SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

出稼ぎと財産と世帯分割
−農奴解放から革命までのロシア農民家族に関する最近の研究 −
青 木 恭 子

Copyright (c) 1998 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.
はじめに
1.「ロシア改革期農村の家族と家族慣習」
2.出稼ぎと家族
3.財産所有と世帯分割
おわりに


はじめに
  1861年の農奴解放から革命までのロシア農民家族については、同時代の法学者、民族学者、歴史家、経済学者などが各々の専門に応じて様々な方向から 研究してきた。C.B. パフマンの慣習法の研究(1877〜79年)(1)、A.エフィメンコの民族学的な農民研究(1884年)(2)、Д. Н.ジバンコフの出稼ぎに関する一連の研究(1890〜1900年代)(3) などはその代表であり、これらは現代の研究者にとっての貴重な史料でもある。しかし、1917年のロシア革命以降、革命前の農民家族に対する関心は急速に 薄れ、M. O.コスヴェンの家族共同体論(1963年)(4)な ども例外的に見られるとはいえ、概して1920〜60年代のソ連の歴史学においては、農民家族史や農村の慣習に大きな注意を向けていた革命前の研究者の伝 統は、ほとんど失われた。  
 こうした状況は1970年代になると変化を見せる。農奴制時代の農民家族に関して、Н. А.ミネンコの西シベリア農民家族研究(1979年)(5)、B. A.アレクサンドロフの慣習法研究(1984年)(6) などが出てくる。さらに、М. М.グロムィコの『19世紀ロシア農民の伝統的な行動規範と交流形式』(1986年)(7)、伝統的農村 社会における若者の役割や機能に関するT. А.ベルンシュタムの研究『若者たち − 19世紀から20世紀初めのロシア共同体における儀礼生活』(1988年)(8)、グロムィコらが編集した論文集『ロシア人 − 家族と社会の慣習』(1989年)(9)、 19世紀末を中心に農民の精神世界まで踏み込んだグロムィコの『ロシア農村世界』(1991年)(10) などが挙げられる。ただしこれらの研究はどちらかといえば「民族学」に分類されてきた。すなわち、ソ連時代には「家族生活の問題は伝統的に専ら民族学者の 関心事であり、歴史家の研究領域ではなかった」(11) のである。  
 欧米では、1978年に論文集『帝政ロシアの家族』が出版されている。農奴制時代のある特定の村の農民家族を歴史人口学の手法を用いて分析したのが、 Р.ツァプ(1978年(12)、 1982年(13)、 1983年(14))、 R. D.ボハク(1985年)(15)、 S. L.ホック(1986年)(16) である。ホックはまた19世紀後半の農民の生活水準や人口統計に関する論文も書いている(1994年)(17)。解放後 の農民家族に関する総合的な研究としては、C. D.ウォロベク『農民のロシア − 農奴解放後の家族と共同体』(1991年)(18) が挙げられる。この研究は、19世紀後半中央部ロシアの農民家族と農村共同体の問題に焦点を当て、解放後に顕著となった変化よりもむしろ農民社会の伝統に 重点をおき、マクロ的な視点から普遍的で伝統的な農民像を提示している。  
 ほぼ時を同じくしてロシアの歴史家も家族の歴史を扱うようになる。特に注目すべきはИ. Н.ミロゴロワである。ミロゴロワは博士候補論文「1861〜1900年ロシア改革期農村の家族と家族慣習(中央部諸県の史料に基いて)」(モスクワ大 学、1988年)(19) で解放後のロシア農民家族を分析している。この論文は、統計資料と民族学的記述の両方を用いて農民家族の歴史を様々な側面から総合的に捉えており、ヨー ロッパ・ロシアの本格的な農民家族史研究としてはおそらく最初のものである。また、B. A.フョードロフは「ロシア農村の母と子」(1994年)(20) で、帝政末期のロシア農民女性の妊娠、出産、農村医療の実態と村の産婆の役割、生まれた子の洗礼や教育などについて書いている。そこではテーニシェフ公爵 の民族学ビューローの行ったアンケート調査(テーニシェフ・アルヒーフ)(21) を史料とし、統計資料を裏付けとして用いながら、具体的に記述している。  
