷問が指示されると共に、元老院に対してガガーリンの審理が命じられたのは、1721年3月11日のことである (101) 。以下は、ピョートル1世による元老院への指令の全文である。
詐欺師(плут)ガガーリンによる諸事件は、あなた方が審理せねばならない。それらの事件は(何となれば、全部で千に留まらないので)重要であるが、とりわけ、すでにゆすり行為( лихоимство)を対象として公布されている諸法令の後で、彼はそれらを行ったのである。これらの事件に関する判決を、正義( правда)に従って下した後、私に送り届けるべし(102) 。
捜査官署による事前の捜査が存在したとはいえ、審理の開始を宣言し、さらに「あなた方が審理せねばならない」として元老院を法廷と定めたのはツァーリであった。この図式はシャフィーロフ事件と変わらない。先にも述べたように、捜査機関による調査活動と報告は、ツァーリにより採用されて初めて現実的な動きを生むことができたと言えるだろう。
同年3月14日にツァーリに提出された判決文には、当時の元老院議員10名の内9名が署名している。この判決文もガガーリンの8つの罪状を数えた後、勅令を引用するなど、シャフィーロフ事件の判決文と同様の構成を示した (103) 。この文で引用されたのは、1714年12月24日付けの「収賄・贈賄の禁止について」の勅令である。
この1714年の勅令は、官吏による金銭的な不正を弾劾したものであった。判決文で引用された箇所とは異なるが、興味深いのは冒頭の表現である。
朕は、この朕の法令を通じて宣告する。何となれば、ゆすり行為の数が増加した。それらの行為の中には、捏造された請負( подряд)や、すでに明るみに出ているような、請負捏造に類似した他の行動が存在する。これらの件について多くの者達が、あたかも自分を正当化しようとしながら、このような行動は禁止されていなかったと述べている。国家に対し害や損失をもたらす可能性があるものは全て犯罪である、ということを考えずにである (104) 。
臣下・臣民が真に、「このような行動は禁止されていなかった」という言説を利用していたとするなら、それは、当時のロシア臣下・臣民が罪刑法定主義ム罪は事前の法規定があって初めて罪と見なされるムを認識していた証拠と見なせるかもしれない。
他方で、このような勅令を改めて公布したピョートル1世の側には、罪刑法定主義という「形式」の重視の態度が明確に見て取れる。彼はこの勅令の中で、国益にとって賄賂が持つ犯罪性を指摘してはいるが、以前の法の不備を曲げ、それを遡及して刑罰を加えようとはしていない。後の部分に見られる、「詐欺師達が、今後いかなる口実も見つけられないようにせよ」との表現が示すように、あくまで問題としたのは今後の不正なのである。審理開始を宣告した1721年3月11日付けの指令が、1714年の勅令以降にもガガーリンによる不正が存続したことを強調しているのも、同じ意識を表わすものと言える。ちなみに近代国家研究で有名なG. エストライヒは、紀律化が客体のみならず主体をも拘束することを主張した(105) 。恣意的に法を利用する権力を持つピョートルが、一定の形式を遵守する姿勢を外に示さざるを得なかった状況は、このエストライヒの主張に合致するものだろう。
当時の最上層のエリートから成った元老院は、このツァーリの意識に近い姿勢を表わしている。ガガーリンに対する判決文の末尾において、1714年の勅令以前に生じた諸事件については、関係書類を下位の諸官署に差し戻すことを宣言し、それらの事件を元老院による審理の対象外としたのである。
このように、不正の一部が審理を猶予されたにもかかわらず、元老院はガガーリンに死刑判決を下した。1714年の勅令に記された罰則規定 (106) に従ってのことである。この判決に対しピョートルは、「元老院の判決に基づいて行うべし」と決裁した。この事例ではエリート層とツァーリとの判断は同じであったが、やはりツァーリの裁可があって初めて刑は確定したのである。その後、ピョートルにより同年11月25日、「マトヴェーイ・ガガーリン公を絞首台の輪索から降ろし、鉄製の鎖を作った後に、彼が現在つるされていたのと同じ絞首台の上で、その鎖に引っかけて吊り上げるべし」との指示がなされた (107) 。この表現から、3月21日の絞首刑の執行後、ツァーリの指令が出るまでの8ヶ月間にわたり、ガガーリンの遺体は放置されていたと考えられる。
