SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 44号

『騎兵隊』論:その成立過程と構造について

中 村 唯 史

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1-1
1-2
1-3
2-1
2-2
2-3
3-1
3-2
3-3
3-4
4
注 釈
要 約


1−1
イサーク・バーベリの代表作『騎兵隊』を巡っては、これまで少なからぬ数の論文が書かれてきたが、それらを概観すると、二つの基本的な問題について、研究 者の見解が大きく分かれていることが指摘できる。
その一つは、『騎兵隊』という作品が、国内戦の現実をどの程度、どのように反映しているのか、という問題である。
1919〜20年、ソヴィェト・ロシアと独立直後のポーランドとの間で、主にガリツィア地方を舞台として激戦が展開された。バーベリは、この戦争 の末期 に、ロスタ通信特派員として赤軍の主力ブジョンヌィ将軍麾下第一騎兵隊に所属していたが、『騎兵隊』はその際の彼の見聞をまとめたものという体裁を取って いる。初出時に各作品の末尾に上記の戦争と密接に関係する日付と地名が付されていたこと、実在人物が少なからず実名で作中に登場していること、また大多数 の作品における「語り手」の姓名(キリル・ヴァシーリエヴィチ・リュートフ)が、従軍時にバーベリによって実際に用いられていたものであることなど、『騎 兵隊』には確かに、国内戦の記録文学としての側面が指摘できる。だがその一方で、作品間に首尾一貫した登場人物の不在(或いはその存在感の稀薄さ)、文体 の極度の様式性などは、『騎兵隊』を記録文学から隔てる特徴である。作中のこの相反する二つの側面のどちらを重視するか、或いは両者の関係をどのように考 えるかは、研究者によって大きく異なっている。
もう一つの争点は、『騎兵隊』という作品の総体としての構造に関わる問題である。『騎兵隊』は1926年の初版以来、計34編の短篇・断片によっ て構成 されているID1  が、ソ〓ポ戦争に基づいているという建前であるにもかかわらず、語り手リュートフが騎兵隊に入隊した際の逸話『私の最初のガチョウ』が、冒頭ではなく第8 番目に収録され、時間的に継続し登場人物も共通しているF『ゲダリ』とH『師父』とを分断している例2  に見られ るように、諸編の配列順序の間には、時間的・地理的な一貫性を認めにくい。その一方で、『騎兵隊』の大多数の作品に語り手リュートフが関与し、彼以外にも 複数の作品にまたがって登場する人物が少なくないこと、さらにバーベリが単行本における収録順序に強く拘泥したこと3 を考慮すれ ば、『騎兵隊』諸編を全く独立した作品と見なすこともまた適切ではない。つまり『騎兵隊』は、一般的な意味における連作とも短篇集とも言い得ないのであ る。『騎兵隊』を構成する計34個の短篇・断片が相互にどのような関係にあるか、どのような原理に基づいて配列されているか、そしてその結果『騎兵隊』が 総体としていかなる構造を有しているか − この問題に関する見解もまた、『騎兵隊』研究者の間で一致を見ていない。

1−2
同時代人の『騎兵隊』批評を調べてみると、作品と現実との関係について、ほぼ1926年を境として、見解が大きく転換していることは興味深い。  初期の批評では、『騎兵隊』は一般に、多少風変わりであるとは言え、国内戦を題材とした記録文学の一種と見なされていた。たとえばレーレヴィチは、 1923年の文学界を総括した文章の中で『騎兵隊』の数編に触れ、「これら『騎兵隊』の断片は……現実の鮮烈な見本として不朽であろう。」4 と述べてい る。この見解は1924年のベンニの論文にも引き継がれ、彼は「現実が作家の眼を通じて複雑に変形している」5 としながら も、「『騎兵隊』においては、人物とその名前、エピソード、場所、事件、戦闘と死、風俗といったすべてのものが戦争の記録となっている……バーベリの表現 力の源泉は、彼の現実への密着にある。」6と 主張した。『騎兵隊』が革命を純粋に審美的に取り扱っていると非難した1925年のゴルバチョフ論文でさえ、いくつかの作品が「国内戦期の資料として芸術 的・歴史的に典型的」7で あることまでは否定していない。
ところが1927年1月に発表されたポロンスキーの論文8 以降、『騎兵隊』が国内戦〓現実を反映したものであるとする見解は影をひそめ、「騎兵隊は、 さまざまなエピソードの枠組としてのみ(作中に)存在している……バーベリが描いたものは歴史的現実に似ていない。作中の個々の要素、エピソード、事実、 人物は、まるで現実から引きちぎられてきたように見える。『騎兵隊』は、騎兵隊やその戦闘員についての物語ではなく、作者自身とその世界観について書かれ た本である。」9  といった意見が支配的となる。1928年に刊行されたバーベリに関する論文集10 は、『騎兵隊』を主とする彼の文学を、もっぱら文芸学的アプローチによって考究したもので あり、特に執筆者の一人ステパーノフは「バーベリは言語の中に生きている。イントネーションと言語的夢幻の外側においては、彼は表現力を発揮できない。」11とまで極 言している。
『騎兵隊』諸編は、1923年の2月からバーベリの故郷オデッサの新聞に断続的に発表され始め、同年末からは、主としてモスクワの雑誌に掲載され た。 フェージンがゴーリキイに宛てた1924年の手紙の一節「最近バーベリがモスクワを騒がせています。……誰もが彼に夢中です。」12 は、 『騎兵隊』が当時の読書界に惹き起こしていた一種熱狂的な反応を窺わせるが、バーベリはこのような名声を、『騎兵隊』が未だその全貌を現わしていない時点 で既に獲得していたのである。上に引用したうち1926年以前の批評が、この段階で書かれたものであることには留意する必要がある。
『騎兵隊』諸編には、初出の際、その大部分に<<Из Конармии>>ないし<<Изкниги‘Конармия’>>『騎兵隊』から」という副題が付されていた ため、当時の批評家は、それらが或る全体を構成する部分であるということは認識していた。だが『騎兵隊』の総体としての構造は、単行本が刊行されるまで明 らかではなかったのである。さらにまた、『騎兵隊』の副題を冠した諸編は、特に中央の雑誌に発表される際、何編かまとめて掲載されることが多かった。 1926年以前の批評は、『騎兵隊』の構造、すなわち諸編の相関関係を論じる時、むしろ諸編の初出時の組み合わせに大きく規定されていたと考えられる。
1926年に刊行された『騎兵隊』初版と各編の新聞・雑誌初出時のテキストとを比較してみると、単行本化の際、バーベリはそれらに本質的な修正を 加えて いない。わずかにトロツキーの失脚に伴い、彼の名前が削除される等の政治的配慮13、また1925年から顕著になった簡潔な文体への作者の志向14 が指摘 できるだけである。したがって、1926年に単行本化された前後で『騎兵隊』が読者に与える印象に変化が生じた理由は主として、『騎兵隊』諸編が初版本に おいて、雑誌初出時の発表順や組み合わせと異なる原理に基づいて配列されたことに求められるべきである。

1−3
本稿は、従来の『騎兵隊』研究における二つの問題 −1『騎兵隊』とバーベリの従軍時の体験との関係 2『騎兵隊』を構成する諸編の相互関係、および 『騎兵隊』の総体としての構造 − に、筆者なりの考察を加えようとするものである。従来、これらの問題は個別に論じられることが多く、また第2点を論じ る際には単行本の収録順序にのみ注意が払われてきた。だが上に述べたように、雑誌発表時には一種の記録文学と見なされていた『騎兵隊』諸編が、一冊にまと められた段階で読者に与える印象を大きく変えていることから見て、上の二つの問題は密接な相互関係を有しているはずである。
第一の問題については、諸編の直接の草稿が残っていないため、近年その全貌が明らかになったバーベリの従軍時の日記(以下、引用の際にはD.)、 『騎兵 隊』諸編の創作の際の覚書と見なされてきたメモ(同上M.)の分析、および両者と作品との比較対照が有効だろう15。また第 二の問題については、諸編の雑誌発表時の組み合わせと初版における収録順序の比較を通じて、単行本化の際のバーベリの意図を分析し、その後『騎兵隊』の総 体としての構造を考えることにする。
これまで個々に論じられてきた上記二つの問題を、『騎兵隊』成立の過程に沿って考えていくことが、本稿の課題である。既に述べたように、成立の過 程でテ キストのレベルには本質的な変更が認められないため、従来の『騎兵隊』研究において重視されてきたテキスト分析は、課題に関係するかぎりの必要最小限に留 められる。

2−1
本章では、従軍日記と創作メモの分析、両者と作品との比較を通じて、第一の問題点:『騎兵隊』とバーベリの従軍時の体験との関係を論じる。まず最初に、 『騎兵隊』成立の過程における日記とメモの位置づけについて考えてみる。

<<従軍日記について>>

従来の研究において従軍日記は、バーベリの国内戦時の経験をそのまま反映するものとして取り扱われる場合が多かった16。だが書 くという行為は、たとえそれが私的な日記の場合にも、内容の取捨選択を必然的に伴うものだ。日記の記述が事実に基づいていることは疑えないが、バーベリは それ以外にも少なからぬ体験を経ているはずであり、日記を分析するにあたっては、彼がいかなる基準によって記載すべきエピソードや人物を選択したか、留意 する必要がある。
この問題に関して、日記中の興味深いエピソードを二つあげる。