 本稿では、このミロゴロワの学位論文を中心にし、そこで提起された問題に関連するいくつかの研究を取り上げることによって、ロシア農民家族史研究の現状 の一端を紹介したい(22)

1.「ロシア改革期農村の家族と家族慣習」
  ミロゴロワの学位論文「1861〜1900年ロシア改革期農村の家族と家族慣習」は総頁数328頁の大著である。第1章「1861〜1900年中央部 ロシア諸県の農民家族の類型と経営」は3節に、第2章「農民家族における個人的関係と財産関係」は4節に分けられる。  
 史料として最も多く用いられているのは、統計資料以外では「テーニシェフ・アルヒーフ」である。この調査が行われたのは1897年から1900年、すな わち「農村に商品・貨幣経済が集中的に発達した時期」であり、それ故に「その影響下で形成された農民家族慣習の新しい特徴について」(23) の情報が得られる。その他の史料として、慣習法の記録、郷裁判所の記録、地方の定期刊行物、民衆を直接観察した知識人の著作、口承文芸作品なども用いられ ている。  
 改革期のロシア農民家族は、家父長制の伝統と、新たな商品・貨幣経済との「相互作用と相互浸透という特殊な状況の中で」(24) 変化していた。ミロゴロワの研究の目的は、「家父長制の伝統が崩壊し、資本主義的生産様式に特有の新しい関係が発達した時代の、農民の日常的家族生活の最 も重要な側面を解明すること」(25) である。中でも特に重要な側面が経済生活の問題であり、財産所有関係、および財産の分割と相続秩序である。「家族内部の関係、特に世帯の枠組みで個人の置 かれている状況が、世帯財産関係のプリズムを通して明らかにされる」(26) としている。またミロゴロワは中央部ロシアを工業地域と農業地域に分け、両者を比較することによって「商品・貨幣経済が農民家族に及ぼした影響の度合」(27) を明確にすることを試みている。同じ時代のほぼ同じ地域の農民を対象としながらも、ウォロベクの『農民のロシア』が家族生活の様々な側面にみられるいわば 「伝統の力」を解明しようとしているのに対して、ミロゴロワはそれらの側面に生じた「変化」に重点をおいて論じている。  
 豊富な事例とデータから論証しているミロゴロワの主張は、以下のように整理することができよう。 (1) 農奴解放の結果農民世帯の経営が悪化し、副業収入を求めざるを得なくなった。 (2) 副業に従事することによって、農民世帯内部の伝統的な役割分担も変化せざるを得なくなり、成員個人の地位も変化した。 (3) 副業収入が、世帯全体の共有財産とは別の個人所有財産の発生と発達をもたらした。 (4) 個人所有財産の発達は世帯の成員同士の関係にも影響を及ぼし、家長の権威と権力を低下させた。 (5) 個人所有財産の発達により、世帯分割が可能になった。 (6) 個人所有財産に関しては慣習法の規定がないため、相続慣行に民法の規定が取り入れられるようになった。  
 次に、ミロゴロワの議論をもう少し詳しく紹介していきたい。  
 第1章の第1節「農民家族の規模と世代構成」では、まず「大家族/小家族」という分類法の定義から始めている。「小家族」とは「子のいない夫婦、もしく は幼い子供か未婚の成人した子のいる夫婦単位」で、「夫婦と既婚の息子が1人」の家族が含まれる場合もある。「大家族」とは「父親がいてもいなくても、既 婚の息子が2人以上一緒に暮らしている世帯」のことであり、「非分裂家族」あるいは「家父長制大家族」とも呼んでいる。ミロゴロワは、世帯の人数が5〜6 人で男性労働力が1〜2人の世帯は主として「小家族」であると推測し、それが農奴解放後の時代に優勢であったとしている。工業地域と農業地域を比較する と、工業地域よりも農業地域の方が世帯の平均人数が多く、男性労働力3人以上の世帯の割合も高かった。それでも、19世紀末にかけて両者の差は縮まりつつ あった。  
 農民世帯の経営悪化と副業収入について論じているのは、第2節「1861年の改革以後の農民世帯の経済的状況」である。解放によって農民の分与地の不足 が生じ、副業収入の有無が農民世帯の経済状態を左右していた。ごく少数の裕福な世帯だけが農業のみで生計を立てられたが、大多数の世帯は農業生産だけでは 生活できず、副業収入を求めることを余儀なくされていた。副業収入が家計に占める割合は、裕福な世帯よりも貧しい世帯の方がずっと高く、貧しい世帯ほど副 業に依存せざるを得なかったことを示している。  