罪人の遺体の処理までもツァーリの意思に依存していた例は、他にもある。近衛連隊士官М.А.マチューシュキンМатюшкинらが管轄する捜査官署で審理を受けている最中であった、元アルハーンゲリスク県副知事А.А.クルバートフ Курбатовが、1721年7月29日に死去した。マチューシュキンは同日、ツァーリのカビネット( Кабинет)秘書官アレクセーイВ.マカーロフ Алексей В. Макаров(?-1740) 宛ての書簡において、彼に対しツァーリへの報告を依頼すると共に、ツァーリからの今後の指示を要請している。その末尾に以下の表現が見られる。
かのクルバートフによる諸々の罪については、陛下には報告されていません。また、かのクルバートフに対しては、いかなる執行も行われていません。そして陛下の許可なしには、私には前記のクルバートフの死体を埋葬する権限がないのです( не смею)(108) 。
ガガーリンやクルバートフの事例は、司法上の決定権がツァーリに集中していた実状を表わしているだろう。さらに付言すれば、元老院による判決ではガガーリンに対し死刑のみが宣告されたにもかかわらず、1722年5月に出されたピョートル1世の2つの勅令からは、判決の要求を超えて、ガガーリンの資産の没収も実行されていたことが分かる (109) 。この点にも、ツァーリがエリート層の意思に拘束されなかった事実が示されている。
ツァーリと制定法との関係の在り方を検討する上で、先にも登場したカビネット秘書官マカーロフの関係した事件は重要である。
1704年から機能したカビネットは、本来ツァーリの私的な官房であった。しかし1710年代後半より大規模化する行政改革を背景に、ツァーリと臣下・臣民との間に交わされる文書全般の仲介・整理を担う機能を帯びて、次第に公的な重要性を増してきた (110) 。マカーロフは設立当初から常にカビネットの責任者を務めてきた人物である。
1724年11月、一通の「投げ文(подметное письмо)」、すなわち差出人不明の「密告」書がピョートルの手に届いた。その中では、重臣達、特にマカーロフがピョートルへの文書の伝達に際し情報を操作していたことが告発されていた (111) 。この投げ文という「密告」の形態については、すでに1715年1月15日付けの勅令により、「何らかの手紙を拾い上げる者があれば、その者は、決して手紙について報告せず、いわんや読んだり開封したりしないで欲しい。そして無関係の証人に打ち明けた後に、拾い上げた場所で燃やして欲しい」と命じられている (112) 。しかし書かれた内容を重く見たピョートルは、この投げ文の保存を指示した。ただしそれと同時に、白紙を入れる形で封筒のみ公の場で焼却させたのである (113) 。このようなツァーリの一見矛盾した行動様式には、@法規定を少なくとも形式上は遵守してみせようとする態度、その一方で、A不正が実在する可能性を無視できず柔軟な対応を図る態度、の2つを読みとることができる。ただし一定の束縛を認知しつつも、ツァーリが自分のよかれと思う手段を選択できた点に、ロシア帝国の統治構造の利点があったとは言えないだろうか。しかし結局のところ、このマカーロフへの疑惑は直後のピョートルの死もあって、それ以上、追及されることはなかった。
マカーロフの不正疑惑についてアニーシモフは、ロシア行政の官僚制化が一定程度進行したことにより発生した問題と捉えている。すなわち官僚の存在意義が増大し、ツァーリをも束縛するに至ったと見るのである (114) 。しかしむしろ、こうした不正がツァーリと臣下・臣民との接点に生じたことに留意すべきだろう。土肥恒之氏も述べているように、ロシア行政において、ツァーリと臣下・臣民との間に多数の指令・報告が交わされる状況があったからこそ、マカーロフの立場は大きなものとなったように思われる (115) 。マカーロフの事件は、君主が行政の核をなし、その運営で決定的な役割を果たしていたがゆえの産物であった。
エリート層の最上層により構成された元老院においても、ツァーリに対する極度の依存的姿勢は明白であった。以下ではさらに下層に範囲を広げて、他に、官僚によるツァーリへの依存はどのような形で生じたのか、またそのような官僚の姿勢を通じてツァーリによる権力行使がいかにして行われたのか、検討したい。ただし対象は膨大であり、網羅的な記述は不可能である。そのため、若干の特徴を提示するに留めておく。
