SRC Home
I.大学院教育の特徴 II.学位 III.大学院の入学試験
修士課程(博士前期課程) 博士課程(博士後期課程)
一般入試 外国人留学生特別入試 社会人特別入試 一般入試 社会人特別入試
大学院ニュース 授業紹介 大学院生助成 在籍者 研究テーマ一覧 学位論文一覧 修了者の声 問い合わせ先

修了者の声 大武由紀子(2018年度博士号取得)

“スラ研”と私

大武由紀子(北海道大学文学院専門研究員)

昨年(2018年)3月31日、デッドラインぎりぎりに博士論文を提出した。横浜市立高校社会科(世界史)教諭の社会人として修士課程に入学したのが2002年、2年後に修士論文を出して元の職場に戻った。大小様々な事件の多い、しかし楽しい生徒たちとの日々に終止符を打つことになった定年退職を機に博士課程に再入学した(2013年4月)。その時点で博士課程に残されていたのは4年の在籍期間(退学後1年以内の論文提出を加えて5年)だった。当時、自分自身でさえ博士論文提出の可能性を疑問視していた。「若い方たちでさえ長い年月をかけてやっとの思いで提出する博士論文を、ロシア留学さえもまだ果たしていない私にできるのだろうか・・多分・・否」。そのような逡巡を押して再びスラ研のドアを叩いたのは何だったのか。

今、窓の外に武蔵の国と相模の国の境※1(現在では横浜市と藤沢市の境)を流れる境川沿いの満開の桜並木を眺めながら、「修了者の声」の原稿を前にここまでの時間の長さに途方に暮れている。気が付けば修士入学から博士修了まで、その間本来の教師の仕事に復職した期間を入れて(この間、本業と研究という非生産的でどう考えても不可能な二足の草鞋を履いて細々研究を続け、年休の取れる範囲で総合演習に参加し報告した)15年に及ぶ年月になった。

3人の子供の一番下が大学に入学した2002年春、丁度前年に文科省によって創設された「大学院修学休業制度」というそのものずばりの名称の、しかしそれを利用する側にとっては経済的にこの上なく過酷な制度を利用して※2、そして夫と子供たちに(一応)承諾を得て、相模の国から蝦夷地札幌に移り住んだ(札幌は私にとって19才まで住んだ故郷でもあり、この意味でスラ研は私を札幌に30年ぶりに引き戻してくれた恩人でもある)。

自分の内外に様ざまなバイアスを日々抱え、感じていた教師の生活から、一気に学術の場であるスラ研に身を移し、そこで過ごした修士課程の2年間が、紆余曲折の長きにわたって研究を諦めずに博士論文提出まで私を牽引してくれた1つの要因だったと思う。それはスラ研に大学院が設立された2年目に当たり、学術を真摯に追求するという点で全くバイアスのかからない(と私には思えた)場であり、今も敬愛の念を覚える教授陣の瞠目する授業内容だった。

職場でのちょっとしたバイアス――1930年代のナチス・ドイツとソヴィエト・ロシアに関する私の授業に対する同僚からの批判――が私に大学院で再び勉強することを促す一つの要因であり、このバイアスを解決するために(学術という点で)バイアスレスのスラ研――つまり学生の出自も年齢も、勿論男女の差も全く度外視し、ただ研究の内容とその成果(端的には金曜日2限目の総合特別演習の発表)のみが激しくかつ厳しく問われる全き学術の場――に来たことになる。さらに職場での同僚からの批判が私の15年に及ぶ研究テーマ、つまり1920年代〜30年代ソヴィエトのアヴァンギャルド芸術家にしてスターリン翼賛ポスターの第一人者であるラトヴィア人画家グスタフ・クルーツィスの研究に繋がっている。

修士の2年間を、年若い学友たち(「学友」とは修士仲間のA氏の言葉であるが)と連帯感さえ感じながらスラ研の激しく厳しい授業(泣きそうだった)と学術レヴェルに共に立ち向かう「(疑似)青春の日々」とすれば、博士課程は、孤独にさいなまれつつ机に向かう「絶望の日々」だった。

博士課程に再入学した2014年4月、研究仲間の若い友人にそれを報告すると、折り返しに彼女から「つらいだけの博士課程」に入学したことに応援のメッセージが届けられた。「つらいだけ?」と思ったその言葉は見事に的中した。そこにはスクラムを組む学友は見当たらなかったし、博士課程として当然のことに常に一人ぼっちだった。ロシア語資料を前に終日必死で読んで1頁どころか数行しか進まない日々、いたたまれずに雪の降る夜に家の近隣を歩きまわることも多々あった。2・3日集中して机に向かっていると孤独感にさいなまれ、淋しさのあまり家に電話すると電話口に出た娘に「好きで出て行ったのでしょう」と優しく諭され、あっそうかとまた机に向かった。孤独感とともに画家クルーツィスの持つ多声性に惹きつけられていった。