 第3節「世帯内の労働分担」では、農民世帯における伝統的な役割分担、および農村における資本主義の発達によってそこに生じた変化について述べている。 「家長」も「主婦」も、単なる年齢順による資格ではなく、変化しつつある状況に応じた経営能力によって選ばれるようになっていた。出稼ぎの発達は、農民世 帯における男女の伝統的役割分担も変化させた。男性の長期間の不在は、女性の労働領域拡大を必然的にもたらした。出稼ぎが発達した村の女性は、伝統的に男 性がしてきた労働もすべてこなし、農業中心の地域の女性よりも自立し、独立していた。  
 第2章では財産関係から論じている。第1節「改革期ロシア農村における家族共有財産と個人所有財産」では、世帯全体の共有財産とは別の個人所有財産の発 生と発達について述べている。伝統的に農民世帯の財産は共同所有制が原則であった。それとは別に、慣習では女性に嫁資などの個人所有財産が認められてい た。原則として息子には財産権がなかったが、自力で獲得した財産の個人所有が認められる場合もあった。出稼ぎに出た息子は賃金をすべて世帯に納めなければ ならなかったが、必ずしもそうはしなかった。こうして世帯の共有財産とは別に男性成員にも個人所有財産が形成され、世帯共有財産の唯一の管理者である家長 の家父長権力を破壊し、家父長制大家族の崩壊をもたらした。また、個人所有財産は世帯分割後の「小家族」が独立して経営を行うための基盤ともなった。  
 個人所有財産の発達が世帯の人間関係に及ぼした影響については、第2節「農民家族における個人的相互関係」で述べられている。世帯内の個人的な関係の領 域には家父長制度の家族慣習がまだ根強く残っていたが、それでも新しい傾向が見られる。農民の慣習法では、夫婦には同居義務があり、離婚は認められなかっ たが、合意の上での別居は可能だった。出稼ぎの発達により世帯における女性の立場が強くなり、女性に経済力がついたことで夫婦の別居生活が現実のものと なった。また成員の個人所有財産の発生と発達により、家長の権威は低下し、成員の権利が拡大した。  
 農奴解放後に農民世帯分割が急増した。第3節「19世紀後半の農民経済における資本主義の発展を反映するものとしての家族分裂」では、個人所有財産の発 達により世帯分割が可能になったことについて論じている。家族分裂の動機は、例えば女性同士の争い、住居の狭さ、家長の専制、家庭不和など様々であったと 推測されるが、このような「主観的な分裂志向」が実際の世帯分割に至るためには、そのための「客観的条件」が必要であった。それは経済的に独立できること であり、主として出稼ぎおよび副業収入によって可能になった。世帯分割が必ずしも貧困化にはつながらなかったことは、同時代の研究者も指摘している。その 理由を、ミロゴロワは農民の自立心に求めている。独立することによって他者(家長)の経営方針に支配されなくなり、自立心が家族を零落から救ったという主 張である。農民の貧困化は農村に資本主義が侵入した結果であり、家族分裂が増加する以前から農民経済の衰退は進行していた。家族分裂とは新たな経済状況に 家族を適応させるものであり、「農民経済の発展のためには進歩的な現象であり、家父長制大家族の崩壊という後戻りできない過程を意味していた」(28) としている。  
 第4節「改革期農民家族における財産相続慣習」では相続慣行について論じている。世帯の共有財産の相続は慣習法で規定されていたが、個人所有財産に関し ては公式の民法(29) に従って遺言状を作成する例も増えていた。共同体が経済的な配慮から遺言状の内容に干渉することもあった。相続に関しては、慣習法は成文法に次第にその地 位を譲りつつあったが、両者の関係は地域ごとの経済状況や経済発展の条件などによって様々であった。工業や出稼ぎが発達した地域では、農民の財産関係が複 雑で相続慣行も変化に富んでいたが、出稼ぎの少ない農村では伝統的な規範が容易に観察できた。  