1)戦況の混乱の中でバーベリを含む数人が司令部とはぐれ、ラジヴィーロフとブロディのどちらに行くかを話し合った際、バーベリはブ ロディ行きを主張したが、その理由を彼は「より面白そう(интереснее)だから」と述べた。

(D.8/3)
  2)従軍の初期にバーベリは草稿を紛失し、数日間意気沮喪していた。

(D.7/11、7/13)
戦争の真っ只中で、「面白そう」という理由で進路を選び、草稿の紛失を重大視することは、戦争の参加者よりも、むしろ観察者の姿勢である。事実、 日記に は「〜を書くこと(описать)」「〜を覚えておくこと(запомнить)」といった記述が、冒頭7/3の項(選集では6/3)を皮切りとして頻 繁に現われており、また「印象をもっと知性で知覚する」(Впечатления больше воспринимаю умом.8/3)等明らかに創作を念頭に置いた但し書きの存在からも、バーベリが当初から、将来の執筆を期して戦争を観察していたことが窺われる。  従軍日記には、単に覚書というに留まらず、バーベリ文学固有の文体や比喩が用いられ、ほとんど作品の下書きとしての性格を帯びているような箇所もある。 たとえば日記中の次の風景描写などは、色の形容詞の技巧的な使用等の点で既に「装飾的散文」に近く、たとえ『騎兵隊』諸編の内にあったとしても遜色がな い。
Обратно,вечер,во ржи поймали поляка,как на зверя охотятся,широкие поля,алое солнце,золотой туман,колышутся хлеба,в деревне гонят скот,розовые пыльные дороги,необычайной нежной формы,из краев жемужных облаков−пламенные языки,оранжевое пламя,телеги поднимают пыль.(D.7/12)
(帰り道、夕、ライ麦畑でポーランド人が捕えられた、獣のように狩られている、広大な野原、鮮紅の太陽、黄金の雲、穀類が揺れている、村では家畜 が駆り立 てられている、薔薇色の埃立つ道、異常なまでに優美な形の、真珠色の雲の端から − 炎のような舌、オレンジ色の炎、荷馬車は埃を上げている。)
また弱者を形容する際の鳥の直喩、青色と結びつけての描出は、バーベリの作品に一貫した用法であるが、これらは日記中にもしばしば現われている。(例 「ユダヤ人達は……哀れで、鳥のよう、青ざめて(Евреи...жалкие,как птицы,синие,)−D.7/23」「使丁は鳥のように震えている(Служитель трепещет,как птица)−D.8/7」)
日記の記載が、文体や比喩のレベルに留まらず、後の作品の構想までも視野に入れていたことは、D.7/3(選集では6/3)に、その例が見られ る。この 項には、F『ゲダリ』H『師父』に対応する記述が数多く指摘できる。とりわけ作品Hは、ハッシド派教会の陰欝な描写と、末尾部における赤軍アジ列車の眩い 照明の記述とが鮮やかな対照を成している作品だが、D.7/3中には「(私が古風なユダヤ人達の所で見たものとのコントラスト)」との但し書きがあり、 バーベリが日記執筆の段階で、後のHの構成を既に念頭に置いていたことが窺われる。  以上の例から見て、バーベリは日記の記載事項を、それが将来の作品に適切な素材か否かを基準として、選択したものと考えられる。共産主義者として国内戦 に身を投じ、その際の感銘から『チャパーエフ』の執筆に至ったフールマノフの場合とは異なり、バーベリの従軍は、当初から文学的動機に基づくものであっ た。
なお、バーベリが『騎兵隊』執筆の際に従軍日記を直接に参照したことは、日記中の表現がそのまま作品に用いられている例が多数あることによって明 らかで ある(D.7/14→C『軍馬補充部長』・冒頭部17、D.8/7→@24@『聖ヴァレントのもとで』・教会の絵の意匠18 他)。 バーベリはその晩年に、『騎兵隊』が諸断片の集成という形を取ったことについて、従軍時の日記を紛失し、記憶に頼って書かざるを得なかったための、やむを えない結果だったと述べている19  が、この発言は上記の例などから見ても信じがたい。政治的な圧力の強まる中で、自分への批判を和らげるための韜晦だったのだろう。


<<創作メモについて>>

従来の研究では、『騎兵隊』の執筆過程について、まず従軍日記を基に創作メモが書かれ、メモが書き上げられた後に、これを基に作品が書かれたとい う、機 械的な順序が想定されてきた。確かに、日記を参照しつつ創作メモが書かれたことは、前者の記述がそのままの形で後者に使用されている(D.7/24→M. 2、D.7/29→M.820) 例によって裏付けられる。またM. 33・34が@17@『プリシチェパ』の草稿である例に見られるように、作品の基となっていることが明らかなメモも存 在する。
だがこの例だけを根拠に、現存する58枚のメモすべてが日記と作品の間に介在していたと断定するのは早計だろう。創作メモ全体を見渡した場合、 M.  33・34のような例はむしろ少数だからだ。創作メモの大部分は、『騎兵隊』諸編が発表され始めて以後に書かれたものである。
たとえばM. 25〜27には@18@『ある馬の話』@25@『中隊長トルーノフ』@27@『ある馬の話の続き』に見られるのと同一ないし類似の 記述が 数多く見られる21。 このことを根拠に、M. 25〜27はこれまで、上記の作品の原型として取り扱われる場合が多かった。しかし注目されるのは、作品@18@の初出が 1923年4月であるのに対し、M. 26中に1924年1月に発布されたソ連憲法について(о конституции СССР)の記述が見えることである。このためM. 26は憲法発布以後に書かれたものと考えなければならない。作品@18@が姉妹編@27@『ある馬の 話の続き』と共に「赤い処女地」1924年4/5月号に再録されていることを考え合わせると、M. 25〜27の書かれた時期は、24年の1月から3月頃 の間に想定されよう。この時期にバーベリは、一度発表した@18@と、その時点では未発表だった@25@とを結びつける構想を立てたが、後にそれを放棄 し、それぞれ独立した作品としたのである。なお作品@18@・@25@等に直接対応する創作メモは残されていない。
別の例。M.13の2には<<Буденный икомбриги.Выхожу по естественншй нужде....Труп...Бой,рубка в безмолвии.>>(ブジョンヌィと旅団長達。生理的な必要から外に出る……屍体……戦闘、静寂の中の斬殺)という記述がある。このう ち第2・3文は@26@『イヴァン達』(1924年1月初出)に用いられているディテールである。一方、第1・4文は@13@『第二旅団長』(23年12 月初出)に関わっている。特に第4文は、明らかにD.8/3の<<В безмолвии идет рубка>>(静寂の中で斬殺が進む)を直接に取り入れた表現だが、@13@『第二旅団長』中にも<<И мы услышали великое безмолвие рубки.>>(そして私達は斬殺の大いなる静寂を耳にした−стр.49)として用いられている。バーベリの場合、既に使用済の表現を、 そのままの形で再度使おうとしたとは考えにくいので、M.13は作品@13@の発表以前、おそらくは1923年の比較的早い時点で書かれたものだろう。 バーベリは二つのエピソードを結びつけることをその後断念し、別個の作品として発表したと考えられる。ただしこの場合もやはり、作品@13@に直接対応す ると思われるメモは現存していない。
上に挙げたM. 25〜27、13は、完成作品の前段階の構想に当たるものだが、この種の例も、メモ全体として見れば、やはり相対的に少数に留ま る。創 作メモの大部分には、むしろ『騎兵隊』諸編と呼応する記述が全く指摘できない。そしてその多くが、コサック兵士や戦闘時のエピソード・印象を主題としてい る。
バーベリは1924年12月に、単行本の編集担当者フールマノフに対し、『騎兵隊』は全部で50〜55の章(作品)から成る予定で、特に現在執筆 中の 10〜15の作品について、「これらは長く、真面目なものとなります。それらの中では、騎兵隊について肯定的な印象が生まれるでしょう。」22 と述べ ている。これはおそらく、ソ〓ポ戦争において第一騎兵隊を指揮したブジョンヌィ将軍が、1924年に『騎兵隊』諸編を激しく非難した23 ことを 念頭に置いての発言であり、バーベリはこの国内戦の英雄の批判を受けた後、従来よりも騎兵隊兵士に好意的なスタンスの作品の執筆を試みたのではないだろう か。現存の創作メモの大多数は、バーベリによってこの時期に書かれたものであり、結局は完成されることのなかった作品に対応するものと考えられる。  上の考察から明らかなように、創作メモの多くは、後の作品の前段階に相当するか、或いは未完成の構想を示している。1995年発表の創作メモの注釈者 コーガンは、バーベリが発表した作品の草稿・メモを廃棄していたのではないかと述べている24が、完成作品の現存するほとんど唯一の草稿M. 33・34が、一部を喪失して極めて不完全 な形でしか残されていないことによっても、彼のこの推測は裏付けられよう。
現存する創作メモは、『騎兵隊』諸編の草稿や、作品の前段階のプランを示すものを一部に含んでいるとは言え、その多くは「書かれなかった」構想の 跡であ る。したがって、これらと作品との比較対照は、『騎兵隊』を考察する上では必ずしも有効ではない。とは言え、現存する58枚のメモは、日記中のエピソー ド・印象を様々に組み合わせたバーベリの試行錯誤を示しており、また日記と作品の間にも同様の試行錯誤は存在したと想定しうるのである。おそらくは作者自 身によって破棄され、現在に残されていない『騎兵隊』に直接対応するメモの特徴を推理するためには、現存メモの分析にもまた、それなりの意義があると言え る。