クルバートフの遺体処理の事例に触れた時に登場した「私には権限がない」という表現、これは他の者達によっても使用されたレトリックであった。例えば、キーエフにおいて仕立て職人らによる軍服の仕上げを管理していたИ.サフォーノフ Сафоновは、当時の陸軍統率者の一人 А.Д.メーンシコフに対し、1708年9月9日付けで書簡を送った。その中でサフォーノフは、仕立て職人らが夜間の蝋燭代として賃金値上げを要求している現状を報告しつつ、「殿下の命令なしには、私には裁縫の賃金を追加する権限がありません」と述べている (116) 。自身で決定することに由来する責任を回避し、上位者に対して即座に「お伺いを立てる」傾向を見て取れるだろう。このような姿勢は、当時の実力者メーンシコフや陸軍元帥 Б.П.シェレメーチェフ Шереметев伯爵宛ての極めて多数の書簡に現われているが、そうした「お伺い」の連鎖は、時に途中の階梯を飛ばしながら、ヒエラルキーの頂点に位置するツァーリにまで及ぶ可能性を持つものであった。
ツァーリへの報告あるいは嘆願、それに対するツァーリの決裁という事務の流れを示す史料は、数多く見られる。そして、次の例は傍証としてではあるが、そこから、ツァーリが自身に宛てて直接送られてくる嘆願書の量を意識していたことを推測できる。すなわち1722年2月23日付けの請願局長官への通達において、以下のようにしてツァーリへの直接の嘆願が戒められている。
このことについては、1714年12月8日、1718年12月22日、1719年12月4日、1720年5月23日に元老院から公布された陛下の諸法令によって、公然と( в народ)宣告されている。しかしながら、陛下のそのような法令と操典( устав )を顧みず、多くの者達が、陛下の定めた裁判所と元老院を素通りして、自分達の厚かましい振舞いにより至る処をうんざりさせ、自分の嘆願書を陛下御本人に対し持って来ているのである。どこにも安息を与えずに (117) 。
実際にどれほどの嘆願が寄せられていたかは明らかでない。また直接嘆願の数自体が問題ではなく、上訴の制度化・組織化に主眼を置いていた可能性も強い。しかしツァーリが数度にわたり自粛を呼びかけた点から考えても、臣下・臣民がツァーリに対し直接嘆願を行う事例が一定数は存在したこと、またそのような精神状態が臣下・臣民に存在するとツァーリが認識していたことは確かだろう。
行政機構におけるツァーリの役割についてアニーシモフは、ツァーリから出された法令・書簡・決裁といった文書の数に注目した。彼によれば、1713-18年の期間と1719-25年の期間との間には、文書数の点で大きな差は見られない (118) 。1710年代末からの諸行政改革を経た後も、ツァーリへの直接嘆願を禁じるなど、上訴の過程について法規定の変化はあったにせよ (119) 、ツァーリの判断に依存しようとする行政機構の性格は存続していたと考えられる。
ツァーリに対する決裁の要求には、身分規定や人事に関わる重大な課題が存在する反面で、日常業務の具体的な手順を確認するような事例も存在する。1722年1月11日付けの報告書で、鉱業参議会議長 Я.ブリュースは以下のように記した。
皇帝陛下の指令に従い、諸造幣所( денежный двор)において、金貨から35、30、25、20、15、12[単位不明]のモデル用の型が作られ、また銀貨からルーブリに比した重さのものが作られています。
前記のメダルを何個、作るべきでしょうか。どの等級のものを何個、作るべきでしょうか。これらのメダルのために、どこから金銭を要求すべきでしょうか。それらの課題について、皇帝陛下の指令では定められておりません。
この報告に対しピョートル1世は、メダルの個数には触れていないが、メダルの形態や資金源について詳細な答えを返している (120) 。