4年の博士課程在籍中、10ヶ月をモスクワ大学歴史学部20世紀美術史学科で勉強できたことは「つらいだけの博士課程」の中の数少ない心温まる灯の1つである。私の年齢が問題視されヴィザ発行が遅滞し、そのため1か月半遅れて10月中旬にモスクワのシェレメチエヴォに夕刻遅くに到着した私を迎えてくれたのはスラ研に研究員として滞在していたH氏だった。どういう訳か彼女はタクシーを使わずエクスプレスを用い、その終着駅のベラルースカヤでメトロに乗り替えた。モスクワ大学の寮があるウニヴェルシテート駅までいくつもの階段を、特大の重いトランクをまるで自分の荷物かのようにぐいぐいと引っ張り上げながらメトロを乗り継いでやっと目的の駅に降り立った。そして雪の降る寒い夜道をガタガタと大きく揺れるトランクを無言で引きずりながら警備員の立つゲートを潜り抜けて暗く古びた本部の寮にたどり着いた。H氏の剛力の助けで幕が落とされたモスクワ大での日々に、今でもやり取りが続く研究に繋がるロシアの同性の友人たちを得ることができた――これもスラ研への感謝に繋がる。

2015年7月、帰国してすぐに全く予期しないことに上の娘が突発性難聴を発症し、7カ月間研究を途絶させ、札幌からも撤退して家族と共に過ごした。聴力は次第に回復し、職場復帰も問題なくなった博士課程最後の年度の2017年4月に研究を再開させ、さらにこの年度最後の月である3月にモスクワのトレチャコフ美術館とラトヴィア・リガの国立ラトヴィア美術館に3週間の資料収集に出かけた。こうしてデッドラインぎりぎりにすべてが終了した。

修士から始まり御退官までロシア語の初歩からご指導いただいた望月哲男先生、そしてその後の嫌な役回りをお引き受けいただき歴史という新たな視点から真摯な御指導をいただいた宇山智彦先生のお二人にスラ研でお世話になった全ての方々を代表して心からお礼を申しあげます。最後に末尾を借りて、生活の不便を口にもせず長い間黙々と支えてくれた夫と3人の子供たちに衷心より感謝したい。

(2019年4月25日)


※1 この原稿を宇山智彦先生に提出した所、折り返しに「境川が武蔵国と相模国の境だったのは町田などの上流部で、藤沢市にさしかかるあたりは、対岸の横浜市泉区を含め両側とも相模国だったように思うのですが・・・」とのメールを頂いた。はっと思い調べたところ先生の御指摘の通り、我が家の対岸もかつて相模国でした。泉区はかつて10年間居住した土地であり、「相模国鎌倉郡」と明記された石柱の立つお寺をよく散歩したことを思い出し、先生の慧眼に首を垂れると共に、自らの身を大いに恥じ入りました。

※2 「大学院修学休業制度」は、文科省により2001年に設立されたノーワーク・ノーペイの原則に基づく制度。給与は諸手当も含み全額支給なし、共済等の掛け金は休業全期間を制度利用者自身が月々支払う(大武の場合月約2.5万)。修学に関わる授業料等の経費全ては制度利用者の負担であり、それに加えて前年度の収入額に起因する様々な問題――奨学金及びそれに類する公的援助(大学の寮の利用、授業料の部分的免除等)の適用外など――が派生する。加えて2年間の休業は就業年数に数え入れられ退職金の2年分の減額につながる。修学に関しては、研究テーマに関する縛りはないが、高校教師のより高位な免許である専修免許状の取得が条件とされることから、通常の修士課程の必要取得単位数より18単位上乗せが課せられる。加えて専修免許取得はその後の給与に反映されない(経験者としてこの18単位上乗せは、自分自身のテーマに基づく研究にとって非常に重い足枷になった)。文科省のHPによると、本制度の設置当初(2002年)の高校教師の利用者は150人、翌年に162人のピークを迎え、その後は下降の一途をたどり2016年(平成28年)には80人とほぼ半減している。その中で男女の占める割合は男性29、女性51人であり、家族扶養の責をより多く担う男性教師にとってより経済的に困難な事実を示す(横浜市立高校職員における本制度の2002年〜2016年の利用者総数8名のうち男性0人、女性8人であった)。私は失礼を顧みずこの場を借りて、現役教師の再学習の数少ない場の一つである本制度に対して、完全な経済的自己責任で自己研鑽を目指すという点から専修免許状取得の枠を外すことを(後に続く方々のためにも)当該の方々に強く望むものである。


[修了者の声index]

SRC Home