2−2
この節では、主に創作メモの分析を通じて、『騎兵隊』創造過程の特徴を推測してみる。

<<事実の事象化>>

バーベリが将来の作品執筆を期してソ〓ポ戦争に参加したのであり、当時の日記もまた覚書としての側面が強いことを前節で指摘したが、バーベリは従 軍時の 経験・見聞をどのように作品化していったのだろうか。この問題の手がかりを得るために、創作メモの典型的な例を下に引用する。

〈戦闘〉
  1.機関銃車の上の負傷者達。コサックのヒロイズム。撃つぞ。負傷者の死。
  2.夜。前進する馬達。
  3.ブロディ。壁の陰で。
  4.ブロディからの出発。死骸。ピウスツキの呼び掛け。戦闘が始まる。コレースニコフとグリシン。− 彷徨の始まり。
  5.レフカ。
  6.コンキン。−7.看護婦。− (M. 14後半)

創作メモの多くは、場所・エピソード・事物・人名等を表す単語ないし短文を、数字(ハイフォン)で結び順序づけるか、或いはただ単に羅列したものであ る。コーガンの詳細な注釈が明らかにしているように、メモと直接に対応する記述が日記中に多数指摘できることから見て、個々の語や文にまつわるイメージ は、メモに取り組む以前から、バーベリの脳裏で既にかなり明瞭な姿を取っていたものと思われる。日記との対応が確認されない単語や文についても、バーベリ には従軍時の記憶に基づいた、或いは後に触れるように書物から得た、明確なイメージがあった可能性が高い。
バーベリが『騎兵隊』諸編を創造する際に最も苦慮したのは、個々の事象一つ一つを最小単位として、それらをどのように取捨選択し、配列するかとい うこと であったようだ。たとえば<Бой под Бр(одами)>という題名を冠したメモM.11〜15には、同一ないし類似の項目が繰り返 し現れ、様々な順に配列され直されている。
このような作業を従軍時に遡って辿ることのできる例を私達は、@25@『中隊長トルーノフ』@18@『ある馬の話』の前段階の構想に当たるM. 25.  Сокаль.に見ることができる。この項の中には「順序:ユダヤ人達。飛行機。墓。ティモシェンコ。手紙。トルーノフの葬儀。礼砲。」とあるが、このう ち「飛行機」とは、アメリカ軍の飛行隊による第一騎兵隊への攻撃を指しており、これについてはD.7/14その他に記述がある。一方トルーノフの死に関す る記載は日記中には見られないが、この人物が1920年8月3日にドゥブノにおいてポーランド軍の一斉射撃によって戦死したこと、バーベリが『赤い騎兵』 紙8/13号に彼への追悼文を載せたことが現在知られている25。つまりこのメモは、7/14・ベリョフにおける飛行機との遭遇と、8/3・ドゥブノにおけ るトルーノフの戦死という、二つの互いに無関係な出来事を、ソカリでトルーノフが飛行機の爆撃を受け、英雄的な死を遂げたという、架空の設定のもとに結び つけようとしたものなのである。
バーベリが従軍時に触れた事件や人物は、『騎兵隊』成立の過程で、まず本来の時空間・因果関係から切り離された。このように本来のコンテキストか ら「引 きちぎられ」た個々のエピソードや人物を、本稿では以下「事象」と呼ぶことにするが、作品・メモ・日記間の記述の対応を根拠に『騎兵隊』が強く現実を反映 しているとする見解は、バーベリの創造における、このような過程を看過しているのである。
その後バーベリは個々の事象を別のコンテキスト、すなわち自分の恣意に基づき再構成しているのだが、既に触れたように同一の事象が繰り返し様々な 順序に 配列され、その他の事象との結合が試みられていることから見ても、当初から彼に或る特定のイデーがあり、それにふさわしい素材が演繹的に取捨選択されたと は考えにくい。バーベリの方法は、むしろ個々の事象を帰納的に結合させてみることで、結果的に落ち着く先を模索する態のものだったろう。
なお、創作メモに現われたバーベリのこのような方法は、当然のことながら、従軍日記と作品との比較を通じても指摘できる。たとえばD.8/9に は、伝令 将校リョフカに関し騎兵隊中に流布していた二つの逸話が書き留められているが、その一つはB『手紙』において、赤軍に所属するクルジュコフ家の長男が白軍 にいた父を処刑する直前の親子の会話として、またもう一つの逸話は@28@『寡婦』の主要なエピソードとして、それぞれ用いられている26。バーベ リは個々の事象それ自体には正確を期したが、その主体が誰なのかといった、事象の属するコンテキストについては、これを自らの試行錯誤の結果に委ねたので ある。

<<聖書・神話・文学の事象化>> 

バーベリの文学が、多様な文体・ジャンルを同一作品の中に内包していること、聖書を含む神話や先行の文学作品のモチーフを自作に頻繁に用いている こと は、これまで多くの研究者が指摘してきたところだが、創作メモを概観すると、これらがバーベリの意識的かつ計算に裏付けられた営為だったことがわかる。
メモには、作品において使用すべき文体やジャンルについての覚書とおぼしき記述が散見される。(「文体 − 〈ベリョフで〉 − 内容で飽和した 短い諸 章(M.10)」「物語風(Повествование)(M. 42)」「順序(Порядок)……逸脱(отступление)(M. 44)」 「静物画(Натюрморт.М 51)」「散文による叙事詩(Poea`me en Prose/ПоЭма)(M. 54)」)
バーベリの計算はさらに、記述の分量にまで及んでいた。(「幾つかのエピソードの形式 − 半ページ(M. 14)」「15行?(M. 46)」 「3フ レーズ?(M. 54)」)
神話的・文学的パラレルがバーベリの意識的な方法だったことは、たとえば完成されなかった作品の原型M.2 GGGUSRAA01)§ 7_593…1に 現われている。このメモは主にD.7/24を下敷としているが、行軍の途中で宿泊したユダヤ人の家の娘達の記述に続いて「三人姉妹 − チェーホフの?」 との書き込みが見られる。またこのメモの中心を成すのは、完全な安息を必要とするユダヤの祭日アバ9日に、コサックがユダヤ人家族に食事の準備を強要した というエピソードである。この祭日はエルサレムの2度目の陥落を悼む日だが、メモには「アバ9日 − エルサレムの陥落……エレミヤ哀歌」とあり、バーベ リがこのエピソードを、旧約聖書のモチーフと二重写しにする形で書こうとしていたことが推測される27
装飾的散文あるいはモダニズム一般の特徴とされる神話的・文学的パラレルが、バーベリにとって単に文学的方法であるだけでなく、彼の思考法そのも のに深 く根ざしていたことは、日記中にさえ文学的パラレルを意図した記述が見られる28 ことによっても明らかだ。だがその一方、創作メモにはこの種の発想を自戒する言葉もしばし ば見られる(「比喩や歴史的パラレルなしに − 単に短篇。(M. 17)」「きわめて簡潔に、事実の叙述、余計な記述ぬきで。(M. 26)」)。
創作メモの多くが、バーベリが1924年にブジョンヌィ将軍の非難を受けた後、騎兵隊兵士に好意的な作品を試みた時期に書かれたものであることは 既に述 べた。したがって上に引用した記述は、逆に言えば、バーベリがそれ以前に発表した『騎兵隊』諸編において、いかに神話的・文学的・歴史的パラレルを重視し たかを示している。事実バーベリは1923年末から24年の前半にかけ、D『アポレク様』・@14@『キリストのサーシュカ』・H『師父』・E『イタリヤ の太陽』・F『ゲダリ』など神話的・文学的パラレルを基底とする作品を集中的に発表している。
ただし、神話的・文学的パラレル、特に聖書モチーフの使用例が『騎兵隊』に数多く指摘できるとは言え、それは『騎兵隊』が聖書の価値観に基づいて 書かれ たことを、必ずしも意味しない。たとえば上に引用したM.2におけるチェーホフ『三人姉妹』は、性格の異なる姉妹という設定の類似から連想されたものに過 ぎない。また同じメモ中の聖書的パラレルは、アバ9日の安息というユダヤの伝統を媒介として、D.7/24に出会ったユダヤ人家族の苦難に、二千年前のエ ルサレムの陥落とエレミヤの哀歌を重ね合わせたものである。バーベリにとって「パラレル」とは、専ら状況や設定の一致に基づき、時空を隔てた人物や出来事 を、任意に結びつけ重ね合わせることを意味していた。
そして、この営為もまた原典のコンテキストの無視を前提とする以上、神話・歴史・文学とのパラレルは、バーベリの従軍時の経験について既に指摘し た、そ の本来の連関から切り離したうえでのモチーフそれ自体の任意の結合という「事象化」の一環に他ならない。バーベリの関心はあくまでも個々の事象をいかに結 びつけるかという点にあった。『騎兵隊』における「事実」と「パラレル」の相違とは、結びつけようとする事象が現実に取材したものである場合に「語り」の シークエンスに沿って結合する試みが優先し、「パラレル」の場合には事象内部の関係性の一致に基づいた比喩的結合が優先したというだけの違いであり、事象 が本来いかなるコンテキストの内にあったかは、バーベリにとって本質的な問題ではなかったように思われる。

