1997年点検評価報告書
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I・T・ベレンド報告 報告

はじめに
 北海道大学スラブ研究センター(SRC)は、恒例の夏期国際シンポジウムのためにすばらしい議題を選んだ。「中・東欧地域の新国際秩序」という枠組みの もとに8つのセッションで討議された、下記のような多岐にわたる歴史、経済、社会、文化、政治の諸問題が、そのアプローチの複雑さを物語る。
 1990年代の中・東欧地域に現われた「国際秩序」とは何か。そもそも「中欧」という地域は存在するのか。ポスト共産主義期における転換の主要な特徴と は何か。西側型の自由市場経済へ移行中なのか、それとも別のモデルの方が、比較的後進のこの地域諸国の経済にはふさわしいのか。転換の社会的コストとは何 か。このプロセスはEUへの統合にいたるのか。このプロセスにおけるNATOの役割とは何か。それはEUへの控えの間なのか。ロシアは、ありうべき中欧諸 国のNATO加盟にどのように反応するのか。中・東欧地域の統合は、統一された欧州の創出に役立つのか、あるいはその代替物として機能するだけなのか。 「ヴィシェグラード諸国」は、ほんとうに中・東欧地域の統合をのぞんでいるか。
 こうした問題が、ほかのいくつかの本質的問題とともに討論の焦点になった。
 SRCは、深い専門知識と慎重さをもって会議の報告者たちを選んだ。日本の東欧研究者のほかに、ロシア(ジュールキン教授とシモニア教授)、ポーランド (モラフスキ教授とルトカ教授)、チェコ共和国(シェジヴィー博士)、ハンガリー(ベレンド教授とチャバ教授)、スロヴァキア(サムソン博士)が、括弧内 に記された優れた学者たちによってひとしく代表された。これは、新旧の両世代からなる絶妙の取り合わせだった。報告者たちの質に加えて、わたしは会議の雰 囲気にも深い感銘を受けた。中・東欧諸国の代表たちは、同じテーブルを囲んで自由に議論し、賛成したり反対したりしたが、つねに互いをよく理解しあってい た。ナショナリズム的アプローチの徴候は、この会議には存在しなかった。ある参加者が冗談めかして言ったように、中・東欧の人々は、このような相互理解の 雰囲気のもとで平和裡に同席するために、北海道へ来るべきなのだ。
 SRCは、現実にも全国的センターとして、また日本の最良の専門家たちもひきつけた。佐藤経明(横浜市立大学)、木戸蓊(神戸学院大学)、百瀬宏(津田 塾大学)、伊東孝之、長與進(早稲田大学)、篠原琢(東京学芸大学)、広瀬佳一(山梨学院大学)、岩間陽子(京都大学)、岡田裕之(法政大学)、小沢弘明 (東京外語大学)、西村可明(一橋大学)、上垣彰(西南学院大学)、秋野豊(筑波大学)、笠原清志(立教大学)教授らは、会議において積極的かつ重要な役 割を果たした。全国から集まったこれら第一線級の日本人出席者のほかに、約60名の人々が二日半にわたるセッションに出席した。日本にこのような卓越した 中核的研究機関があり、このような(中・東欧を意味する)「スラブ」研究に携わる全国センターが現実に、この分野の専門家たちを全国から動員し、当該地域 に関して最も重要である学術的および政治的諸問題をともに議論する機会を定期的に設けうることに、われわれは大きな感銘を覚えた。
 センター長の林忠行教授をはじめ、重要な役割を果たした家田修、皆川修吾教授のような優れた専任研究員、またモラフスキ(ポーランド)、コトキン(米 国)、シモニア(ロシア)教授らのような外国人研究員も、学術集会の成功に多大な貢献をした。彼らが投下した知的エネルギーと組織化の努力こそが、会議の 成果をおおいに規定したのだ。