 ミロゴロワの見解では、19世紀後半資本主義は農民家族関係の中に有無をいわせず侵入した。確かに「30〜40年間の資本主義の発達では、何世紀もかけ て形成された家族慣習のすべての側面を強くゆるがすことはできなかった」(30) が、それでも新しい家族慣習を生みだした。世帯の成員が外部で収入を得られることが、家長の権力と権威の失墜をもたらし、家父長制大家族の崩壊へつながっ た。当時のロシア全体の社会的・経済的な変化が農民家族に及ぼした影響は、工業地域では強く農業地域では弱かった。また財産関係には強く現われていたが、 農民の伝統的な見方や概念への現われ方は弱かった。  
 ミロゴロワの研究の優れた点は、ロシア社会全体の社会的・経済的な変動の中に、農民家族に起きた変化を位置付けていることである。伝統的な家父長制の崩 壊も、必ずしもすべて否定的に捉えるのではなく、新しい状況に対応するものという見方もしている。女性も含めた成員の経済的機能や財産権の拡大、個人所有 財産の発生と発達を重視し、農民の自立心や独立心を視野に入れて論じている。  
 この研究は1900年までを対象としている。20世紀初頭から農村では「国が帝国主義の段階に入ったことを示すような過程が始まっている」(31) ので特別な分析が必要、というのがその理由である。このような時代区分が本当に適切なのか疑問は残る。少なくとも1900年以降の状況と比較すれば、さら に興味深い側面が見えてこよう。  
 以上のような、副業収入のもつ意味に重きをおいたミロゴロワの論旨を検証するために、出稼ぎの影響、および財産所有と世帯分割について、他の研究者の見 解を紹介したい。

2. 出稼ぎと家族
 出稼ぎの発達は農村社会および農民家族に変化をもたらした。ロシアの出稼ぎに関する代表的な研究としては、モスクワの労働者階級を扱ったR. E. ジョンソンの『農民とプロレタリア - 19世紀末モスクワの労働者階級』(1979年)(32)、女性工場労働者に関するR. L. グリックマンの『ロシアの工場の女性たち - 仕事場と社会、1880〜1914年』(1984年)(33) などが挙げられる。ロシアの出稼ぎには、他の多くのヨーロッパ農民社会の場合とは根本的に異なる特殊性がある。それは、高田和夫氏の出稼ぎ研究「近代ロシ アの労働者と農民 - モスクワ地方の労働力移動をめぐって」(九州大学法政学会『法政研究』第57巻第1号、1990年)でも、労働者と農民との境界を一旦はずすことによって 標準的なロシア労働者像を打ち出そうという視点が提唱されている(34) ように、ロシアの出稼ぎ農民の多くは出身農村とのつながりを保ち続けていたということである。最近でも、E.エコノマキスとR. J. ブライムの論文「ペテルブルグ労働者地区における結婚と闘争」(1995年)は、「今世紀初頭、多くのペテルブルグ労働者は農村に妻子を残し、定期的に 帰っていたということは否定できない。一部の労働者は農村で結婚し、しばらくの間首都で暮らし、やがて農村で配偶者と合流して永遠に暮らす、ということに 異を唱えることはない」(35) と断わった上で、ロシア革命前夜のペテルブルグには農村との絆とは別に労働者階級のコミュニティが新たに形成されていた、という議論を展開している。  
 副業収入への依存度が特に高かったロシア中央工業地域で、出稼ぎの急増が家父長制家族と農村共同体にとって意味していたこと、および出稼ぎの急増に対す る農村共同体の対応について論じているのが、J. バーズの論文「ロシアにおける農民労働者の社会的統制 - 1861年から1905年中央工業地域における出稼ぎに対する農村共同体の対応」(1991年)である。土地買い戻し金と税の支払いのために、農民は賃金 労働を求めざるを得なかった。出稼ぎの増加という現象は、伝統的な農村世界の深部に起きた変化を反映していると同時に、それ自体が「ロシア農村に変化をも たらす主な動因」(36) でもあった。農業と副業に並行して依存する農民世帯が増加することで、「完全に伝統的でもなく、完全に都市化もしていない『第3の』文化が生まれた」(37)。出稼ぎ は、国家、共同体、農民世帯の三者各々にとって深刻な脅威となった。家族の生活基盤が賃金労働に移行するのに従って、伝統的な家父長制度は次第に蝕まれ た。国家と共同体にとって、出稼ぎ農民が農村を放棄し義務を果たさなくなるのでは、という脅威は特に深刻であり、出稼ぎ農民と農村との絆を維持させ、賃金 を農村に還元させるために、罰則も含めた様々な対応をとった。世帯としては、婚姻による絆で出稼ぎ農民と残された家族とを比較的安定した世帯へ統合するこ とが、最も効果的な方法であった。  