2−3
前節では、主に現存の創作メモの分析を通じて、バーベリの『騎兵隊』創造における基本的な方法が、原典の現実・神話・文学作品の別を問わず、これを「事 象化」し、個々の事象を帰納的ないし比喩的に結合することにあったと指摘したが、この節では特に作中人物に焦点を当てて、作品と従軍日記とを対照する。
『騎兵隊』の作中人物について明確な分類を最初に行なったのは、P. カーデンである。彼女は作中人物を「コサック」タイプと「弱者」タイプの2 種に分 け、各々のタイプが、容姿や世界観の点で互いに対照的な位置にあるとした。「コサック」タイプとは、具体的には作品Cのディヤコフ、@13@のコレスニコ フ、@15@のパヴリチェンコ、@17@のプリシチェパ、@19@のコンキン、@21@・@30@のバルマシェフほか赤軍兵士の大多数である。彼等は共通 して強健かつ美しい身体を持ち、また必ず勇敢さと残虐さを兼ね備えている。一方「弱者」タイプに属するのは、作品Dの画家アポレク、F・Hの哲学的な老古 物商ゲダリ、@14@・@33@の「キリストの」サーシュカなどである。身体に何らかの欠陥を持ちながらも、苛酷な現実に対して自らの芸術やヴィジョンを 投げかける、その存在のあり方において彼等は共通している29。カーデンのこの分類は以後多くの研究者によって踏襲され、その結果ポドテキスト(メタ ファー、モチーフの連鎖等)のレベルにおいても、「コサック」タイプと「弱者」タイプの間に厳密な対照関係の形成されていることが、次第に明らかになって きている30
ところで、上の分類を前提として、作中人物に対応する記述を従軍日記中に求めると、興味深い結果を得ることができる。「コサック」タイプについて は原型 と見なし得る人物を指摘できる場合が多い(例:ディヤコフ→D.7/13・14・16、プリシチェパ→D.7/24等)のに対し、
「弱者」タイプにはモデルが存在しないのである。
ゲダリについてはこれまで、D.7/3中に現われているユダヤ人がそのモデルとされてきたが、彼は古物商という境遇が作中人物と一致しているに過 ぎず、 たとえばその「金に汚い」性格はゲダリからきれいに拭い去られている。
作品Dの主人公、異端の聖像画家アポレクについても、日記中にその雛型と思われる人物の記述は見当らない。確かに、作品@24@『聖ヴァレントの もと で』においてアポレクの作とされている絵画のモチーフはD.8/7の記述を忠実に再現したものだが、日記では描き手についてレムブラントやムリーリョの名 が想起されているだけである。「キリストの」サーシュカに至っては、日記中にその生成の契機となるような人物やエピソードさえ指摘できない。従軍時の経験 に触発された場合があるにしても、「弱者」タイプの物語は、基本的にバーベリの想像力の産物である。
「コサック」タイプについては、日記の側から作品を見た方が、バーベリの意図を理解するのに役立つだろう。このタイプを組み立てる際に、彼が捨象 したも のを知ることができるからだ。
まず第一に指摘できるのは、騎兵隊の中で例外的な存在であり、したがって日記中バーベリが何度も注意を向けていた者が、作品においてはむしろ後景 に退い ていることである。バーベリが最も関心を払ったのは、彼の御者グリシチュク(D.7/14・19・21・24、他)と赤軍師団長カルル・カルロヴィッチ・ ジョルナルケヴィチ(D.7/11・13・14、他)の二人だった。彼等に共通していたのは共にコサックの出身ではなかったことで、バーベリは、ジョルナ ルケヴィチが「共産主義者ではなく、ポーランド人なのに、鎖につながれた犬のように誠実に勤務している(D.7/13)」こと、グリシチュクが「5年間ド イツに捕虜として抑留され、いま故郷から50露里の所にいるにもかかわらず、逃げ出さず、沈黙している(D.7/14)」ことに奇異の念を抱き、彼等がコ サック軍に留まっている理由、そのメンタリティを解明しようと試みたのだった。
ところが『騎兵隊』においては、バーベリは彼等の存在感を稀薄にしている。ジョルナルケヴィチ(Жолнаркевич)はC『軍馬補充部長』の 中に 「司令官⌒」という略式の名前でほんの数行顔を覗かせているに過ぎず、グリシチュクを主人公とした短篇は、一度新聞に発表されはしたものの、『騎兵隊』が 単行本となった際には収録されなかった。この結果『騎兵隊』の作品世界には、「語り手」リュートフを除いて、騎兵隊におけるアイデンティティを自問せざる を得ないような人物が存在しなくなった。これをコサックの「典型」が前面に押し出されてきたと言い換えても良い。
日記にはまた、クバン・コサックが他の地方出身のコサックに比べ物静かで端正なこと(D.8/11、9/3−5)、あるコサック隊長とユダヤ人副 官との 間に深い友情が結ばれていたこと(D.8/4)などの記述が見られるが、これらもまた作品には生かされていない。バーベリが従軍時に出会ったコサック内部 の特殊な事例や個性的な人物は、作品に至る過程で排除されたのである。このこともまた、『騎兵隊』におけるコサックの典型化・類型化の一環と見ることがで きる。
R. W. ハレットは『騎兵隊』を、コサックの身体性・戦士としての勇敢さを賛美するロシア文学の伝統(プーシキン『大尉の娘』・ゴーゴリ『タ ラス・ ブーリバ』・トルストイ『コサック』他)の延長線上に位置づけている31。確かに、文明に汚されていない「自然人」としてのコサックは、ロマン主義以降、ロシアの多 くの作家が好んだ文学的形象であり、『騎兵隊』の「コサック」タイプが、こうした流れの上にあることについては筆者も異存がない。
ただし、ここで強調する必要があるのは、『騎兵隊』の「コサック」タイプが結果的に上記の伝統に連なったのではなく、むしろバーベリが、「文明」 に対す るアンチ・テーゼとしての「コサック」という文学的形象を当初から意識して、その類型に当てはまるように自作品の「コサック」を創造したように思われるこ とだ。グリシチュクら非コサック系の兵士を作品から排除し、またコサック個々の個性・特殊性を稀薄にしたことに見られる通り、『騎兵隊』のコサックがロシ ア文学の伝統に接続したのは、作者の意識的な操作の結果だった。「コサック」タイプに属する人物が、互いに区別しがたく、まさしく「タイプ〓類型」に他な らないのは、彼等が実在人物よりもむしろゴーゴリやトルストイのコサックの方に、多くを負っているためである。
以上を要約すると、『騎兵隊』の作中人物の二つのタイプのうち、「コサック」は「自然人としてのコサック」という伝統的文学形象に忠実な類型であ り、一 方「弱者」タイプはバーベリの全くの創造であると言える。この観点からすると「弱者」タイプという定義はおそらく精密を欠き、私達はむしろこれを「自然 人」に対する「文明人」と呼ぶ方が適切であろう。そして前者のタイプが主として日記中の「事象」の取捨選択に、後者がバーベリの想像力にそれぞれ基づいて いることから見て、『騎兵隊』における作者の位置は「弱者〓文明人」の側に内在していると言うことができる。
なおI『ブロディへの道』@12@『ドルグショフの死』@23@『アフォニカ・ビダ』@24@『聖ヴァレントのもとで』の4編にわたって重要な役 割を果 たし、従来「コサック」タイプに属するとされてきた中で、おそらく読者に最も深い印象を与える作中人物アフォニカ・ビダについて、その言動の原型と思われ る記述が日記中に皆無であることを付け加えておく。彼については、また後で考察する。