 参加者たちは、印刷されたペーパーを事前に受け取っており、報告者は(ほとんどが)20分ほど口頭で発表したあと、コメントと討論が展開された。最終日 のラウンドテーブル・ディスカッションは、最も一般的かつ中心的ないくつかの問題をめぐって、形式ばらない最終討論の場を創出した。主催者側は討論に先 立って、何人かの出席者に序論的なコメントを依頼した。会議全体の運営はすばらしくて、十分な意見陳述を保証し、真の中心的問題をめぐる活発な討論を促進 するものだった。わたしはここ6〜7年間、米国や西欧、そして中欧で開催された東欧の転換に関する学術会議にあまた参加してきたから、国際比較を行うため に十分な、確かな基準をもっている。まさにこの基準にもとづき、札幌の会議は、ポスト共産主義期における中・東欧の転換に関する会議のなかでは最高のもの のひとつだったと断言する。高い学術的レベルと精選された中核的諸問題は、いくつかの重要な結論をもたらし、会議で展開された経済、安全保障、社会政策関 連の議論は、研究者のみならず、政策立案者や政治家たちにとっても貴重なものである。
1.会議の中核的諸問題と討論
 この報告は、この会議の議題と討論のゆたかさを再現できぬため、いくつかの中核的問題に話を限定せねばならない。以下の要約は、したがって、会議全体の 議題と討論を網羅するのではなく、その最も重要な部分だけをまとめたものである。
 1)会議の時間的経過に従って、7月24日午後の基調講演におけるいくつかの中心的論点からはじめたい。主催者は、この栄誉ある講演を行うことをわたし に要請した。基調講演には特別な役割と約1時間の時間枠が与えられているので、内容の選定が特に重要であった。わたしはそれゆえに、あまり重視されてはい ないものの、わたしの見解では長期の展望においてより重要となる、ポスト共産主義期の転換におけるひとつのアスペクト、すなわち、世紀の変わり目における 世界経済の諸要件に適応するための基礎として1990年代の中・東欧経済の構造変化について話すことにした。市場経済と私有化は、ポスト共産主義期の転換 をめぐって最も頻繁に議論される要因であるが、プロセスの帰結ではなく、世界経済に参入するための適応機構とメカニズムを創出するにすぎない。この解釈に よれば、共産主義崩壊の主要な原因は、現代化の試みの挫折であって、要するにこの挫折こそが後進性を再生産して、世界経済に対する上首尾な適応を不可能と したのだ。四半世紀の比較的有効だった工業化の時期のあと、今世紀最後の四半世紀の構造的危機の数十年間に失敗が顕在化してきた。シュムペーター学派のい わゆる構造的危機とは、古い技術体制を現実に変化させて、古い技術に基礎を置く先導的経済セクターの墓穴を掘るような、「一組みの技術革新」によって惹起 されたものである。しかし、この危機が先進諸国では、新しいテクノロジーとそれにもとづく新しい先導的(輸出)セクターの創出によって「創造的破壊」をも たらした。中・東欧を含む周縁地域では(同様に、いくつかのラテン・アメリカ諸国とほとんどのアフリカ諸国においても)、破壊は深刻であるものの、「創造 的」傾向をともなわず、したがって適応は果たされず、構造的危機は、累積債務の膨張、下落する生産と消費、破滅的インフレーション、そしてその結果とし て、政治危機と体制の崩壊を招来した。基調講演は、雇用と輸出と生産高の統計にもとづいて1989年以降の経済転換を分析し、ポスト共産主義諸国に見られ た景気の持ち直しや比較的高い経済成長率さえも、実際は後退的なリストラをともなうこと、および現代的で競争力のある新しい輸出部門は、まだこれからつく りだされねばならない、ということを証明した。チェコ共和国、ハンガリー、ポーランドのような当該地域の最先進国ですら、原料やエネルギー、わずかに加工 された第一次産品の輸出国になっている(チェコの場合、こうしたタイプの生産物が1988年は輸出の3分の1だったのに、1995年には倍増し3分の2を 占める)。当該地域は、ドイツをはじめとする先進西欧諸国の下請業者となり、自らの安価な労働を「売り」(その労働コストはドイツのわずか10分の1であ る)、西側のために「ネジまわし」となって組立作業をしているのだ。これらすべては、経済の蘇生をうながし、1992―1994年以降のダイナミックな成 長をもたらしたが、技術・構造的適応には結び付かぬようだ。言いかえれば、それはこれらの国々の周縁的地位を再生産するのであろう。しかし、多国籍企業に よる大型投資のいくつかと、現代的コミュニケーション・システムの将来的発展は、中・東欧の西縁部に位置する3〜6カ国において、特にこれらの国々がEU に加盟した場合には長期的適応を促進するかもしれない。その他の国々は適応のためのよい展望をもっていない。