 また、バーズは最近の論文「告発の文化 - 1860年から1905年ロシア農村における農民出稼ぎと宗教的破門」(1996年)(38) で、農村の伝統文化や価値観を守る制度として定められた村司祭による告発が、出稼ぎ農民に多く向けられていたことを指摘している。  
 B. A. エンゲルの著書『農地と都市の間で - 1861年から1914年ロシアにおける女性と仕事と家族』(1994年)(39) は、第1章では伝統的な農村社会での女性の生活を描き、第2章から第4章では出稼ぎが女性に及ぼした影響について、第5章から第7章では女性の都市への定 着にまつわる問題を、それぞれ扱っている。  
 その第2章「女性のサイド」では、コストロマ県ソリガリチ郡とチュフロマ郡を具体的に取り上げて、成人男性の大半が出稼ぎのため農村を長期間不在にして いる地域に見られる影響について論じている。ちなみにこの両郡は、前述したジバンコフの出稼ぎ研究『女の国』(1891年)でも取り上げられており、エン ゲルの議論もジバンコフによる観察を中心にし、そこに他の資料やデータを加えたものである。この地域では農村に残った女性が、伝統的には男性が果たすべき 役割や農作業まですべて担っており、そのことが農民世帯における女性の地位を向上させたと見ている。重労働ゆえに女性が婦人科系の疾患にかかることも多 く、出生数も少なかったが、乳幼児の死亡率は低かった。出稼ぎ中の家族との文通の必要もあって、女性の識字率もロシア農村全体に比べれば高かった。  
 ところで、出稼ぎの発達によって留守を守る女性の立場が強くなったことは、B. ファーンズワースの論文「訴訟する嫁 - 19世紀後半ロシア農村における家族関係」(1986年)(40) でも指摘されている。これは、郷裁判所の訴訟記録から農民家族関係を読み取るものであるが、侮辱されたり殴打された嫁が訴訟を起こすケースは、出稼ぎが発 達して女性が果たす役割が大きい地方に多く見られる傾向があり、貧しい農業地域では嫁の訴えそのものを郷裁判所が受け付けない場合が多かったという。  
 エンゲルは第3章「仕事に出る」で、ヤロスラヴリ県とトヴェーリ県を取り上げ、若い娘、寡婦と婚期を過ぎた女性、既婚女性の場合に分けて、女性の出稼ぎ に関して論じている。両県とも出稼ぎの多い県であったが、各々の経済的状況の違いが女性の出稼ぎ形態にも違いをもたらしていた。トヴェーリ県の方が貧し く、男性も低賃金の不熟練労働者としての出稼ぎが多かったので、生計を維持するために女性も出稼ぎに出ざるを得なかった。それに対してヤロスラヴリの方が 豊かであり、女性の出稼ぎ者数もトヴェーリほど多くはならなかった。ヤロスラヴリの女性出稼ぎ労働者の平均年齢は高く、寡婦と婚期を過ぎた女性が中心で、 その多くは都市に定住して農村には戻らなかった。それに比べてトヴェーリの女性は若く、都市には定住せず、嫁資を稼いで短期間で農村に戻る場合が多かっ た。  
 出稼ぎの発達が伝統的な農村社会に変化をもたらしたという主張の中には、「視野を広げ期待を高めさせるような都市生活の経験」(41) も考慮されている。とはいえ、農村の工場で働いている場合でも、伝統的な家父長制度の変化は起きていた。第4章「農地と工場の間で」では、コストロマから ヴラジーミル県にかけての織物工業地域を対象とし、農村での工場労働が家父長制農民家族と女性の人生に及ぼした影響について論じている。工場が農村に隣接 していることは、工場労働者が農民世帯と緊密な関係を維持できるということでもあり、そのため農民の生活様式には最小限の影響しか及ぼさなかった。婚姻率 と結婚年齢に関して言えば、そこにはロシア農村に典型的な、早婚かつ皆婚というパターンがみられた。それでも現金収入は農村生活に影響せずには済まなかっ た。女性の賃金労働は、夫の妻に対する権威を低下させた。若い夫婦の収益力は、世帯の中で占める彼等の地位を向上させた。工場での賃金は下位の男性の利益 になるように「ある程度家父長制を民主化した」(42) のである。  