3−1
この章では、第2の問題:『騎兵隊』を構成する諸編の相互関係、『騎兵隊』の総体としての構造について論じるが、この問題について従来多くの研究 者が言及してきた中で、相互に対立する最も明確なモデルを提示したのは、P. カーデン(1972年)とJ. J. ファン・バーク(1983年)であ る。
カーデンは、『騎兵隊』の諸編が時間的・地理的な継続性に基づいて配列されていないことを重視した。『騎兵隊』は各編を最小単位として成り立って いる が、作品相互の間に首尾一貫した展開が欠けているため、主人公(語り手リュートフを指す)の認識には第1編から第34編に至るまで深化も発展も認められな い。このため『騎兵隊』を連作の形を取ったnovelと見なすことはできないと言うのがカーデンの主張である。彼女は諸編の相互関係を[A〓B〓C]と公 式化し、また『騎兵隊』の総体としての構造を「サイクル」という用語で言い表わした。サイクルにおいては、各作品は基本的に同一の主題の変奏曲、言い換え れば反復である。したがって『騎兵隊』には始まりも終わりもないと言える32
これに対しファン・バークは、『騎兵隊』の構造は本質的に「novel‐like」であり、各編の相互関係は[A→B→C]であると主張した。彼 はF 『ゲダリ』H『師父』@34@『師父の子』3編の間に見られる移相を語り手リュートフの自己認識の深化と見なし33、間に多 くの作品が挿入されているため一貫しているとは言えないながら、これらの作品の間には発展と呼び得るものがあるとした。彼はまた厭戦感や戦争の悲惨を描い た作品が『騎兵隊』の後半に集中し、最終第34編において赤軍の潰走が記されていることを指摘して、戦況のchronologyは作品世界においても、ご く漠然とした形ながら保たれていると考えた34
カーデンはその翌年(1984)、ファン・バークの主張に対し再反論を試みるように、『騎兵隊』の構造について「空間性 (spatiality)」・ 「現在性(presentness)」という概念を導入した35。『騎兵隊』諸編は歴史的時間や地理的な正確さと有機的に関わっていないため、それぞれが 「今現在」のこととして認識される。そして34編の「現在」の並列が完結した瞬間に、全体としてのサイクルが読者の意識裡における個々の作品の配置を逆に 定義すると言うのである。ファン・バークの主張における『騎兵隊』作品世界の完結性という考えを受け入れながらも、それをchronologyの文脈から 引き離すことによって、カーデンは部分と総体の間の相互影響を新たに視野に入れ、「サイクル」説の補強を図ったと言える。
本稿においても、カーデンとファン・バークによって提出された概念を手がかりとして、『騎兵隊』の構造を探ることにする。ただしここで留意する必 要があるのは、両者の論考が専ら単行本における収録順序を対象とし、諸編の初出時の組み合わせを視野に入れていないことだ。私達はまず、単行本化の際の 『騎兵隊』諸編の再配列の意味について考えてみる必要がある。

3−2
1926年に一冊にまとめられるまでに、『騎兵隊』諸編が、いつ、いかなる機関に、どのような組み合わせで発表されたかを、まず整理してみよう。
『騎兵隊』に属する作品が活字になったのは、「オデッサ報知(イズベスチヤ)」361923年2/11号にB『手紙』が掲載されたのが最初である。以後1923年末まで『騎兵 隊』諸編は、専らこの非文芸地方紙に断続的に発表された。すなわち、2/18号に「“騎兵隊から”」という副題を付してA『ノヴォグラドのカトリック教 会』、2/23号に「“騎兵隊”から」という総題の下に@11@『機関銃車について』・単行本未収録の『グリシチュク』・@16@『コジノの墓地』、 3/20号に@30@『裏切り』、4/13号に@18@『ある馬の話』37、5/1号に「“騎兵隊”から」という副題を付して@12@『ドルグショフの死』、6/17 号に「“騎兵隊”から」という総題の下にI『ブロディへの道』・@17@『プリシチェパ』、7/15号に「“騎兵隊”から」という副題を付して@28@ 『寡婦』38、 11/25号に「“騎兵隊”から」という副題を付して@21@『塩』が、それぞれこの新聞に掲載されたのである。
バーベリは、新聞に1、2編ずつ載せるというこの形式に不満を抱いていたようである。彼は1923年4月17日付で、旧友に宛て「金のために地方 のイズ ベスチヤに幾つかの下劣な断片を印刷した。下劣というのは、ただそれらが断片に過ぎないからだが。」39 と書き 送っている。けれどもこの手紙を根拠に、バーベリが首尾一貫したnovelを構想していたと考えるのは当たらない。「オデッサ報知」発表の作品には、いず れも「コサック」タイプを主人公としているという共通点があるとは言え、しかしこれらをどう結びつけてみても、一貫した筋立てを想定することはできないの である。思うにバーベリの上の不満は、彼の構想すべてが1冊にまとめられるまでは解消し得ない性質のものだったのではないだろうか。
1923年末からは、バーベリの発表の舞台は中央文芸誌に移っている。すなわち「レフ」GGGUSRAA02Ν4.(8−12月号)に「“騎兵 隊”か ら」という総題の下にB『手紙』・@12@『ドルグショフの死』・C『軍馬補充部長』40・@13@『第二旅団長』41・@17@『プリシチェパ』・@21@『塩』が発表されたのである。このうち下線を付したも のは「オデッサ報知」からの再録だが、言うまでもなく中央の読者は、この号によって『騎兵隊』という作品に初めて触れたのであった。新出のC・@13@も また再録4編と同様「コサック」タイプの作品だったから、この時期の批評で『騎兵隊』が国内戦の記録文学として取り扱われたのは、当然と言えば当然であ る。なお1923年末には、この他にD『アポレク様』が「赤い処女地」Ν7.(12月号)に発表されているが、これは「ミニアチュール」という総題の下 に、一種の芸術論小説である『線と色』と併せて掲載されたものである。したがって作品Dが『騎兵隊』系列の作品か否かは、単行本に収録されるまで、必ずし も明らかではなかったと言える。
1924年前半は『騎兵隊』諸編が最も集中的に発表された時期であり、その主な舞台は「赤い処女地」誌だった。すなわちΝ1.(1/2月号)に 「“騎兵 隊”から」という総題の下に@23@『アフォニカ・ビダ』・@14@『キリストのサーシュカ』・H『師父』・@34@『師父の子』が、Ν3.(4/5月 号)にはやはり「“騎兵隊”から」という題を冠してE『イタリヤの太陽』42・@18@『ある馬の話』・@24@『聖ヴァレントのもとで』・@28@『寡婦』・@20@ 『ベレステチコ』・@19@『コンキン』・@31@『チェスニキ』・@29@『ザモスチエ』・@27@『ある馬の話の続き』43 が掲載 されたのである(下線部は再録)。「赤い処女地」には、さらにΝ4.(6/7月号)にも「“騎兵隊”から」の副題を付してF『ゲダリ』が掲載された。この 時期その他の雑誌には1編ずつ掲載されただけ(「ロシアの同時代人」44Ν1.に@26@『イヴァン達』(“騎兵隊”から)、「レフ」Ν1.にG『私の最初のガチョ ウ』45、 「プラウダ」8/3号に@『ズブルーチ河を越えて』)であることを考えると、バーベリが「赤い処女地」編集長ヴォロンスキイのいかに強力な支持を受けてい たかが窺われよう。
1924年後半からは、作品の発表数が著しく減り(「探照灯」46Ν20.(10月号)に@32@『たたかいの後で』(“騎兵隊”から))、またオデッサの雑 誌へも再び寄稿している。(「疾風」47Ν8. (12月号)に@15@『パヴリチェンコ、マトヴェイ・ロジオーヌィチの一代記』48
そして1925年「赤い処女地」Ν2.(2月号)に@25@『中隊長トルーノフ』(“騎兵隊”から)、Ν3.(4月号)に「日記から」という総題 の下に @33@『歌』49・ @22@『夕べ』50・ @『ズブルーチ河を越えて』が掲載されたのを最後に、『騎兵隊』諸編の発表は完了し、その後1年程の期間を経て単行本の刊行に至っている。以上が『騎兵 隊』諸編の発表経緯のあらましである。
この経緯を作中人物の二つのタイプに即して言えば、「オデッサ報知」の時期には「コサック」タイプを取り扱った作品が発表され、この傾向は 1923年末 の「レフ」Ν4.にも引き継がれた。続いて1924年前半に「赤い処女地」を舞台に「文明人」タイプの作品が集中的に現われ、その後再び「コサック」タイ プへの傾斜が見られた − と要約できる。1924年後半以降のこの「コサック」への帰還には、既に触れたブジョンヌィ批判が少なからず影響しているだろ う。
言い換えれば、『騎兵隊』諸編の初出時の組み合わせには、時期別・発表機関別に或る程度の統一性があったのである。この点で最も顕著なのは、再録 も含め て「コサック」タイプの性格・エピソードを扱った作品をまとめた「レフ」23年Ν4.と、「文明人」タイプのみを集めた「赤い処女地」24年Ν1.であ り、また「赤い処女地」24年Ν3.には厭戦感の濃厚な諸編が集中している。姉妹編たる作品Hと@34@、@18@と@27@がそれぞれ同じ号に掲載され ていることも、こうした統一性の一例だろう。バーベリは、その極度の遅筆から見ても、おそらく編集部の要請によって原稿を完成後ただちに雑誌側に渡してい た可能性が高い。したがって、バーベリはある程度「タイプ」別・テーマ別に作品の執筆を進めていたと言うことができそうである。
初出時に大多数の作品に地名と日付が付されていたことは既に述べたが、この観点から見た場合には次のようなことが指摘できる。すなわち、同一紙に おける 発表順序、同時掲載の際の収録順序には、作品をバーベリがソ〓ポ戦争に従軍していた間の時間の流れに沿って配列するという配慮が見られる。(1923年 「オデッサ報知」に単発的・断続的に発表された作品群、「赤い処女地」24年Ν3.に同時掲載された作品群51)けれど も発表経緯の全体を見渡した場合には、たとえば[20年6月]の日付が付されているF『ゲダリ』が、[20年9月、ガリツィアにて]との奥付のある @27@『ある馬の話の続き』よりも後に発表された等の例も少なくなく、バーベリがソ〓ポ戦争の展開に沿って作品を執筆・発表したと考えるのは困難であ る。日付や地名は『騎兵隊』諸編における記録文学の外観を強めるための文学的仕掛であり、バーベリは、読者に与えるauthenticityの錯覚を弱め ることを避ける目的から、複数の作品が同時掲載される場合に、それらを奥付の時間的順序に基づいて配列したに過ぎないのである。このことからも、『騎兵 隊』は、既に初出時の段階から、時間的・地理的な軸ではなく、主に「タイプ」やテーマの別に基づいて執筆されていたと考えることができる。
こうして1925年4月までに出揃った諸編が1年後に『騎兵隊』として一冊にまとめられたこと、その際のバーベリの最大の関心事が作品の配列順序 にあっ たことは既に述べた通りだが、バーベリはこの単行本における配列において、「タイプ」やテーマの一貫性を可能なかぎり破壊しようと努めたように見える。こ の傾向は『騎兵隊』の特に前半部分に顕著であり、そこでは作品B・C・E・G・@13@・@15@・@17@が明確な「コサック」タイプを主人公にしたも の、D・F・H・@14@・@16@が「文明人」タイプを中心に据えたものというふうに、明らかに作中人物の2タイプが交互に登場するように仕組まれてい る。
後半部においては、作品@33@・@34@を除いて「コサック」タイプの登場する作品が主流だが、これは一つには「文明人」タイプの作品の絶対数 が少な かったためだろう。また「コサック」タイプの作品とは言っても、後半部に収録されているのは、人物の英雄性や残虐さを露出するよりも、むしろ戦争それ自体 の悲惨さに重点を置いたものの方が多い。既述の通り初出時には併録されていた姉妹編Hと@34@、@18@と@27@が、単行本において遠く分断されてい ること、時間的・地理的にも登場人物の点からも継続している作品FとHの間に典型的な「コサック」タイプの登場する作品Gが挿入されていることなどから も、単行本におけるバーベリの意図が、展開の首尾一貫性の破壊にあったと考えられるのである。
以上の経緯を念頭に置いて、第1節に見たカーデンとファン・バークのモデルに再び戻るなら、私達は、特にカーデンが1984年に提出した「現在 性」とい う用語の有効性に思い当たるだろう。作品初出時における時間的・地理的継続性の軽視、単行本の配列における「タイプ」やテーマの一貫性の破壊、さらには 遡って第2章・創作メモの考察に見た「事象」の帰納的な結合という構想の方法までも視野に入れれば、『騎兵隊』の成立過程において、バーベリは一貫してこ の「現在性」を志向していたと言える。
確かにファン・バークが「novel‐like」説の根拠とした2点 − 戦況のchronologyの作品世界における維持、作品F・H・ @34@に おける発展 − は、それ自体誤りではない。けれども赤軍騎兵隊のポーランド侵入から敗走までの過程は、『騎兵隊』の世界において順序立てて展開されてい るとは言えず、当時の読者がなお国内戦の記憶を鮮明に抱いていたことを計算に入れて、ただその大枠が示されているに過ぎない。そして、この漠然とした枠組 の内に置かれた諸編は、初出時の順序・組み合わせが単行本において崩れていることから見ても、明らかに相互に置き換えが可能であり、つまり本質的に横並び なのである。F『ゲダリ』・H『師父』・@34@『師父の子』における発展も、単行本において前半部と末尾とに遠く隔てて配置されていることから見て、作 者自身、この3編における「novel‐like」の印象を稀薄にする意図があったと考えなければならない。
とは言え、『師父の子』の最終編という位置が、『騎兵隊』全体における上記3作品の比重を相対的に高めていることは否定できない。私達は以下に、 『騎兵 隊』の作品世界全体において諸編〓「現在」がどのような空間的配置を形成しているかを考察するが、上記3編のnovel‐likeな展開は、この配置の中 に組み込まれる必要がある。

