SLAVIC STUDIES / スラヴ研究

スラヴ研究 45号

富田武 著『スターリニズムの統治構造』 を 読む

塩 川 伸 明

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− 注 −

* 富田武『スターリニズムの統治構造−1930年代ソ連の政策決定と国民統合』岩波書店、1996年。
1 この点に関する私見については、塩川「盛期スターリン時代」田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編『世界歴史大系・ロシア史』第3巻、山川 出版、1997年、 211-221頁で述べたので参照されたい。なお、この論点に関し、著者は「『スターリニズムの統治構造』書評後の感想」(ソビエト史研究会会報、 1997年6月)で、合評会における私の発言への回答を提出している。ごく短い非公式の文章なので、ここで再反論するのは控えるが、この回答を読んでも私 の疑問は解消されなかったことを記しておく。
2 和田春樹「ソ連における反ファシズムの論理」東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会』第8巻、東京大学出版会、 1980年。
3 なお、コトキンは、英文で書かれたほとんどすべてのソ連史教科書は「大後退」論に則っているとの誇張に立って、土地や生産手段の私的 所有が復活しなかった のだから「後退」とはいえないとしている。これは「大後退」論を極度にカリカチュアライズした上での批判である(一体、誰が私有の復活がなかったのを知ら ないというのだろうか?!)。彼は続いて、ナショナリズムや家族の復権は「社会主義建設の課題から社会主義擁護へ」という戦略的重点移行によると述べてい るが、これはまさしく、本文で記した「大後退」論(そのありうべき種々の解釈のうちの有意味なもの)の主たる内容と重なる。コトキンは表口から追放したも のを裏口から密輸入している観がある。 Stephen Kotkin, Magnetic Mountain: Stalinism as a Civilization, University of California Press, 1995, pp. 356-357.
4 この点については、内田健二の書評(『週刊読書人』1997年3月21日)も触れている。
5 Вопросы истории. 1996. 11-12. С. 150.
6 横手慎二「ソ連外交の『転換』」溪内謙、荒田洋編『スターリン時代の国家と社会』木鐸社、1984年、162-164頁参照。
7 前掲書評も、同様の指摘をしている。Вопросы истории. 1996. 11-12. С. 149-151.
8 Девис Р., Хлевнюк О.В. Вторая пятилетка: механизм экономической политики // Отечественная история. 1994. 3. С. 98-102.
9 第17回大会における討論に関しては、かなり古いものだが、塩川「1930年代ソ連における政策論争に関する一試論」(1)『社会科 学研究』第32巻第1 号、1980年、60-65頁参照。
10 これについては、塩川『ソヴェト社会政策史研究』東京大学出版会、1991年、368-370頁参照。
11 内田健二「大テロルの一側面」『大東法学』第6巻第2号、1997年、197-198頁。
12 富田武「大テロル前夜の政治状況 - スターリン憲法の制定過程」溪内謙、荒田洋編『スターリン時代の国家と社会』木鐸社、1984年; 同「ソ連のスペイン連帯運動と外交政策」スペイン史学会編『スペイン内戦と国際政治』彩流社、1990年。
13 Поляков Ю.А. (Ред.). От капитализма к социализму. Т. 2. M., 1981. С. 269, 271; Народ-ное хозяйство СССР. 1922-1972 гг.M., 1972. С. 500, 516, 531, 556参照。なお、1959年センサス報告書にも同様の数字があげられており、細かく見比べるとわずかな違いがあるが、だいたい一致している。Итоги Всесоюзной переписи населения 1959 года. Сводный том. М., 1962. С. 88-89. ソ連解体直後に刊行された1939年センサス報告書では、9-49歳層と50歳以上層とに分けた数字があげられており、これも1959年センサスに引用さ れている数字とわずかに食い違うが大まかには一致する。 Всесоюзная перепись населения 1939 года. М., 1992. С. 39-40.
14 奥田央『ヴォルガの革命』東京大学出版会、1996年、573-574, 637頁; 塩川「1930年代ソ連における政策論争に関する一試論」(2)『社会科学研究』第32巻第2号、1980年、117-119頁。
15 Исторический архив. 1992. 1. С. 125-128. また、Московские новости.1992. 25 (21 июня). С. 19 にも抜粋がある。
16 このテキストについては、塩川『ソ連言語政策史の若干の問題』(北海道大学スラブ研究センター、重点領域報告輯No. 42、1997年)で紹介した。
17 Исторический архив. 1994. 4. С. 147-152.
18 Известия. 4 декабря 1934. С. 1; Правда. 4 декабря 1934. С. 1. ついでながら、フルシチョフ秘密報告も、この要約記事を利用している。Известия ЦК КПСС. 1989. 3. С. 138.
19 Правда. 5 декабря 1934. С. 1; СЗ СССР. 1934. 64. Ст. 459; Сборник документов по истории уголовного законодательства СССР и РСФСР. 1917-1952 гг. М. 1953. С. 347. 最後の文献では、どういうわけか「中央執行委員会・人民委員会議決定」となっているが、何かの誤りであろう。私自身、この文献に引きずられて、「盛期ス ターリン時代」、209頁では「中央執行委員会・人民委員会議決定」と記してしまった。
20 История второй мировой войны 1939-1945. в 12 томах. Т. 1. М., 1973, С. 283-284; Документы внешней политики СССР. Т. XVI. M., 1970. С. 876-877; История внешней политики СССР. Т. 1. M., 1976. С. 308-309; История внешней политики СССР. Т. 1. M., 1980. С. 302-303(このうちの第2の文献については、本書の注でも言及がある); 横手慎二「ソ連外交の『転換』」、182頁など。
21 なお横手慎二は、中央委員会決定が先に採択され(12日)、次に政治局決定(19あるいは20日)があったという順序は異様であり、 「いわれるところのスターリンの地位弱化という状況の産物なのかもしれない」としているが、これは当たらない。そもそも、「中央委員会決定」とは、「中央 委員会総会決定」とは異なり、実質上は政治局が採択するものであるから、レヴェルを異にする二つの決定があったわけではなく、どちらも政治局が採択したと 考えるべきである。つまり、12日の「中央委員会決定」も実質上は政治局の決定であり、19日の方は、それをうけた上で、それを更に具体化する第2の政治 局決定と考えれば、少なくとも形式的には整合性があることになる(内容的に、第1の決定と第2の決定の間に差異があるか、もしあるとすればそれは何を意味 するかなどは、第1の決定のテキストがはっきりするまでは依然として分からないが)。

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