 ところで、ロシア農民の出稼ぎ自体は農奴制の時代から広く見られる現象であった。エコノマキスの論文「革命前夜のペテルブルグにおける移動と定住のパ ターン - ヤロスラヴリ県とトヴェーリ県出身の農民」(1997年)では、両県の出稼ぎの違いを農奴制時代の伝統にさかのぼって分析している。農奴制時代、ヤロスラ ヴリの地主は農奴をペテルブルグへ熟練労働者として送り出し、地代を稼がせてきた。ヤロスラヴリ出身者は、主に「商人、レストランや宿屋の従業員、仕立て 屋、市場向け野菜栽培業、暖炉工、左官」(43) など、熟練した技術を必要とする高レベルの職についていた。一方トヴェーリ県は古くから交通の要衝で、ペテルブルグとモスクワを結ぶ幹線にも位置してお り、商業や輸送の中継地点として発達していたが、地場産業の発達は遅れていた。トヴェーリの農民は、幹線を移動する運搬人に食料などを供給したり、また自 ら運搬人として働くこともあった。すなわち、彼等が主に携わっていたのは、技術を特に必要としない、地元での仕事だったのである。ところが、農奴解放後多 くのトヴェーリ農民は「産業革命が鉄道と蒸気船という形で農村を見舞ったとき」(44) その仕事を失い、知識や技術もないまま、低賃金の不熟練労働者としてペテルブルグに流入した。その一方で、ヤロスラヴリ農民の出稼ぎ形態は解放後も基本的 に変わらなかった。彼等は農村との強い絆で結ばれており、その多くは家族を農村に残していた。それに対してトヴェーリ農民の場合は事実上農業を放棄する場 合も多く、家族ぐるみで移住し、農村の「不在世帯」の割合も高くなった。家族旅券や女性への旅券発給数が急増したことからも、トヴェーリ農民の農村との絆 の断絶が明らかになる。  
 この論文は、伝統に由来する「違い」を強調し、すべてをそこに集約させている印象がないわけではない。それでも、地域ごとの出稼ぎの伝統や職種の違いを 考慮すること、そして出稼ぎ者と農村との絆が維持されているか否かを見ることが、出稼ぎが家族生活に及ぼした影響を考える上で重要であることを明らかにし ている。

3. 財産所有と世帯分割
 ロシア農民世帯の財産が家族全体の共同所有制に基いていたことは、ほぼ例外なく共通認識となっている。同時に個人所有という概念も慣習の中に存在してお り、世帯の共同所有財産とは別に、女性には個人所有財産があった。T. シャーニン「農民世帯 - 世紀末ロシア」(1987年)では「農民の慣習法は『女性の財産』という例外をもうけていた。それは刃物類、布類などが含まれていた。『女性の財産』は、 農民世帯の中で『都市的な』意味で唯一の私有財産であった」(45) としている。グリックマン「女性と農民共同体」(1990年)でも「従属と仕事に対する見返りとして(中略)女性は自分の嫁資と収入を管理できることで報 われていた」と述べられている(46)。 また肥前栄一氏の論文「帝政ロシアの農民世帯の一側面 - 女性の財産的地位をめぐって」(『広島大学経済論叢』第15巻3・4号、1992年)では、農民世帯の基本的特徴について述べた上で、エフィメンコの記述 から女性の財産的地位について紹介している(47)。  
 慣習で認められた女性の財産とは異なり、男性の個人所有は慣習の枠外にあった。グリックマンが「女性だけに個人所有財産を持つ権利があったということ も、出稼ぎが増加して男性も賃金や財産を抱え込めるようになると、それは女性だけの権利ではなくなった」(48) と書いているように、アレクサンドロフによると「都市で手工業や商業に従事することで農村の外に出現した財産が、個人所有という概念の発達を促した」(49) のである。O.Ю. ヤフシヤンの「ロシア農民のメンタリティにおける所有」(1996年)(50) の議論でも、共同所有制と女性の財産はロシア農民のメンタリティの中に位置付けられているが、成員が世帯の外で築いた財産はその枠外である。  
 世帯分割という現象を読み解く際には、農業経営に不可欠な世帯の共同所有財産と、出稼ぎや副業によって生じた個人所有財産という、本質的に異なる2種類 の財産の存在を考慮すべきである。共同所有財産は世帯分割の際に男性成員間で平等に分割された。個人所有財産は分割後の世帯にとって実際の経営基盤となっ た。そこにさらに私的な事情や動機も考え合わせる必要がある。これらのことを念頭においた上で、これまでの世帯分割論を概観したい。  