また個々の官僚による生活状況の改善を求めた嘆願も、多様な形で生じた。一つには、誰かより没収されるなどしてツァーリの管轄下にあった土地・屋敷の下賜を請うものがある。1718年7月のシャフィーロフに対するレーヴェリの屋敷の下賜 (121) 、1722年4月のスコルニャコフ=ピーサレフとA.ウシャコーフ Ушаковに対するモスクワの屋敷の下賜(122) なども、嘆願に応じたツァーリの決裁により実施された(123) 。これと似たものとして、自分の俸給に関係した嘆願がある。1722年5月16日付けの勅令によれば、ソロヴィヨーフ Соловьёв兄弟(124) は「自分達は業務に割り当てられているが、生計手段がない」と述べ、俸給を与えてくれるようツァーリに嘆願している。この問題の背景としては、「参議会の成員達と下級職員達は、いまだ必ずしも全員が俸給を定められているわけではない」といった状況が存在した (125) 。同様に給料支給の不備の解決をツァーリに望んだ事例は、1724年7月21日の元老院への指令にも登場する (126) 。これらの例にも、ツァーリのイニシアチブに頼らなければ事態の解決の見通しが立たない、もしくはそのように臣下から認識されていたロシアの統治構造が、示されているだろう。こうした給料支給制度の欠陥を、18世紀ロシアにおける官僚制そのものの不在を主張するための根拠の一つとする研究者もある (127) 。ただし本稿が注目したいのは、そのように生計手段が存在しない時に、解決手段としてツァーリの恩寵に直接頼ろうとする官僚の側の姿勢である。
他にも、自分自身や親族の保釈・復権、没収された資産の返還を嘆願する事例などが存在した。当時のロシア貴族官僚は、具体的な職務遂行上の問題のみならず生活レヴェルにおいてまで、ツァーリによる絶対的な決定力に従属し、それを容認しつつ生きていたと言えるだろう。しかし、その行動様式が制度の変革を望むのではなく、あくまで個人的な救済を求めるものであったことは注目される。貴族官僚が個々に自身の境遇の改善を求める構造があればこそ、ツァーリは国内の細部の領域にまで権力を行使することが可能になったとは言えないだろうか。ピョートルが直接嘆願を戒めるなど官僚制機構の組織化を進める一方で、官僚の嘆願に対し個々に対応しているのも、彼がその有効性を十分に認識していたゆえであるように思われる。
最後に改めて論点を整理したい。第1に、ピョートル1世時代のロシアでは大規模な行政改革が遂行され、参議会による中央行政の再区分や監察官・検察官の新設による監査システムの整備が実行された。また諸機関のヒエラルキーや各官職の権限の明確化も図られており、ここにおいてロシアに包括的な官僚制的「装置」が確立されたと見ることは、誤っていないだろう。ただしその装置を担っていた集団が、例えばウェーバーの定義による「近代官僚」の性格を備えていたかは、別の問題である (128) 。また、時には形式上のものに留まったにせよ、法治主義を重視する姿勢もツァーリにより明示された。
しかしながら第2に、諸機関の設立や人事など改革の具体的な動きを実際に主導したのは、常にツァーリであった、という点である。そもそも、ツァーリのイニシアチヴがなければ行政機構は活動しなかった。このようなツァーリ専制の最大の特徴は、これら諸活動を進めるための手段となった法令に関し、立案・修正・解釈など全ての権限がツァーリの下に掌握されていたことにあった。行政令と並んで西洋近代法の両輪の一つをなす慣習法的規範 (129) がロシアには欠如していたことも、ツァーリによる法の独占に拍車をかけた。
アンシャン・レジーム期ヨーロッパ国家の統治手段の共通性に注目したラエフは、その共通像としてwell-ordered police state(紀律国家)のパターンを提示した。彼によれば、この統治パターンにとって行政令(Landesordnungen, Polizeiordnungen)の果たす役割、とりわけ社会的紀律化の推進の役割は重要であった (130) 。このような法令の持つ意義という点から見れば、well-ordered police stateのパターンはロシアの専制的な体制にも非常になじむものであったと言えるだろう (131) 。ピョートルの時代、前代と比べ格段に法令の数は増加し(132) 、それらは臣下・臣民の生活や活動の細部に及んで紀律化の手段となった。むろん、これらの法令には、ツァーリの権限を侵食するような規定は現われなかった。人事についても上層では、ツァーリの介在を無視することは法制上不可能であった。