 2)「西縁部」の亜地域では、特に力説された話題があった。議論の中心のひとつは、中欧が地域として存在するか否かという問題だった。この問題は、第一 セッションの篠原琢の報告において展開された。篠原は、「中欧」をめぐる諸論点を再検討し、この地域に関する言説は過去数世紀にわたる当該地域の「特殊な 道」(Sonderweg)と、20世紀はじめの政治綱領――何よりもまず「中欧」(Mittel-Europa)の概念と論争――の産物であり、 1980年代と90年代に「再発見」されたものであると総括した。報告者は、ここ数年の転換の「散文的現実」の結果「そのアクチュアリティが失われた」ひ とつの遠い可能性にすぎないと主張することで、新しい政治エリートの夢に異議を唱えた。この意見によれば、中欧は今や知的挑戦、現実の「歴史的実体」を欠 いた「変化のイデー、望ましい未来の主観的自画像」にすぎない。
 しかし別の討論者は、中欧が夢やイデーであるのみならず歴史的事実でもあり、とりわけての東と「ほんとうの」西の間の一種独特の歴史的通路、(両大戦間 のドイツ語で言えば)「中間ヨーロッパ」(Zwischeneuropa)であって、時として大陸の二つの部分の間を移動していたと主張することで、この 見解に反論した。これらの「渡し船諸国」は、かつて西にむけて航海し、歴史のある時期にはその一部になっていたが、その後「東」に逆もどりした。今、これ らの国々はまた西へむかって航海している。中・東欧では、この西縁部の国々だけがEUに加盟し、西側に追いつく歴史的チャンスをもっている。
 3)「中欧」に関する理論的討論は、中欧の地域協力をめぐる活発なディスカッションをともなった。二つの報告(A.ルトカ、広瀬佳一)が討論を先導し、 最後には、1980年代後半の重要な政治的イニシアティヴや、1990年代当初の活気ある公共事業のような中欧の地域協力は、事実上存在しなくなったこと を説得的に論証した。ヴィシェグラード諸国は、EUの最初の会員になるために互いに競争しており、協力しあう用意がない。チェコ共和国のヴァーツラフ・ク ラウス首相は、チェコの大地が西側に属すると主張している。地域内の貿易は、どの国においても激減した。オーストリアとイタリアは、かつて中欧の地域協定 システムの主唱者だったが、特にオーストリアのEU加盟後の今では、この問題に対する関心を失っている。三つめの報告(長與進)は、大きな紛争がさらにま た協力の道を阻んでいる事実を提起した。長與の議論は、ガプチコヴォ・ナヂマロシュ・ダム建設計画の運命に体現される、スロヴァキアとハンガリーの係争事 件を扱っていた。あらわな国境紛争はこの地域にほとんど存在しないが、いくつかの未解決の領土問題と、その他いくつかの燃え上がりやすい問題――特に少数 民族と、しばしば拒絶されがちな彼らの文化自治の問題――が残っている。フィンランドのP.ヨエンニエミ教授は、フィンランドとロシアの国境紛争を終結さ せたカレリア問題の平和的解決法を、今日のヨーロッパにおける国境論争を解決するためのモデルとして提起した。ヨエンニエミは、これを中・東欧にも適用で きるモデルとして論じたが、会議の参加者は、中・東欧の情況におけるこのアプローチの現実性に強い疑念を表明した。
 4)会議の主要な議題のひとつは、NATOとEUの拡大だった。この問題は、チャバ、シェジヴィー、サムソン、岩間陽子、ジュールキンの各氏の発表に よって提起され、討論の中心的部分を占めた。チャバ教授は、EUの拡大を非常に楽観視していた。彼の主張によれば、中欧諸国は「EUの国際競争力のために 多くの貢献をするだろう。これらの国々は転換の第一ラウンドを終え、持続的成長の時期に入った。EUもまた、新しい東側の申請国に対しては、これまでにな く歩みよりを見せている」。法を調和させるための訓練、PHAREその他の技術援助計画は、漸進的ではあるが、貿易協定の段階よりも親密な関係を産みだし た。西側諸国(特にドイツ)の何人かのアナリストは中欧を、工業とサービス業を再配置するための理想的な場所として描いている。結論として、「1996年 の問題は必ずや、拡大があるか否かではなくて、それがいつ、どのように、いかなる手続きをへて、どの段階で実現するかということであろう」。