 ロシア語で家族分裂を表わす言葉は複数あるが、各々が意味する分割の形態には違いがある。ミロゴロワの定義では、次の三つに分類される。 (1) 「全体分割」あるいは「分割」 (общий раздел,раздел)。兄弟全員が一度に分裂し、世帯の全財産が残らず分割される場合で、家長の死後の場合が多いが、存命中のこと もあった。 (2) 「分家」 (выдел,отдел)。家長が既婚の息子に世帯の財産の一部を与えて独立を許可する場合。 (3) 「離脱」 (отход,уход)。家長の意向に反して息子が勝手に独立する場合。その際、世帯の財産から何も分与されなかった(51)。  
 農奴解放後、農民の家族分裂が急増し、そのことが当時の知識人や政府関係者の注意をひき、彼等の間に危機感を呼び起こしていた。1870〜80年代には 知識人の間で農民世帯分割をめぐる論争が活発に行われた(52)。 現代の研究者もこの世帯分割の急増という現象を視野に入れ、各々の議論の中で言及している。例えば、M. レヴィンの慣習法の研究(1985年)によると、世帯分割や分家に関しては民法では扱われておらず「慣習法だけによって支配されていた」(53)。B. ミローノフ「1860年代の改革後のロシア農民共同体」(1985年)は、共同体が果たしていた機能や役割を解明し、それが厳しく伝統を守ることで新たな 状況に適応していたと結論づけているが、出稼ぎ農民に特に顕著に見られる「個人主義」の感情が「世帯財産分割の増加を引き起こした」(54) ということにも触れている。グリックマンの「女性と農民共同体」では、「世帯分割を扇動するのは普通女性である、と農民が主張したのは不思議ではない。と いうのも、それこそ女性が従属する人間の数を減らす唯一の方法だったからである」(55) としている。D. アトキンソンの農民社会の平等主義に関する研究(1990年)では、世帯分割の際の「家族の土地の平等な分割という慣習は、共同体の土地の平等な割り替え が時々行われるという発想を受け入れる文化的コンテクストを準備した」(56) と述べられている。  
 単に言及するだけではなく、世帯分割について正面から論じているのがC. A. フライアソンである。その世帯分割研究は、それが農民家族にとって、さらに農村共同体にとってどのような意味をもつ現象だったのか、ということを解明する ものである(57)。  
 フライアソンの「世帯分割 - 分けられた農民家族」(1987年)では、解放後の時代、農民世帯の内的原動力という観点から、いつ、どのように、なぜ世帯分割が行われたかを検討してい る。そして分裂を求める動機を与えた世帯内部の要因(女性同士の不和、核家族とそれを含む拡大家族全体のライフサイクルの不一致など)、そのような行動を 可能にした外部の要因(出稼ぎ労働で得た現金収入と独立精神など)について論じている。フライアソンの結論は、 (1) 世帯分割は、確かにその時期と頻度は農奴解放後の時代に特有の社会的・経済的発展を反映しているが、解放後に出現した新しい現象ではない。 (2) 世帯分割の原因についての説明を、経済的要因のみに求めるべきではない。それは、個人的な問題にも同じように関連して生じる。つまり「大家族」の誰か(普 通は下位の男性)が独立しようと決めた時に世帯は分割されるのである。すなわち、同時代人の眼にはどれほど大きな脅威と映ろうとも、世帯分割は帝政末期の ロシア農村家族生活のサイクルにおいては普通の要素であった。ただし、「分家」の習慣が元来存在しなかった地域での分家の発生、あるいは「離脱」の頻発に 対しては、「農村社会の経済と社会秩序の両方に対する脅威」(58) という見方がされていたことも指摘している。  
 フライアソンのもう一つの論文「農民世帯分割と共同体」(1990年)は、世帯分割が共同体にとってもつ意味を考えるものである。農村社会で「大家族」 を優勢にしていたのは、分裂を求める遠心力に対抗する三つの強い力、すなわち国家や地主の権威、共同体の権威、家長の権威であったが、解放後これらの対抗 力が弱まった。しかしフライアソンは「家族分裂が各々の世帯における家父長制原理の衰退の原因であり兆候であったかもしれないが、農村共同体がこの現象に 苦しんでいたようには見えないのである」(59) としている。  