3−3
前節において「赤軍のポーランド侵入 − 撤退」の枠内で『騎兵隊』諸編が相互に横並びの関係にあることを指摘したが、ここで留意する必要があるのは、 読者が本を普通巻頭から読んでいくものだという簡明な事実である。『騎兵隊』中のいったい何が、第1編から34編までが順番に収録されているシークエンス に抗して、各作品の並立関係を読者に認識させているのだろうか。
この点についてD. メンデルソンほか多くの研究者が指摘しているのは、『騎兵隊』における「モンタージュ」の技法である52。個々の 作品は、ストーリーの垂直的な展開とは別に、ポドテキストの様々なレベルにおいて、イメージ・モチーフ・メタファー等の「断片」に分割される。そしてこれ らの断片は、個々の作品の垣根を越え、他作品内の同一・類似の断片と、読者の脳裏で互いに結びつくというのである。確かに、長期に渡って文字通り断片的に 発表されたにもかかわらず、『騎兵隊』には複数の作品に共通するイメージ・モチーフ・設定等が少なからず存在し、総体としての『騎兵隊』が読まれていく シークエンス、或いは『騎兵隊』の後半部にとりわけ顕著な敗戦への流れに対して、複数の作品を平行に結びつける機能を果たしている。
このような「平行機能」を担う中で、特に本稿において注目されるのは、作中人物の2タイプ(「コサック」と「文明人」)を、それぞれ相互に結びつ けてい る諸要素である。第2章において従軍日記と作品との関係を考察した際に、前者が日記中の記述に多く基づき、後者がほとんど基づいていないという、極めて対 照的な結果が得られているからだ。
『騎兵隊』の無数の登場人物を作品横断的に上記2タイプに収斂させている諸要素については、従来多くの研究者がこれを取り扱い、明らかにしてき た。ただ し「コサック」タイプと「文明人」タイプの各々において、その相互の結びつき方の間に質的な相違があることは、これまであまり指摘されてこなかったように 思われる。
「コサック」タイプを互いに結びつけているのは、このタイプに属する人物の語り口の共通性と、容姿等のディテールの一致である。軍隊風・民話風お よび ジャーナリスティックな統辞法や語彙が巧みに混淆された彼等の語り口・手紙の文体、あるいは色彩豊かなその服装、神話的なまでに英雄的な身体美を示すディ テールは、ほとんど例外なく『騎兵隊』中のすべてのコサックに共通しており、そのため読者は、名前の他には、彼等を区別するための指標を持つことができな い。作中のコサック達が「タイプ」として成立しているのは、主として、その極度の類似性による。
これに対して「文明人」タイプを結びつけているものは、ディテール等の単純な一致に留まらない。このタイプに属する人々、或いは彼等に関係するモ チーフ は、作品の枠を越え、複雑に連鎖し合って、重層的な呼応関係を形成している。この連鎖の核にあるのは、具体的には「蜂」「イエス・キリスト」「洗礼者ヨハ ネ」「漁師/使徒」のモチーフである。
上のうち、『騎兵隊』を読み進める中で最初に現われるのは、D『アポレク様』における「洗礼者ヨハネ」である。語り手リュートフは、ノヴォグラド の逃亡 したカトリック神父の家で、画家アポレクの手になる「洗礼者の死」と題する聖像画を目にする(стр.18)。作品Dにはまた、アポレクがリュートフに語 るアポクリフの中に「蜂」と「キリスト」も登場し、「ヨハネ」のモチーフと呼応している。そのアポクリフとは次のようなものである。若いイスラエル人との 婚礼を挙げた娘デボラが、初夜を恐れるあまりに宴席で食べたものをすべて嘔吐し、満座の中で恥辱にまみれる。哀れに思ったイエスはデボラと一夜を共にし、 やがてデボラには初子が生まれる……娘の名「デボラ」はヘブライ語で「蜂」を意味するが、「蜂」と「イエス」の連鎖は、これに留まるものではない。交合の 後のイエスの様子は「イエスだけは一人離れて立っていた。死の汗が体の上に滲み出、悲しみの蜂が心臓を刺した。誰にも気づかれずに、彼は宴の席を出、ヨハ ネの待つユダヤの東の荒野へ赴いた。」(стр.24)と記されている。
I『ブロディへの道』では、コサックによる蜜蜂の巣の破壊53 を嘆くリュートフを慰めるため、アフォニカ・ビダが蜂とキリストに関するフォークロアを語 る(стр.39)。それは、十字架上のイエスを羽虫達が苦しめる中で、イエスが大工の出だからという理由で、蜜蜂だけは彼を刺すのを拒んだというもので ある。アフォニカのこの物語は従来、伝統的に「勤労」の象徴である蜂が、やはり勤労階級の出であるイエスを苦悶させるに忍びなかったのだという風に解釈さ れてきたが、むしろ、D『アポレク様』における「デボラ〓蜂」とイエスとの交合の延長線上に位置づけられるべきである。フォークロアを語り終えた後、ア フォニカ・ビダがやや唐突に、聖ヨハネ首祭りの日(原文:день усекновения главы)に小馬が昇天する物語を歌う(стр.40)理由も、「蜂―イエス―ヨハネ」の連鎖を視野に入れないかぎり、理解することは難しい。
「イエス」と「ヨハネ」の連鎖は、@24@『聖ヴァレントのもとで』においても、やはりアポレク作の絵の主題として繰り返されている54。コサッ クの掠奪を受けた教会の本堂に掛かっていた絵のモチーフは、次のようなものである。「十二人の教父達が、リボンで巻いた揺籃に寝ているふっくらした赤児イ エスをあやしている……赤児の足の爪は広げられ、体にはワニスで描いた朝の熱い汗が浮かんでいる。赤児はしわくちゃの脂ぎった背中を見せて身をもがいてお り、枢機卿のかぶるような冠を戴いた十二人の使徒達は、じっと揺籃の上に屈みこんでいる。」(стр.87)(これがD.8/7中の記述に基づいているこ とは既述の通りである。注18参照。)また同じ教会の内陣の扉には「洗礼者ヨハネの絵が見られた」(стр.88)とある。
作品@24@における「揺籃の中の赤子イエス」のイメージは、@14@『キリストのサーシュカ』にも現われている。この作品は、題名にもなってい る主人 公の通称、彼の父親が町で大工を稼業としていたこと、主人公の入隊以前の職業が牧夫だったことなど、『騎兵隊』の中でも聖書とのパラレルが最も顕著なもの の一つだが、サーシュカが或る夜に見た夢は次のように記されている。「空からするすると二本の銀のひもが下がってきたかと思うと、それが撚り合わさって一 本の太い糸になる。糸の先には揺籃が一つ結わえつけてある。それは薔薇色の木でできた揺籃で……地面よりはるか上の、空からも遠い所で静かに揺れている。 銀の糸も揺れ動きながらきらきら輝く。サーシュカは揺籃の中に横たわり、微風が彼を包みこんでいる。」(стр.52)55
「キリストの」サーシュカは@33@『歌』にも登場するが、そこでは彼は、語り手リュートフに威嚇された女主人を慰めるため、彼女と一夜を過ごし てい る。これは明らかに、D『アポレク様』において語られたアポクリフの再現である。
作品@33@にはまた、サーシュカとリュートフに歌を教えた者として、ドン河口の禁猟区の漁師が登場する。「言い伝え得ぬほど豊饒に魚の生まれ る」 (стр.125)この地域に網を打つ漁師は、「キリストの」サーシュカとの連想において、使徒の一人と見なされよう。この「漁師/使徒」のイメージは、 上に引用した作品@24@の絵のモチーフ、またH『師父』中のハッシド派教徒の記述にも現われている。「片隅では肩幅の広いユダヤ人達が、祈祷書の上に屈 みこむようにして、なおも唸っていたが、彼等は漁師のようでも、また使徒達のようでもあった。」(стр.36)56
以上に見たように、当人達の類似性によって互いに結びついている「コサック」タイプとは異なり、「文明人」タイプは、複数のモチーフの複雑な連鎖 の中 に、まるで衛星のように配置されている。上に引用した記述がすべて、既に雑誌初出時に見えていることから考えて、バーベリはこの連鎖を、各作品が断片的に 発表されていた段階で、既に意識的に構築していたのだと考えられる。ただし、ハッシド派教徒が十二使徒に譬えられている例に典型的に現われているように、 「文明人」タイプのこの重層構造が、何らかの既存の神話的価値観に立脚しているとは考えにくい。バーベリは、実在人物をモデルに聖像画を描いた「アポレク 様」さながらに、聖書・神話・フォークロア・アポクリフを任意に駆使して、上の複雑な連鎖を作り出したのであった。したがって重視すべきは、「文明人」が 連鎖に組み込まれていること、連鎖の存在それ自体であると言える。
なお、上の連鎖において、従来「コサック」タイプに分類されることの多かったアフォニカ・ビダが、大きな役割を担っていることは重要である。確か に彼自 身の行動様式は、馬に対する執着(@23@『アフォニカ・ビダ』)、殺害・掠奪といった残虐行為(@12@『ドルグショフの死』・@24@『聖ヴァレント のもとで』)等、「コサック」タイプのそれである。だが、その一方で彼は、作品Iにおいて「蜂―イエス―ヨハネ」のモチーフを導入し、また作品@24@に おいては、教会掠奪の先頭に立ち、上に見た「揺籃の中の赤子イエス」の絵を引き出す「狂言廻し」の機能を果たしている。既に触れたように彼が従軍日記中に 雛型を持たず、また@23@『アフォニカ・ビダ』が初出時にH『師父』@14@『キリストのサーシュカ』等と同時に掲載されていることから考えると、イ ディッシュ語で「ロシアの不幸」を意味する象徴的な名を持つ57 この人物は、むしろ「文明人」タイプを結ぶための触媒と見なされるべきである。