 その一方で、中・東欧地域のその他の国々、つまりバルカン諸国やソ連の後継諸国は、遠い将来にさえも加盟が承認される見込みはない。これらの国々は、移 民の脅威と安全保障への危惧をEUに対して提起する。
 かかる楽観的見解は、NATOの拡大がすぐにも行われるだろうと主張する何人かの出席者によっても繰り返された。J.シェジヴィーの主張によれば、 1980年代後半は、ヨーロッパが積極的合意を求め、西側の安全保障共同体を東方に拡大して戦争と暴力を締めだすなかで、安全と安定と協力の空間を確立し ようとする歴史的チャンスをもつという脈絡のなかで例外的情況をつくりだした。スロヴァキアの場合を例証したサムソン博士の報告は、中・東欧諸国の NATO加盟へ向けての願望を強調した。討論は、この願望が安全保障問題というよりも、政治的要求であることを的確に指摘した。NATOは、1989年の 主要なスローガンが強調したように「ヨーロッパに仲間入りする」最もやさしい第一歩として登場している。NATO加盟はそれゆえ、ほとんどEUに受け入れ られることを意味しているのだ。
 その一方で、ジュールキン教授が報告と討論で繰り返し主張したように、ロシアはこの問題について別の見解をもっている。ロシアは、できるだけ早くEUに 加盟しようとする中欧諸国の試みを理解し、それを合法的なものとして認めてもいるが、ロシアの安全保障に対する関心もまた、等しく合法的なものである。教 授は、実際的かつ「より現実的」な解決法として、中欧諸国がNATOの政治機構にのみ加盟し、軍事機構には参加しないという妥協策を提案した。この問題へ のロシアのアプローチは、新たな冷戦が出現する可能性を示唆する。ロシアの意見は、1991年7月のワルシャワ条約機構の解体とそれに続くソ連の崩壊以 降、NATOの存在が不必要になったことを強調する。しかし、討論が明らかにしたように、ロシアはこの見解において孤立している。それどころか、岩間陽子 教授が述べたとおり、NATOは21世紀に向けて適応すべきなのである。何人かの討論参加者が主張したように、NATOの新しい役割は、ボスニア・ヘル ツェゴヴィナにおいてはっきりと証明された。このケースは、中・東欧の安全を確保するNATOの実際的重要性をも証明している。NATOの拡大をめぐる議 論は、どちらにも受け入れられる解決法を提示することはできなかったが、アプローチの相違点を解明するのには役立った。
 5)EUとNATOの拡大に関する議論は、中・東欧の転換が妥当なモデルと理想的な道をたどることを暗黙に主張していた。この地域で、少なくとも西側に 最もよく適応できる国々は、まもなくヨーロッパの一部になるだろう。しかし、こうした見解は、第6セッションにおける報告と討論によって反駁された。モラ フスキ教授と佐藤経明教授は、何人かの討論参加者とともに、自由放任政策と私有化の全速推進が、政府による適応指導の放棄と同様に不適切であることを強調 した。佐藤教授は、混合経済と国家関与の利点について説得力のある主張をした。討論は、したがって、どちらも市場経済とはいえ、「自己調整型」と「規制 型」の市場システムを明確に区別する必要を強調した。最近の論議と論争で自己調整型市場経済、つまり自由放任システムに対置されるのは、失敗に終わった中 央集権型計画経済である。第二次大戦後の「アジア型モデル」と日本の経験は、十分に発達した市場環境を欠く比較的後進の国々にとって最も成功したモデルを 提示しているにもかかわらず、実際はしばしば無視されてきた。モラフスキ教授が言及した「権威なき社会」は、「連帯」のロマンチックな命題にすぎなかっ た。参加型民主主義と公正な社会の試みとしての「自己統治の共和国」の綱領は、二律背反とみなされる二つの価値、すなわち自由と平等に立脚していた。しか し1989年以降は、モラフスキが証明したように、社会は社会変化の主体であることをやめ、エリートが上から働きかける行動の客体と化している。この見解 によれば、ネオ・リベラル経済のコンセプトと政策は、別のロマンチックなコンセプトにすぎない。それはリベラルな資本主義ではなくて、「寡頭政治化」の初 期症状をともなって形成される政治的な資本主義だからである。