第3にエリート層の側でも、自らの身分的特権に対する確固とした認識や主体性は弱く (133) 、ツァーリの無制限な権力を容認、あるいはそれに依存していた、という点である。貴族官僚は裁量権を限定され、逐次指示をツァーリや上位者にあおぐ姿勢を見せた。こうした状況は、ウェーバーが「純技術的に見て最も優秀である」とした「近代官僚制」の姿 (134) とは全く異なっており、個々の場面では活動の効率を削いだ可能性も高い。しかし、全体的には行政の統一性を約束するものになったと言えるだろう。そして彼ら貴族官僚は、ツァーリとの個人的紐帯の形成を望んでいた。これは彼らへの個別の対応を通じ、ツァーリが国内の全領域に自分の権力を浸透させることを可能にすると共に、ツァーリとエリート層との一体性を育んだのである。
ピョートル1世時代のツァーリとエリート層との関係について言えば、ピョートルに対して、エリート層を含め当時のロシア臣下・臣民に広く不満が見られた、とするクレイクラフトのような意見もある (135) 。しかしエリート層の不満は、ピョートルによる諸戦争の開始や諸改革の遂行に対する抵抗の動きを、組織的な形で生むことはなかった (136) 。むしろ、そのような不満が潜在的に存在したとしても、彼の時代にロシアが対外戦争に勝利し国内改革が実現されて、西欧諸国に伍するような「大国」と化すのに成功したことは事実である。ロシア国家は十分な凝集力を維持できていたと言えるのではないだろうか。西欧に見られたような、官職保有者と在地エリートとの対立が存在せず、ツァーリを核としてエリート層が結束していた編成こそ、19世紀以降もロシア帝国が「大国」として機能する際に不可欠の要素であった (137) 。これがロシア帝政の持った意義の第一であろう。
帝政の意義の第二は、ツァーリがエリート層の利害や意思に拘束されなかった点にあるだろう。先に述べたwell-ordered police stateも社会構造の異なるドイツの産物であったが、ツァーリの専制権力があってこそ、彼が有効性を意識するや即座に模倣が行われたと言える。「専制」という語は君主個人の恣意を想起させるものだが、むしろツァーリの無制限の権力が、ad hocに設立された最高法廷に代表される諸事例において、柔軟な対応を可能にした点は、これまで検討してきた通りである。また、ツァーリ政府の外交政策に対するエリート層の態度を分析したジョーンズは、エリート層が自分の利益を「国益」と見なす利己的な姿勢を持っていたこと、むしろツァーリの対外方針の方が、巨視的に見れば国家と国民の利益を考慮したものであったことを指摘している (138) 。
ただしツァーリが、自ら公布した法により拘束されたこと、例えば、罪刑法定主義の姿勢を示したり、少なくとも法規定に記された「形式」は遵守しようとしたり、といったことも事実であった。これは、ツァーリによる無制限の恣意を抑制する効果を持ったと言えるだろう。ここには、恣意と不合理とが支配するツァリーズムというイメージではなく、「公共善」の追求を旨とする独自の理性に従って作動するような「機関としてのツァリーズム」の形成を見ることはできないだろうか (139) 。ちなみに、18世紀ロシアに関してしばしば問題視されてきた寵臣政治について言えば (140) 、それはツァーリの専制権力に基づく人材登用の一形態であり、またツァーリ個人の能力が乏しい時にも、この機関を有効に機能させる働きを持っていたものと解釈できる (141) 。
以上、ロシア帝国において君主権力が果たした強固な役割に注目して述べてきた。ただし、その体制がアンシャン・レジーム期の西欧と同様に、あくまで官僚制的装置や社会的紀律化を利用して初めて機能していたことも、また確かである。それゆえ、英仏などに比べて相対的に君主権力が伸長した状況下で、官僚制的装置をそのような君主権力が包括的に統御した一つの形として、ロシア帝国の体制を見ることもできるように思われる。それと同時に、我が国の西欧に関する最近の分析でも、王権からの自立性の根拠とされるエリート層の地縁性を疑問視したり
(142)
、地方行政における王権の役割を再評価したりするような研究(143)
が出てきており、従来ロシアとの相違点とされた特徴、とりわけ君主権力と統治構造との関係について見直しが進みつつある。この現下の課題を検討する上で、ロシアの事例は示唆的な意味を持つであろう。したがってフランスに代表される西欧とロシアのアンシャン・レジームを、具体的な現われは様々だが、官僚制的装置を活用した同類の支配体制として、同じレヴェルから捉え直すことも十分可能であると言えるのではないだろうか。