3−4
「コサック」と「文明人」両タイプの対照は、バーベリ研究者によって、これまで様々な用語によって表現されてきたが、M. エーレによる< <epic‐heroic>>モードと<<pathetic>>モードの対照という定義58 は、と りわけ示唆的である。叙事詩や英雄譚は動的に展開することをその筋立ての基本とするが、『騎兵隊』中の「コサック」達もまた、ポーランドという異郷におい て転戦を重ねている。「コサック」タイプのこの動的展開につれて、「文明人」タイプの幾つかの固定された静的な小世界が、読者の視界に現われては消えてい く − これが『騎兵隊』の根本的な構造であると、エーレは主張している。『騎兵隊』において、時間的・地理的な整合性が寸断されているにもかかわらず、 「ポーランド(異境)への侵入 − 脱出」という枠組が維持されていることは、エーレのこの定義の有力な根拠となるだろう。
私達はこれまでに、「コサック」タイプが「自然人としてのコサック」というロシア文学の伝統的形象に多くを負っていること、また彼等が互いに酷似 するこ とによって個性を稀薄にし、類型と化していることを指摘した。1905年以降のロシアの動乱、とりわけ1917年の革命を、「西」に対する「東」の蜂起、 「文明」に対する「自然〓стихия」の氾濫と見なすことは、当時の多くのロシア知識人の心を捉えていた観念であったが、『騎兵隊』の構造は、この20 世紀初頭の支配的思潮を基本的に踏襲している。固有性を持たない類型としての「コサック」は、「自然人」と言うよりもむしろстихияそのものと化し て、「西」〓ポーランドに点在する「文明」の破壊に赴いているのである。
一方、「文明人」タイプが全面的に作者の想像力に基づいていること、彼等がモチーフの重層的な連鎖によって互いに結びついていることを前節で指摘 した が、このタイプに属する3人の作中人物は、それぞれ『騎兵隊』中に登場する三つの文化圏を象徴している(画家アポレク〓ポーランド・カトリック文化圏、ゲ ダリ〓ユダヤの伝統、「キリストの」サーシュカ〓コサックの世界)。もっとも、カトリック教会や神父、旧態依然のユダヤ人達に対する揶揄や皮肉が『騎兵 隊』の随所に現われていることから見ても、バーベリは、各文化圏の権威や正統派には好意を示していない。彼が共感を込めて描き出すのは、教会から激しく非 難され、アポクリフを語る画家アポレク、ユダヤ世界の神秘家であるゲダリ、コサックの中の非戦闘者・歌い手である「キリストの」サーシュカなど、必ずやそ の属する世界における異端である。
1916年のエッセイ『オデッサ』59   で身体性の讃歌の必要性を主張したバーベリにとって、「文明に対するアンチ・テーゼとしての自然」という概念それ自体は、肯定されるべきものだったと考 えられる。ただし「コサック〓自然」は、バーベリにとって、外側から把握するより他ないものであった。彼がユダヤ的伝統の残る家庭に生まれ育ち、西欧文化 の強い影響下に文学的素養を身につけていたからである。『騎兵隊』の創造過程を見る時、作者バーベリが「文明人」の側に内在していたことは歴然としてい る。
バーベリは、本質的に「文明」の側に属しながら「自然」の氾濫を待望するという、アイロニカルな位置に立っていた。「自然による文明の破壊」を主 題とす る『騎兵隊』において「文明人」タイプは、ごく少数であるにもかかわらず、圧倒的な「コサック〓自然」に対抗しうるだけの存在感を示しているが、これは、 文明世界における異端であるアポレク・ゲダリ・「キリストの」サーシュカが、「文明」の辺境に自己を位置づけたバーベリの位相を、何程か反映しているため である。
以上に見てきたように、『騎兵隊』の用いている世界観それ自体は、20世紀初頭のロシア知識人に一般的なものであり、この点にバーベリの高い文学 史的意 義を見い出すことは困難である。彼の独創は、或る意味で常識的なこのイデーを、文中に明記するのではなく、作品世界の構造そのものに内在させたことにあっ た。「自然」と「文明」の相克という抽象的な理念を空間的に配置する場合、それは寓話性への著しい傾斜を伴いがちだが、この弱点を、1920年の現実と表 面的には関連づけることによって、或る程度克服したこともまた、『騎兵隊』の画期的な点と言えるだろう。
バーベリは本質的に“мастер”〓アルチザンであり、認識や世界観を新たに展開することを、自己の課題として設定してはいなかった。むしろ、 文学が 思想の領域と大きく重複しているロシアの文学風土の中で、思想そのものをも「事象」〓素材と見なす、自覚され徹底した職人的なあり方にこそ、バーベリの意 義を指摘できるのである。
ただし、この世界観の相対化という方法は同時にまた、バーベリ文学の更なる展開を阻む要因でもあった。最後にこの点について、『騎兵隊』に即する 形で触 れておきたい。