 ウォロベクの『農民のロシア』でも、世帯分割については多くの頁数を割いている。まず第2章「家族の再生産 - 財産相続慣行」で、家長の死後の世帯分割、生前の分家の二つの場合の相続慣行について触れている。第3章「家族のライフサイクルと世帯構造」は、家長の死 後の家族分裂を家族のライフサイクルの中に位置付けるものである。ウォロベクは解放後に世帯分割が急増したことを認めながらも、それは地主による規制の廃 止、徴兵制度の改革、人口増加などの結果であるとし、「核家族は家族のライフサイクルの暫定的な一段階に過ぎなかった」(60) としている。前にも触れたように、この『農民のロシア』は「伝統」に重きをおいた研究である。しかも、ここで家族分裂の事例研究として重点的に取り上げて いるのは、変化の度合が比較的少ないとされる農業地域(ヴォロネジ県)である。すなわち、ウォロベクは「伝統」の枠組みの中に家族分裂を位置付けているの であって、農奴解放後の時代に起きた何らかの重大な変化を反映している現象という捉え方はしていない。  
 確かに、農奴解放後の時代に農民家族に起きた変化の度合をどのように捉えるかは研究者によって様々であり、その是非は一口では言えない。「農民の民衆文 化とソヴィエト権威主義の起源」(1994年)の中でミローノフは、出稼ぎの発達や工業化が19世紀末から20世紀初頭にかけて農村社会に大いに影響を及 ぼし、その結果家族関係の「民主化」にまつわる変化が生じたことを認めながらも、「このような変化のレベルを誇張したり、また変化が農民層全体に影響を及 ぼしたとするような研究者には同意し難い」(61) と書いている。その一方で、新しい時代における個人としての農民の独立心や自立心を重視する見方もある。О.Н. ブルジナは『1861年から1907年ロシアにおける贈与地農民』(1996年)で、農奴解放を「独立して自分の人生を作るという困難な課題」を農民に与 えたものと捉え、解放の際に土地を無償で贈与されることを選んだ農民について、その際の選択を「個人としての自己実現への第1歩」(62) という従来と異なる位置付けをしているのである。

おわりに
  最後に、用いられる方法や史料の問題に関して若干述べておきたい。まず最近の傾向としては、既に述べたエンゲルやエコノマキスの研究に見られるよう に、農民層全体を一般化して論じるよりもむしろ地域を限定し、その地域の特徴から社会全体の変動を読み取るものが多い。新しいところでは、ジョンソンの 「家族のライフサイクルと経済的階層分化 - ロシア農村の事例研究」(1997年)(63) は、コストロマ県の織物工業地域で1909年に行われた107世帯634人に関する調査(64) (成員全員の年齢、性別、識字、続柄、生業など)に基いて、古典的な農民層分解論を人口学的な観点から再検討するものである。また、これまで歴史家が積極 的に利用してこなかった史料が大いに注目を集めるようになった。その代表が「テーニシェフ・アルヒーフ」であり、ミロゴロワやフョードロフのみならず、欧 米の研究者でそれを史料として活用する例が増えている。例えば、グリックマン「農村の『異常な状態』」(1996年)(65) は、ある一人の通信員を特定し、彼の報告からある特定の村の農村社会や農民家族を再現している。フライアソンの「『私は常に法に答えねばならない…』改革 された郷裁判所におけるルールと対応」(1997年)(66) では、罪と罰、慣習法、郷裁判所などに関する部分が用いられている。  
 農奴解放後のロシア全体の社会的・経済的な変化は、家族レベルでは出稼ぎの増加という現象の中に見られる。出稼ぎは農村社会や農民家族に様々な影響を及 ぼした。その一つの現われが、世帯分割という現象である。特に家族の領域は、「客観的」状況の分析のみで解明しきれるものではない。私的な事情、および個 人としての農民の独立心や自立心といった「主観的」意志を考慮する視点も、そこに絡ませる必要がある。このような視点から19世紀後半の農民の歴史を再検 討する試みが、前に挙げたミロゴロワやブルジナに代表されるように、今後特にロシアで増えるものと思われる。

スラブ研究45号目次/ No.45 Contents