 要約すれば、会議は、中・東欧の転換をめぐるステレオタイプな意見や常識をくつがえすに足る、重要で、新鮮で、独創的な見解を提示した。また、現実の転 換プロセスの緻密な分析を行い、そして対案となりうる転換モデルを含むさまざまな対案も提起した。EU加盟が早期に実現するかどうかという問題は、未解決 のまま残されたが、安全保障と経済に対する西側の利害や、加盟へ向けた中欧の強い願望が、西側の自由放任以外のモデルを導入することで解消されることもな さそうだから、その可能性はありえよう。会議は、欧州内部で進行中の歴史のよりよい理解をめざす試みに対して確実に貢献した。中・東欧地域の新国際秩序に ついて確かなことはまだ何も言えないが、新しい秩序がいくつか、目に見える形で現われている。中・東欧は、その歴史でしばしば繰り返されたように、この転 換のなかでも二つのかなり異なる趨勢と結果を、したがってまた欧州統合をめぐっても、非常に異なる二つの成果と未来を提示する。今は、中・東欧のさまざま な転換パターンとモデルについて、また欧州亜大陸のさまざまな部分の相異なる未来について語るときかもしれない。
むすび
 わたしは北海道に一週間たらず滞在しただけであるが、北海道大学スラブ研究センターの活動に関して理解を深めるのに十分の、すばらしい機会に恵まれた。 会議での印象のほかに、わたしはセンターの何人かの研究員と、またほとんどの外国人研究員とも話し合うことができた。わたしはまた、センターの図書コレク ションと施設全体を見学することもできた。
 こうした経験にもとづいて、わたしは、SRCが国際的財産であり、国際的な研究や討論に影響をおよぼす重要な研究機関であることを明言する。SRCは、 全国センターというにふさわしい、十分に確立された組織、優れた指導部、優秀な研究スタッフを擁している。それは、このような全国的研究機関に対して要請 される諸要件を十分に備えている。わたしは、センターがかつてのロシア(ソ連)研究中心の研究機関から中・東欧研究のセンターになるという長足の進歩をな し遂げた事実を認識した。しかし、外国人研究員の大半は、まだほとんどがロシア人かロシア研究者である。わたしは、もっと中欧研究者やバルカン地域の専門 家を招聘することで、研究員の構成を変えることを提案する。SRCは、国際的地位をもつ全国センターにふさわしい要件をすべてみたすためには、十分な財源 とより多くの予算をもたなければならない。職員は、明らかに質量ともに不十分である。外国語を話せる職員はほとんどいない。この事実は、職員の責務まで遂 行せねばならぬ幹部たちに、負担と余分な労働を強いている。またセンターのテクノロジー関連備品は、驚くほど後進的である。会議室には空調がなかったし、 音響システムもよく作動しなかった。テクノロジー環境は、日本のような技術先進国というより、むしろ発展途上国の状態に近かった。ヨーロッパ、特に中欧か らのゲストは、技術先進国の一員たる日本のイメージに合致せぬ、この経験にとまどっていた。これらの欠点は、センターの優れた業績と会議の成功を損なうも のではなかったが、それでもやはり、国際的地位をもつ全国的研究機関を存続発展させていく要因としては顧慮されねばなるまい。予算の然るべき増加があれ ば、北海道大学スラブ研究センターの指導部は、これらすべての要請に対処し、したがってまたセンターを現代化することも、容易にできるはずである。
最後に、わたしは、このような最高の国際的水準の学術会議を立案し、組織し、そして成功させた林忠行教授、家田修教授、ならびにSRCのすべての研究員と 職員に対して、賛辞と祝意を表したい。

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