4
M. シュルーズは、『騎兵隊』を「多声的(ポリフォニック)」であると定義した。彼は「『騎兵隊』は衝突する様々な世界観の戦場である。コサックのプ リミティヴィズムと軍隊的プロフェッショナリズム、ユダヤ教、カトリシズム、ロシア及びポーランドの民族主義等が、意味深い“対話”の中に巻き込まれてい る……『騎兵隊』は革命の世界をイデオロギーの十字路として描き出している。」60  と述べているが、これは、『騎兵隊』におけるバーベリの意図(作品世界における「自然人 〓コサック」タイプ、および三つの文化圏を象徴する「文明人」タイプの空間的な配置)の適切な要約である。
けれども、バーベリの上の意図が『騎兵隊』において実現されているとは、実は必ずしも言えないのだ。文学作品が真に「多声的」であるためには、作 品内部 の複数の発話がそれぞれ、作品外部に存在する広義のイデオロギーの反映である必要があるが、『騎兵隊』創造の過程に一貫していたのは「事象化」の方法であ る。バーベリの創造は、第2章に見た通り、作中に用いる要素を作品外部の関係性から遮断することを前提としていた。イデオロギーの下部構造(イデオロギー が本来属している関係性)を対象とする場合もまた例外ではなく、それは創作の過程で、作者の試行錯誤のための素材へと一度解体されている。『騎兵隊』にお ける「コサックのプリミティヴィズム」「ユダヤ教」「カトリシズム」等すべてのイデオロギーは、バーベリの帰納的な模索によって再構成されたもの、イデオ ロギーの影絵に過ぎない。それらは、作品世界において自律した価値体系を保持しておらず、むしろ作品構成の不可欠の要素として機能している。
『騎兵隊』は、文体の多様性やモチーフの重層性にもかかわらず、「多声的」ではない。作品内の多様な発話が外部のイデオロギーを反映しておらず、 あげて 作者の模索に従属しているからだ。シュルーズの上に引用した見解は、発話とイデオロギーの対応を論証なしに想定しており、バーベリの「事象化」の過程を看 過している。『騎兵隊』の種々の発話は、言ってみれば一人の人間による声色の巧みな使い分けのようなものである。『騎兵隊』には「対話」はなく、ただバー ベリという、おそろしく音域の広い単一の声が響いている。
既に述べたように「事象化」は、『騎兵隊』諸編の「現在性」、及びそれらの配置の「空間性」の前提条件だった。『騎兵隊』がおそらくは作者の意図 に反し て「多声的」たりえなかった理由が、同じこの「事象化」に由来していることは、『騎兵隊』の根本的なジレンマを感じさせる。
私達は、バーベリが素材収集の目的から従軍したことを、ここで改めて想起する必要があるだろう。日記に何を記載するかという取捨選択において、彼 は将来 の創作に必要な事項だけを書き留めた。「イデオロギーの十字路」たる国内戦の戦場で、他のいかなるイデオロギーとも交差しない「文学」という立脚点に基づ き、傍観者の立場を貫いたのである。日記を綴るバーベリの眼前には、各々固有の関係性を備えた、多様な人物や出来事が現われては消えていったが、対象の多 様性は、それらが素材として捉えられるかぎり、「多声性」につながることは決してない。主体の側に何らかの価値観が存在しない以上、肯定するにせよ否定す るにせよ、他者との間に「対話」は成立しないからだ。1920年のソ〓ポ戦争において、バーベリは一個の「カメラ・アイ」であることに終始したが、自身の 内にイデオロギーを持たない無色透明な視点は、逆説的ながら、多様な対象を自らの機能に従属させてしまうのである。
以上に述べたようなジレンマ、ないし逆説は、『騎兵隊』中においては、主要な語り手リュートフの位置に、最も顕著に現われている。『騎兵隊』の作 品の多 くが、このリュートフの視点から語られ、或いは彼の関与をその枠組としている61  のだが、作者バーベリと境遇や容姿など多くの点で一致しているこの語り手は、作中におい て人格と呼ぶべきものを付与されていない。『騎兵隊』の世界には「コサック」タイプと、種々の「文明人」タイプの、大きく分けて2種のイデオロギーの影絵 が交互に前面に出てくるが、リュートフはそれらにさえ、ただ受動的に反応するだけであり、両タイプに対し何ら能動的に切り結ぶことがない。
概して、『騎兵隊』の二つの価値観は、葛藤することがないのである。それぞれの基調に沿った作品は交互に配置されていて、同一の作品の中で両タイ プが衝 突することはごく稀である。残虐行為の起こる場合にも、その当事者の一方は必ず非人格化されており、読者に抽象的な印象をしか与えない62 。
リュートフの存在は『騎兵隊』において、異質な擬似価値体系が葛藤することを回避するための、緩衝点の役割を果たしている。互いの間の有機的なつ ながり を寸断されている34編の「現在」は、語り手リュートフを中心として「空間的」に配置されているが、しかしこの『騎兵隊』作品世界の焦点は、それらを統合 する原理を欠いた「O(ゼロ)」なのである。
このようなリュートフの位相は、明らかに従軍時のバーベリの位相を反映しているのだが、両者の違いは、当然のことながら、バーベリが『騎兵隊』の 作者で あるのに対し、リュートフが『騎兵隊』中の一機能に過ぎない点にある。ファン・バークが「novel‐like」の根拠として指摘したF『ゲダリ』H『師 父』@34@『師父の子』におけるリュートフの自己認識の深化も、それらが34編中の3編に過ぎず、しかも遠く分断されているため、『騎兵隊』の世界全体 を統括するには、あまりにも軽量である。バーベリはあたかも、自分の分身たるリュートフもまた、国内戦の激しい現実の中では「エピソードに過ぎない」 (стр.129)と言おうとしているかのようだ。
『騎兵隊』において、語り手リュートフが自身の価値観を持たない「視点」であり、作品世界の諸要素を統括する機能を欠いていることは、素材収集の ために 従軍したバーベリの「観察者」としての自己限定、すなわち国内戦の現実における種々のイデオロギーの錯綜の中での「0」としての自覚を反映している。だが 「視点」と化した自己は、「0」であるそのことによって無限に拡大する。自身のイデオロギーを持たない「視点」は、異なるイデオロギーと葛藤することな く、それらをただ空間的に配置してしまうが、これは言い換えれば、「視点」が諸々のイデオロギーの配置される空間それ自体になるということである。「視点 〓0」は一切の限定を免れ、接するすべてを自身に内包して、そして自らは決して変化することがない。
『騎兵隊』の成立過程においてバーベリに起こったのは、正にこのようなことであった。作中の「コサックのプリミティヴィズム」「ユダヤ教」「カト リシズ ム」等は、作者の規定したコンテキストの内部にあるリュートフにとっては現実だが、しかし作者の立場に即して言えば、すべては彼の文学的自己という無色の 幕に映る幻像に過ぎない。したがって本稿において導き出される結論は、第1章2節で引用したポロンスキーの「作者自身とその世界観について書かれた本」と いう『騎兵隊』の定義にきわめて近いのだが、ただし、この「視点」たることを決意した作者の世界観は、他の世界観との葛藤を予め回避して、その等質な空間 をどこまでも拡張してしまうのである。
『騎兵隊』における「視点」としてのリュートフの位置は、彼が「表現者」としての自覚を述べる『師父の子』中の記述「古代の血を引く肉体に、自分 の想像 力をやっとの思いで混ぜ入れている私」(стр.129)によって辛うじて正当化されているが、バーベリが単行本化の際にこの一節を全編の最末尾に置く必 要があると判断したことは、「0」と定義された自己が無限に拡大してしまうという『騎兵隊』のパラドックスをよく示している。『騎兵隊』を読み進めてきた 最後に上の一節に突き当たり、すべては語り手によって「これから」語られるのであることを知らされた読者は、再び第1編へと戻ることを強いられている。 『騎兵隊』は、その作品世界の存在それ自体が一種の自己撞着であり、或いは果てしない循環に陥っているとも言える。
無限に拡大し、どこまで対象を広げようとも、作品と等価となってしまう「0」としての自己 − 或いはこれは、バーベリに限らず、創作主体の絶対 性を確 信できなくなったモダニズム文学者が、共通して陥ったパラドックスだろう。彼等の多くは、絶対的な意匠をまとったイデオロギー(共産主義、ナチズム等)に 同一化することによって「自己」という牢獄からの脱出を図ったが、職人としての自覚に徹していたバーベリは、決して作品の外部に出ることのない自己のこの 堂々巡りから、終生、抜け出すことはできなかったように思われる。1926年の『騎兵隊』刊行後、極度に寡作となった彼がわずかに成功し得たのは、そのほ とんどが自伝的な系列に属する小品ばかりだった。

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